ブックタイトル令和3年度版「中学社会 歴史的分野」内容解説資料

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令和3年度版「中学社会 歴史的分野」内容解説資料

第4 編 近世の日本と世界社会が安定していくなかで,それまで公く家げや僧そうのものとされてきた学問を,武士や庶しょ民みんも学ぶようになりました。 武士の社会では,中国で生まれた儒じゅ学がく,なかでも主君への忠ちゅう義ぎや親への孝こう行こうを大切にする朱しゅ子し 学がくが広まりました。5 代将しょう軍ぐん徳とく川がわ綱つな吉よしは,孔こう子しをまつる聖せい堂どうを江え戸どの湯ゆ島しまに建て,武士に学問を奨しょう励れいし,政治の安定をはかろうとしました。各藩はんでも,武士の教育に力を入れるようになり,18世紀中ごろには,各地に藩はん校こうが建てられました。 17世紀中ごろから,水み戸と藩主徳とく川がわ光みつ圀くには,全国から資料を集め,日本の歴史書である『大だい日に本ほん史し』の編集を始めました。 関せき孝たか和かずは,和わ算さんとよばれる日本式の数学を確立し,宮みや崎ざき安やす貞さだは,西日本の各地を回って作物の栽さい培ばい法を研究するなどして『農業全書』を書き,農業の発はっ展てんに役立てました。江戸時代になると,庶民の衣服にはそれまでの麻あさなどに代わって丈じょう夫ぶであつかいやすい木も綿めんが広く用いられるようになりました。食事は, 1 日3 食が一いっ般ぱん的となり,住居では,何世代も住めるような,礎そ石せきの上に柱を立てる家が増えました。 また,各地に読み・書き・そろばんを教える寺子屋が増え,民衆の教育水準が高まり,たくさんの本をもつ蔵ぞう書しょ家も現れました。24P.71 P.1462111 ?15 192223 161725 江戸時代前期の文化と学問の特色をまとめ,それらが生まれた理由を説明しましょう。確認学問と教育庶しょ民みんのくらし24 江戸時代前半の学問0 200km幕府 昌平坂学問所ばくふしょうへいざかがくもんじょ和歌山 学習館わ かやまがくしゅうかん岡山 閑谷学校おかやましずたにがっこう仙台 養賢堂せんだい秋田 明徳館あきためいとくかん弘前 稽古館ひろさきけい こ かん会津 日新館あいづ水戸 弘道館み と鳥取 尚徳館とっとりしょうとくかんようけんどうにっしんかんこうどうかん福山 誠之館ふくやませいしかん萩 明倫館はぎめいりんかん土佐 教授館と さこうじゅかん福岡 修猷館ふくおかしゅうゆうかん熊本 時習館くまもとじしゅうかん鹿児島 造士館か ごしまぞうしかん佐賀 弘道館さ がこうどうかん盛岡 作人館もりおかさくじんかん庄内 致道館しょうないちどうかん金沢 明倫堂かなざわめいりんどう名古屋 明倫堂なごやめいりんどう桑名 立教館くわなりっきょうかん姫路 好古堂ひめじこうこどう松江 修道館まつえしゅうどうかん岡山 花畠教場おかやまはなばたけきょうじょう広島 修道館ひろしましゅうどうかん飫肥 振徳堂お びしんとくどう振しん徳とく堂どう(宮みや崎ざき県日にち南なん市 飫お肥び城じょう下か 町まち保ほ 存ぞん会蔵) 飫肥藩はんの藩校で,明めい治じ時代に外務大臣となった小こ村むら寿じゅ太た郎ろう( P.189)もここで学びました。11 閑しず谷たに学がっ校こう(岡おか山やま県備び 前ぜん市 特別史し 跡せき旧閑谷学校顕けん彰しょう保存会蔵) 岡山藩が1670年に建てた現存する世界で最も古い庶しょ民みんのための公立学校です。国宝12養よう賢けん堂の旧正門(宮みや城ぎ 県仙せん台だい市 泰たい心しん院いん山門) 仙台藩の藩校の建物のなかで,唯ゆい一いつ残されたものです。1518 酒井館長弘こう道どう館かん(茨いばら城き 県水み戸と市 弘道館事務所蔵) 水戸藩の藩校で,当時の敷しき地ち面積は藩校として日本最大規き模ぼの広さがありました。