学び!と歴史

学び!と歴史

富岡物語(3)
2014.08.28
学び!と歴史 <Vol.79>
富岡物語(3)
富岡の日々
大濱 徹也(おおはま・てつや)

行啓

画像提供 富岡市・富岡製糸場

 英照皇太后と美子(はるこ)皇后(後の昭憲皇太后)は開業したばかりの富岡製糸場に1873(明治6)年6月24日に行啓、場内を巡覧、工場が日本の富国につながると職員を励ましました。『明治天皇紀』は、6月19日から26日までの行啓の途を次のように描いています。

皇太后皇后、上野国富岡町富岡製糸場台覧のため、午前八時御出門、宮内大輔萬里小路博房・同大丞杉孫七郎・宮内省三等出仕福羽美静・典侍萬里小路幸子等供奉す、大宮・熊谷を経て二十一日新町に着したまひしが、連日の降雨にて鮎川氾濫せるを以て、二十二日亦同地に駐まりたまふ、同日皇太后の安否を問はしめんため遣はしたまひし侍従山口正定、参候して聖旨を伝へ、且御贈進の菓子一箱を上る、二十三日両后七日市町に著し、御宿泊所に入りたまふ、二十四日午前九時御出門、富岡製糸場に行啓、同場雇仏蘭西国人ブリュナー夫妻に謁を賜ひ、尋いで場長租税大属尾高惇忠及びブリューナの御案内にて製糸作業及び機械室等を御巡覧、雇外国人に縮緬を、職員に酒肴料を賜ふ、ブリューナ西洋料理の御晝餐を献り、其の妻洋琴を弾奏す、午後二時七日市町に還啓あらせらる、同日皇后の詠じたまへる御歌に曰く、
 いと車とくもめくりて大御代の
   富をたすくる道ひらけつゝ
二十五日両后同町を発し、二十六日、武蔵国旙羅郡玉井村鯨井勘衛養蚕の実況及び挿秧の状を観覧
二十六日官幣大社氷川神社御拝あり、同日午後三時還啓あらせらる、富岡製糸場は、政府が生糸精製の端緒を開き大に蚕業の発達を図るらんとして、ブリューナを職工首長と為し、客秋開業せし模範工場にして、当時男女工合して五百余人、伝習生徒十二人あり、又一箇年の定額金は五万千六百十九円余と洋銀一万七千四十弗なり

 降雨による氾濫という悪天候下での行啓は、富岡製糸場建設に象徴されたように、国家が「蚕が化した金貨」を稼ぐ養蚕製糸の振興こそが「富をたすくる道」をもたらす富国の基いとなる器を期待しての営みです。それだけに皇后は、西洋の糸機械の前に居並び糸繰りを学ぶ工女の姿を「御世のため並居て学ぶときわきの日々に賑はふ富をかのさと」詠み、励まします。富岡は富をもたらす里とみなされていたのです。

製糸場での暮らし

 「御場所」といわれた官営模範工場は、レンガ造りの壮観な建造物と最新の機械設備によって、人々を驚かせる文明の府でした。横田英は、その偉観に圧倒され、筆にも言葉にも表し様がないと認めています。この驚きは皇太后・皇后も共に抱いたものといえましょう。

私共一同は、此繰場の有様を一目見ました時の驚きはとても筆にも言葉にも尽されません。第一に目に付きましたのは、糸とり台でありました。台からひしゃく、さじ、朝がほ二個(まゆ入れ湯こぼしの湯)、皆真ちう、それが一点の曇りもなく、金色目を射る斗り。第二が車、ねづみ色にぬり上げたる鉄、木と申物は糸わく、大わく、其大わくと大わくの間の板。第三が西洋人男女の廻り居る事。第四が日本人男女見回り居る事。第五が工女行義正敷、一人も脇目もせず業に付居る事で有りました。一同は夢の如く思ひまして、何となく恐ろしい様にも感じました。

 就業時間は、ブリューナが日本政府との契約で取り決めた「職工働き方」にもとづき、夜業を禁じ、午前7時から午後4時半までとし、午前に9時から30分、昼が1時間の休憩があり、実働8時間でした。日曜日と天長節などの祭日が休日とされ、12月29日から1月3日までが年末年始の休暇。このような労働環境は、官公署にみられたものの、当時の慣行にはないものでした。
 給与は、元繭1升の出来糸目方8匁5分、1日5升取りの者が1等工女で年額25円、元繭1升の出来糸目方8匁、1日4升取りの者が2等工女で年額18円、元繭1升の出来糸目方7匁8分、1日3升取りの者が3等工女で年額12円、等外の者が9円。夏冬には「服料」としてボーナスが5円、寄宿舎の賄料は1日7銭1厘。
 まさに開業時の工場は、労働環境や処遇のみならず、工女の健康を管理する医官がおり、「御場所」にふさわしいフランス直輸入ともいえる「文明の府」にほかならず、後の「女工哀史」的世界とは無縁でした。このような「文明」的ともいえる工場で生活した工女からは、日曜日ごとに甘楽第一基督教会(現日本基督教団甘楽教会)に通い、教会員となる者もいました。そのため当初の甘楽教会員は男性より女性が多数をしめていました。ちなみに甘楽教会は、1874年に米国から帰朝した新島襄の郷里安中での布教によって、78年に設立された安中教会(現日本基督教団安中教会)から84年に独立した教会です。

組合製糸の営み

 安中教会を支えた信者の群は碓氷郡の組合製糸碓氷社を支えた人びとでした。組合製糸碓氷社は、養蚕農家が自家製繭を改良座繰で製糸したものを組合に