13聖堂学問所の講義のようす(聖堂講こう釈しゃく図 東京大学史料編へん纂さん21 所蔵)『大日本史』(東とう京きょう都 玉たま川がわ大学教育博物館蔵) この本は,15世紀初めまでの日本の歴史を,代々の天てん皇のうごとに記したもので,尊そん王のう思想とよばれる天皇家を尊とうとぶ考え方のよりどころとされました。23庄内藩の藩校致道館(上)と20 致道博物館に保存されている明治時代に建てられた旧西にし田た川がわ郡役所(下)19徳川光圀(1628~1700)(茨いばら城き 県水み戸と市 徳川ミュージアム蔵)22時代世紀できごと江戸時代17水み戸と藩で『大だい日に 本ほん史し 』の編集開始(1657)5代将軍綱つな吉よしが湯ゆ島しま聖せい堂どうを建てる(1691)18 宮みや崎ざき安やす貞ただ『農業全書』を刊行(1697)19 各地に藩はん校こうが建てられるようになる(18世紀中ごろ)館長の酒さか井いさんの話 城下町鶴岡の致道博物館は鶴ヶ岡城じょう三の丸にあります。庄しょう内ない藩は徳とく川がわ四天王の一人である酒さか井い忠ただ次つぐを祖とし,3代忠ただ勝かつが1622年に鶴岡へ入り,以来酒井家が治めました。博物館は,1950(昭和25)年,16代忠ただ良ながが郷きょう土ど文化向上のため,旧藩校致道館の資料および土地建物を寄付して発足しました。そして,貴き重ちょうな建物保存や美術・歴史・民俗・考古資料など多分野にわたって発信しています。博物館名は,藩校名にちなみ,論ろん語ごの「君くん子し学んで以もってその道を致いたす」が出典で,致道館精神「人は大たい宝ほう」を受けついでいます。致ち道どう博物館(山やま形がた県鶴つる岡おか市) 寺子屋のようす(一いっ掃そう百ひゃく態たい 愛あい知ち 県田た 原はら市蔵)25主な藩校 武士の子どもは,12歳さいごろから藩校に通いました。江戸時代中期までは儒じゅ学がくが中心で,後期になると,算学・医学・洋学・兵学などの実用的な科目を学びました。資料活用みなさんの地ち域いきで,藩校が前身の学校があるか調べましょう。14関せき孝たか和かずの著ちょ作さく(『括かつ要よう算さん法ぽう』 東京都 国立国会図書館蔵) 円周率の計算について解説している部分です。16『農業全書』(国立国会図書館蔵)17144 145世紀B.C.A.D.123456789101112131415161718192021時代旧石器縄文弥生古墳飛鳥奈良平安鎌倉南北朝室町戦国江戸明治昭和平成令和安土桃山大正5101520 学習指導要領の改訂に対応して,琉球・アイヌの文化に関する教材の充実を図りました。第4 編 近世の日本と世界室むろ町まち時代にめばえた民みん衆しゅうの文化は,17世紀末から18世紀初めにかけて,上かみ方がたを中心に,豊かな町人の文化として花開きました。そのころの元禄という年号をとって,この文化を,元げん禄ろく文ぶん化か といいます。 大おお阪さかの町人の井い 原はら西さい鶴かくは,当時の世相や町人・武士のくらしをありのままに小説にえがき,その作品は浮うき世よ 草ぞう子し とよばれました。武士出身の近ちか松まつ門もん左ざ衛え門もんは,きびしい身分制のなかで義理と人情の板ばさみになやむ男女の気持ちを人にん形ぎょう浄じょう瑠る璃りの台本に書いて,人々を感動させました。演えん劇げきとしての形を整えた歌か舞ぶ伎きは,上方に坂さか田た藤とう十じゅう郎ろう,江戸に市いち川かわ団だん十じゅう郎ろうなどの名めい優ゆうが出て,いっそう人気を高めました。また,松まつ尾お芭ば蕉しょうは,各地を旅しながら俳はい諧かいを芸術にまで高めました。絵画では,俵たわら屋や宗そう達たつやその影えい響きょうを受けた尾お 形がた光こう琳りんが装そう飾しょく画がを大成し,菱ひし川かわ師もろ宣のぶは町人の風ふう俗ぞくをえがいて浮うき世よ絵えを始めました。浮世絵は,のちに版画として刊行され,広く民衆に愛好されました。P.1419103214 6 587 7元げん禄ろく文化江え戸ど時代前期の文化と学問-花開く町人文化と学問の奨しょう励れい- 学習 課題見方・考え方時期,場所,担になった人々に着目しましょう。江戸時代前期には,どのような特色をもった文化や学問が発達したのでしょうか。つながり井原西鶴(1642~1693)(東京国立博物館蔵)10菱川師宣(1618~1694)の浮世絵(見返り美人図 東京国立博物館蔵)7尾形光琳(1658~1716)の装飾画(燕かき子つ 花ばた図ず屏びょう風ぶ  たて151cm×横339cm 東京都 根ね津づ美術館蔵)国宝8どうして,このような文化が発達したのでしょうか。深めよう芸能文芸松まつ尾お芭ば蕉しょう(1644~1694)(天てん理り 大学附ふ 属ぞく天理図書館蔵)4絵画近松門左衛門(1653~1724)(大おお阪さか歴史博物館蔵)3江戸時代の人々の楽しみはどのようなものだったのかな。芭蕉がよんだ句と6 その舞ぶ台たいの平ひら泉いずみ(岩いわ手て県)52 現在も演じられる近ちか松まつ門もん左ざ衛え門もん作の人形浄じょう瑠る璃り文ぶん楽らく(『曾そ根ね崎ざき心しん中じゅう』 国立文楽劇場) 文楽は,物語を語る太た夫ゆう,三しゃ味み線せん弾ひき,人形遣づかいの三者で演じます。9 元禄文化時代世紀できごと場所江戸時代17家いえ康やすが江え戸ど幕ばく府ふ を開く(1603)井い原はら西さい鶴かくが浮うき世よ 草ぞう子し を出版(1682)18松まつ尾お芭ば蕉しょうが東北・北陸への旅に出発(1689)菱ひし川かわ師もろ宣のぶが浮世絵を始める(17世紀末)19近ちか松まつ門もん左ざ衛え門もん『曾そ根ね崎ざき心しん中じゅう』初演(1703)江戸幕府がほろぶ(1867)夏草や 兵つわものどもが 夢の跡あ と五さ月み雨だれの 降りのこしてや 光ひかり堂ど う(『奥お くの細ほ そ道み ち』)小学校 学習した人物:近松門左衛門0 200km上方が中心2歌か舞ぶ伎き(浮うき絵え 劇げき場じょう図 東とう京きょう都 平ひら木き 浮世絵美術館蔵) 手前の左手の花道に立つのが市いち川かわ団だん十じゅう郎ろうです。 資料活用歌舞伎を楽しんでいるのはどのような人たちか,観客の身分や性別に注目して読み取りましょう。1142 143世紀B.A.123456789101112131415161718192021510↓P.280-281 文化史は,必要に応じてビジュアルな3,4ページ構成にしました。読み取りやすい大きさで資料を掲載し,効果的に文化史の学習ができる紙面にしました。2 琉球・アイヌの文化のさらなる充実1 資料を大きく,豊富に掲載した文化史ページ第4 編 近世の日本と世界室むろ町まち時代にめばえた民みん衆しゅうの文化は,17世紀末から18世紀初めにかけて,上かみ方がたを中心に,豊かな町人の文化として花開きました。そのころの元禄という年号をとって,この文化を,元げん禄ろく文ぶん化か といいます。 大おお阪さかの町人の井い 原はら西さい鶴かくは,当時の世相や町人・武士のくらしをありのままに小説にえがき,その作品は浮うき世よ 草ぞう子し とよばれました。武士出身の近ちか松まつ門もん左ざ衛え門もんは,きびしい身分制のなかで義理と人情の板ばさみになやむ男女の気持ちを人にん形ぎょう浄じょう瑠る璃りの台本に書いて,人々を感動させました。演えん劇げきとしての形を整えた歌か舞ぶ伎きは,上方に坂さか田た藤とう十じゅう郎ろう,江戸に市いち川かわ団だん十じゅう郎ろうなどの名めい優ゆうが出て,いっそう人気を高めました。また,松まつ尾お芭ば蕉しょうは,各地を旅しながら俳はい諧かいを芸術にまで高めました。絵画では,俵たわら屋や宗そう達たつやその影えい響きょうを受けた尾お 形がた光こう琳りんが装そう飾しょく画がを大成し,菱ひし川かわ師もろ宣のぶは町人の風ふう俗ぞくをえがいて浮うき世よ絵えを始めました。浮世絵は,のちに版画として刊行され,広く民衆に愛好されました。P.1419103214 6 587 7元げん禄ろく文化江え戸ど時代前期の文化と学問-花開く町人文化と学問の奨しょう励れい- 学習 課題見方・考え方時期,場所,担になった人々に着目しましょう。江戸時代前期には,どのような特色をもった文化や学問が発達したのでしょうか。つながり井原西鶴(1642~1693)(東京国立博物館蔵)10菱川師宣(1618~1694)の浮世絵(見返り美人図 東京国立博物館蔵)7尾形光琳(1658~1716)の装飾画(燕かき子つ 花ばた図ず屏びょう風ぶ  たて151cm×横339cm 東京都 根ね津づ美術館蔵)国宝8どうして,このような文化が発達したのでしょうか。深めよう芸能文芸松まつ尾お芭ば蕉しょう(1644~1694)(天てん理り 大学附ふ 属ぞく天理図書館蔵)4絵画近松門左衛門(1653~1724)(大おお阪さか歴史博物館蔵)3江戸時代の人々の楽しみはどのようなものだったのかな。芭蕉がよんだ句と6 その舞ぶ台たいの平ひら泉いずみ(岩いわ手て県)52 現在も演じられる近ちか松まつ門もん左ざ衛え門もん作の人形浄じょう瑠る璃り文ぶん楽らく(『曾そ根ね崎ざき心しん中じゅう』 国立文楽劇場) 文楽は,物語を語る太た夫ゆう,三しゃ味み線せん弾ひき,人形遣づかいの三者で演じます。9 元禄文化時代世紀できごと場所江戸時代17家いえ康やすが江え戸ど幕ばく府ふ を開く(1603)井い原はら西さい鶴かくが浮うき世よ 草ぞう子し を出版(1682)18松まつ尾お芭ば蕉しょうが東北・北陸への旅に出発(1689)菱ひし川かわ師もろ宣のぶが浮世絵を始める(17世紀末)19近ちか松まつ門もん左ざ衛え門もん『曾そ根ね崎ざき心しん中じゅう』初演(1703)江戸幕府がほろぶ(1867)夏草や 兵つわものどもが 夢の跡あ と五さ月み雨だれの 降りのこしてや 光ひかり堂ど う(『奥おくの細ほ そ道み ち』)小学校 学習した人物:近松門左衛門0 200km上方が中心2歌か舞ぶ伎き(浮うき絵え 劇げき場じょう図 東とう京きょう都 平ひら木き 浮世絵美術館蔵) 手前の左手の花道に立つのが市いち川かわ団だん十じゅう郎ろうです。 資料活用歌舞伎を楽しんでいるのはどのような人たちか,観客の身分や性別に注目して読み取りましょう。1142 143世紀B.C.A.D.123456789101112131415161718192021時代旧石器縄文弥生古墳飛鳥奈良平安鎌倉南北朝室町戦国江戸明治昭和平成令和安土桃山大正510ポイント1歴史を楽しく確実に学ぶ沖おき縄なわ各地で行われるハーリー(ハーレー) 航海の安全や,豊漁を祈いのる祭りで。こぎ手たちが爬は竜りゅう船せんとよばれる船へ乗りこみ,速さを競います。約600年前に中国から伝えられたとされています。写真は,那な覇はハーリーのようすです。11 紅びん型がた(沖縄県 那覇市歴史博物館蔵) 琉球の伝統的な染そめ方です。外国との交易により,琉球には染せん色しょくの材料や技術がもたらされていました。12久く米め村でつくられた外交文書(沖縄県那な覇は市) 琉球王国の外交を支えたのは,久米村(現在の那覇市久米)に住む,中国出身の人々でした。彼らは,三山が統一される以前の中ちゅう山ざん王の時代から,この地で外交文書の作成や商取引などの仕事にあたっていました。琉球王国成立後,中国の制度や学芸を学ぶため,久米村から多くの若者が留学生として中国にわたりました。ワ,マラッカ,スマトラなど,実にさまざまな国々と外交を結んでいたことがわかります。残念『歴代宝案』(影えい印いん本ぼん 第1集 第1巻沖縄県立図書館蔵)15首里城の守しゅ礼れい門もん 「守しゅ禮れい(礼)之の邦くに(国)」と書かれた額があります。「守礼」とは,「礼れい儀ぎを守る」という意味です。13万ばん国こく津しん梁りょうの鐘(沖縄県立博物館・美術館蔵) 1458年につくられた銅どう鐘しょうで,首しゅ里り城じょう正せい殿でんにかけられていました。銘めい文ぶんには,琉球が南海の景勝地にあること,中国・日本と密みっ接せつな関係をもちながら,両国の中間に位置する島として,万国の津梁(架かけ橋)となっていること,国内に諸しょ国こくの産物や宝ほう物もつが満ちあふれていることなどが記されています。14くらし交流イオマンテのようす(アイヌ熊くま送おくりの図 函はこ館だて市中央図書館蔵)11蝦夷地のこんぶ生産のようす (日本山海名物図ず絵え 松まつ前まえ昆こん布ぶ  東とう京きょう都 国立国会図書館蔵)16アットゥシ 木の皮からとった繊せん維いを使ってつくった服です。(北海道 旭あさひ川かわ市博物館蔵)12ルウンペ 木綿の布を使ってつくった服です。(国立アイヌ民族博物館設立準備室蔵)13信仰くらし国立アイヌ民族博物館(北海道白しら老おい町) 2020年,北海道白老町に,国立アイヌ民族博物館が開館します。日本の先住民族であるアイヌの歴史や文化を「ことば」「世界(信しん仰こう)」「くらし」「歴史」「しごと」「交流」のテーマから学ぶことができます。日本だけでなく世界の人々がアイヌ民族の歴こんぶはめぐる 18世紀後半になると,大阪にこんぶをあつかう問屋ができ,加工品を売る店も目立つようになりました。松前・蝦夷地から北きた前まえ船ぶねが日本海を経由してもたらされたこんぶは,上かみ方がた( P.141)で消費されただけでなく,大阪から各地に運ばれました。 行き先の一つに琉りゅう球きゅうがありました。運んだのは薩さつ摩ま藩です。こんぶは琉球料理に欠かせない食材となり,また,琉球から中国へ向けて輸出されました。交流タシロ 狩猟に使う山刀で,アイヌ模様が刻きざまれています。(長さ43cm アイヌ民族文化財団蔵)14沖縄のこんぶ料理「クーブイリチー」15  コーナーで資料活用能力の向上をサポートします。注目写真や絵画など豊富な教材でその時代像や文化が鮮やかに22 ↑P.92 琉球の文化↑P.132 アイヌの文化2 佐太神社の佐陀神能(島根県松江市)日本の神話● 神話とは何か 古代の人々は,この世界はどのようなものか,自分たちの社会や国家がいかに形づくられたかという問題を,神話によって説明しました。神話には,神々の重要なできごとが語られ,人々はそれを信じて行動のよりどころとしました。有名なギリシャ( P.24)やインドの神話のほかにも,世界の多くの民族がそれぞれの神話をもっていました。 日本では,『古こ事じ記き』と『日に 本ほん書しょ紀き 』の最初の部分が神々の物語です。この神話は,古代の人々の信しん仰こうや考え方を知るための手がかりとなっています。●『古事記』『日本書紀』の神話 日本の神話によれば,天と地が分かれると,天(高たか天まが原はら)に神々が現れました。最後に現れたのがイザナキとイザナミで,二神は夫ふう婦ふ となって日本の島々を生みました。さらにイザナキは女神のアマテラス,弟神のスサノオを生みます。アマテラスは高天原を治めましたが,乱らん暴ぼうなスサノオは追放され,出いず雲も(現在の島しま根ね県)に降お りてきました。その子孫がオオクニヌシで,神々と協力して国土をつくりました。やがてアマテラスは子孫を地上に送り,抵てい抗こうする神々をしりぞけ,オ歴史を● さまざまな神話 『日本書紀』『古事記』の神話は,天皇や貴き族ぞくの祖先とされる神々の行いと,天皇を中心とする国家のなり立ちをえがきました。出雲や日向を舞ぶ台たいとする神話には,各地に伝えられた神話のさまがうかがわれますが,朝ちょう廷ていが一つの神話にまとめあげたとき,素そ朴ぼくな内容は失われたようです。しかし,『風ふ土ど記き』にはみずみずしい,地ち域いき色しょく豊かな神話が伝えられています。また,日本の神話には,世界の神話とよく似た内容も含ふくまれています。支配者となる神が天から降おりてくる神話はアジアの東北部に広く分布し,海を舞台とする神話は東南アジア系のものとされます。日本の神話にはいろいろなルーツがあり,元来はそれぞれの地域に根ざした,多様な内容をもつものだったのでしょう。なお,現在でも島根県佐さ太だ神社の「佐さ陀だ神しん能のう」,宮みや崎ざき県高千穂町2 現代に生きる私たちにとって神話とは,その時代の人々の信しん仰こうやものの見方を知るだいじな手がかりです。ここでは,当時の人々が残した神話について,見ていきましょう。オクニヌシから国土をゆずり受けます。さらにアマテラスは,ニニギを日ひゅうが向の高たか千ち 穂ほの峰みねに降ふらせました。ニニギの孫が大やまと和(現在の奈な良ら 県)を征せい服ふくして,初代の神じん武む天てん皇のうになったとされます。第4 編 近世の日本と世界社会が安定していくなかで,それまで公く家げや僧そうのものとされてきた学問を,武士や庶しょ民みんも学ぶようになりました。 武士の社会では,中国で生まれた儒じゅ学がく,なかでも主君への忠ちゅう義ぎや親への孝こう行こうを大切にする朱しゅ子し 学がくが広まりました。5 代将しょう軍ぐん徳とく川がわ綱つな吉よしは,孔こう子しをまつる聖せい堂どうを江え戸どの湯ゆ島しまに建て,武士に学問を奨しょう励れいし,政治の安定をはかろうとしました。各藩はんでも,武士の教育に力を入れるようになり,18世紀中ごろには,各地に藩はん校こうが建てられました。 17世紀中ごろから,水み戸と藩主徳とく川がわ光みつ圀くには,全国から資料を集め,日本の歴史書である『大だい日に本ほん史し』の編集を始めました。 関せき孝たか和かずは,和わ算さんとよばれる日本式の数学を確立し,宮みや崎ざき安やす貞さだは,西日本の各地を回って作物の栽さい培ばい法を研究するなどして『農業全書』を書き,農業の発はっ展てんに役立てました。江戸時代になると,庶民の衣服にはそれまでの麻あさなどに代わって丈じょう夫ぶであつかいやすい木も綿めんが広く用いられるようになりました。食事は, 1 日3 食が一いっ般ぱん的となり,住居では,何世代も住めるような,礎そ石せきの上に柱を立てる家が増えました。 また,各地に読み・書き・そろばんを教える寺子屋が増え,民衆の教育水準が高まり,たくさんの本をもつ蔵ぞう書しょ家も現れました。24P.71 P.1462111 ?15 192223 161725 江戸時代前期の文化と学問の特色をまとめ,それらが生まれた理由を説明しましょう。確認学問と教育庶しょ民みんのくらし24 江戸時代前半の学問0 200km幕府 昌平坂学問所ばくふしょうへいざかがくもんじょ和歌山 学習館わ かやまがくしゅうかん岡山 閑谷学校おかやましずたにがっこう仙台 養賢堂せんだい秋田 明徳館あきためいとくかん弘前 稽古館ひろさきけい こ かん会津 日新館あいづ水戸 弘道館み と鳥取 尚徳館とっとりしょうとくかんようけんどうにっしんかんこうどうかん福山 誠之館ふくやませいしかん萩 明倫館はぎめいりんかん土佐 教授館と さこうじゅかん福岡 修猷館ふくおかしゅうゆうかん熊本 時習館くまもとじしゅうかん鹿児島 造士館か ごしまぞうしかん佐賀 弘道館さ がこうどうかん盛岡 作人館もりおかさくじんかん庄内 致道館しょうないちどうかん金沢 明倫堂かなざわめいりんどう名古屋 明倫堂なごやめいりんどう桑名 立教館くわなりっきょうかん姫路 好古堂ひめじこうこどう松江 修道館まつえしゅうどうかん岡山 花畠教場おかやまはなばたけきょうじょう広島 修道館ひろしましゅうどうかん飫肥 振徳堂お びしんとくどう振しん徳とく堂どう(宮みや崎ざき県日にち南なん市 飫お肥び城じょう下か 町まち保ほ 存ぞん会蔵) 飫肥藩はんの藩校で,明めい治じ時代に外務大臣となった小こ村むら寿じゅ太た郎ろう( P.189)もここで学びました。11 閑しず谷たに学がっ校こう(岡おか山やま県備び 前ぜん市 特別史し 跡せき旧閑谷学校顕けん彰しょう保存会蔵) 岡山藩が1670年に建てた現存する世界で最も古い庶しょ民みんのための公立学校です。国宝12養よう賢けん堂の旧正門(宮みや城ぎ 県仙せん台だい市 泰たい心しん院いん山門) 仙台藩の藩校の建物のなかで,唯ゆい一いつ残されたものです。1518 酒井館長弘こう道どう館かん(茨いばら城き 県水み戸と市 弘道館事務所蔵) 水戸藩の藩校で,当時の敷しき地ち面積は藩校として日本最大規き模ぼの広さがありました。13聖堂学問所の講義のようす(聖堂講こう釈しゃく図 東京大学史料編へん纂さん21 所蔵)『大日本史』(東とう京きょう都 玉たま川がわ大学教育博物館蔵) この本は,15世紀初めまでの日本の歴史を,代々の天てん皇のうごとに記したもので,尊そん王のう思想とよばれる天皇家を尊とうとぶ考え方のよりどころとされました。23庄内藩の藩校致道館(上)と20 致道博物館に保存されている明治時代に建てられた旧西にし田た川がわ郡役所(下)19徳川光圀(1628~1700)(茨いばら城き 県水み戸と市 徳川ミュージアム蔵)22時代世紀できごと江戸時代17水み戸と藩で『大だい日に 本ほん史し 』の編集開始(1657)5代将軍綱つな吉よしが湯ゆ島しま聖せい堂どうを建てる(1691)18 宮みや崎ざき安やす貞ただ『農業全書』を刊行(1697)19 各地に藩はん校こうが建てられるようになる(18世紀中ごろ)館長の酒さか井いさんの話 城下町鶴岡の致道博物館は鶴ヶ岡城じょう三の丸にあります。庄しょう内ない藩は徳とく川がわ四天王の一人である酒さか井い忠ただ次つぐを祖とし,3代忠ただ勝かつが1622年に鶴岡へ入り,以来酒井家が治めました。博物館は,1950(昭和25)年,16代忠ただ良ながが郷きょう土ど文化向上のため,旧藩校致道館の資料および土地建物を寄付して発足しました。そして,貴き重ちょうな建物保存や美術・歴史・民俗・考古資料など多分野にわたって発信しています。博物館名は,藩校名にちなみ,論ろん語ごの「君くん子し学んで以もってその道を致いたす」が出典で,致道館精神「人は大たい宝ほう」を受けついでいます。致ち道どう博物館(山やま形がた県鶴つる岡おか市) 寺子屋のようす(一いっ掃そう百ひゃく態たい 愛あい知ち 県田た 原はら市蔵)25主な藩校 武士の子どもは,12歳さいごろから藩校に通いました。江戸時代中期までは儒じゅ学がくが中心で,後期になると,算学・医学・洋学・兵学などの実用的な科目を学びました。資料活用みなさんの地ち域いきで,藩校が前身の学校があるか調べましょう。14関せき孝たか和かずの著ちょ作さく(『括かつ要よう算さん法ぽう』 東京都 国立国会図書館蔵) 円周率の計算について解説している部分です。16『農業全書』(国立国会図書館蔵)17144 145世紀B.C.A.D.123456789101112131415161718192021時代旧石器縄文弥生古墳飛鳥奈良平安鎌倉南北朝室町戦国江戸明治昭和平成令和安土桃山大正5101520←↑P.142-145↑P.51第4 編 近世の日本と世界室むろ町まち時代にめばえた民みん衆しゅうの文化は,17世紀末から18世紀初めにかけて,上かみ方がたを中心に,豊かな町人の文化として花開きました。そのころの元禄という年号をとって,この文化を,元げん禄ろく文ぶん化か といいます。 大おお阪さかの町人の井い 原はら西さい鶴かくは,当時の世相や町人・武士のくらしをありのままに小説にえがき,その作品は浮うき世よ 草ぞう子し よばれました。武士出身の近ちか松まつ門もん左ざ衛え門もんは,きびしい身分制のなかで義理と人情の板ばさみになやむ男女の気持ちを人にん形ぎょう浄じょう瑠る璃りの台本に書いて,人々を感動させました。演えん劇げきとしての形を整えた歌か舞ぶ伎きは,上方に坂さか田た藤とう十じゅう郎ろう,江戸に市いち川かわ団だん十じゅう郎ろうなどの名めい優ゆうが出て,いっそう人気を高めました。また,松まつ尾お芭ば蕉しょうは,各地を旅しながら俳はい諧かいを芸術にまで高めました。絵画では,俵たわら屋や宗そう達たつやその影えい響きょうを受けた尾お 形がた光こう琳りんが装そう飾しょく画がを大成し,菱ひし川かわ師もろ宣のぶは町人の風ふう俗ぞくをえがいて浮うき世よ絵えを始めました。浮世絵は,のちに版画として刊行され,広く民衆に愛好されました。P.1419103214 6 587 7元げん禄ろく文化江え戸ど時代前期の文化と学問-花開く町人文化と学問の奨しょう励れい- 学習 課題見方・考え方時期,場所,担になった人々に着目しましょう。江戸時代前期には,どのような特色をもった文化や学問が発達したのでしょうか。つながり井原西鶴(1642~1693)(東京国立博物館蔵)10菱川師宣(1618~1694)の浮世絵(見返り美人図 東京国立博物館蔵)7尾形光琳(1658~1716)の装飾画(燕かき子つ 花ばた図ず屏びょう風ぶ  たて151cm×横339cm 東京都 根ね津づ美術館蔵)国宝8どうして,このような文化が発達したのでしょうか。深めよう芸能文芸松まつ尾お芭ば蕉しょう(1644~1694)(天てん理り 大学附ふ 属ぞく天理図書館蔵)4絵画近松門左衛門(1653~1724)(大おお阪さか歴史博物館蔵)3江戸時代の人々の楽しみはどのようなものだったのかな。芭蕉がよんだ句と6 その舞ぶ台たいの平ひら泉いずみ(岩いわ手て県)52 現在も演じられる近ちか松まつ門もん左ざ衛え門もん作の人形浄じょう瑠る璃り文ぶん楽らく(『曾そ根ね崎ざき心しん中じゅう』 国立文楽劇場) 文楽は,物語を語る太た夫ゆう,三しゃ味み線せん弾ひき,人形遣づかいの三者で演じます。9 元禄文化時代世紀できごと場所江戸時代17家いえ康やすが江え戸ど幕ばく府ふ を開く(1603)井い原はら西さい鶴かくが浮うき世よ 草ぞう子し を出版(1682)18松まつ尾お芭ば蕉しょうが東北・北陸への旅に出発(1689)菱ひし川かわ師もろ宣のぶが浮世絵を始める(17世紀末)19近ちか松まつ門もん左ざ衛え門もん『曾そ根ね崎ざき心しん中じゅう』初演(1703)江戸幕府がほろぶ(1867)夏草や 兵つわものどもが 夢の跡あ と五さ月み雨だれの 降りのこしてや 光ひかり堂ど う(『奥おくの細ほ そ道み ち』)小学校 学習した人物:近松門左衛門0 200km上方が中心2歌か舞ぶ伎き(浮うき絵え 劇げき場じょう図 東とう京きょう都 平ひら木き 浮世絵美術館蔵) 手前の左手の花道に立つのが市いち川かわ団だん十じゅう郎ろうです。 資料活用歌舞伎を楽しんでいるのはどのような人たちか,観客の身分や性別に注目して読み取りましょう。1142 143世紀B.C.A.D.123456789101112131415161718192021時代旧石器縄文弥生古墳飛鳥奈良平安鎌倉南北朝室町戦国江戸明治昭和平成令和安土桃山大正510今に受け継がれている神話を深く掘り下げて紹介しています。文化財のサイズを示すとともに,スケールが伝わるような工夫をしています。8.4m1.5mイオマンテのようす(アイヌ熊くま送おくりの図 函はこ館だて市中央図書館蔵)11蝦夷地のこんぶ生産のようす (日本山海名物図ず絵え 松まつ前まえ昆こん布ぶ  東とう京きょう都 国立国会図書館蔵)16アットゥシ 木の皮からとった繊せん維いを使ってつくった服です。(北海道 旭あさひ川かわ市博物館蔵)12ルウンペ 木綿の布を使ってつくった服です。(国立アイヌ民族博物館設立準備室蔵)13信仰くらし国立アイヌ民族博物館(北海道白しら老おい町) 2020年,北海道白老町に,国立アイヌ民族博物館が開館します。日本の先住民族であるアイヌの歴史や文化を「ことば」「世界(信しん仰こう)」「くらし」「歴史」「しごと」「交流」のテーマから学ぶことができます。日本だけでなく世界の人々がアイヌ民族の歴こんぶはめぐる 18世紀後半になると,大阪にこんぶをあつかう問屋ができ,加工品を売る店も目立つようになりました。松前・蝦夷地から北きた前まえ船ぶねが日本海を経由してもたらされたこんぶは,上かみ方がた( P.141)で消費されただけでなく,大阪から各地に運ばれました。 行き先の一つに琉りゅう球きゅうがありました。運んだのは薩さつ摩ま藩です。こんぶは琉球料理に欠かせない食材となり,また,琉球から中国へ向けて輸出されました。交流タシロ 狩猟に使う山刀で,アイヌ模様が刻きざまれています。(長さ43cm アイヌ民族文化財団蔵)14沖縄のこんぶ料理「クーブイリチー」15 国宝 や 世界遺産 は,わかりやすいアイコンで表示しています。注目実物大教科書P.7823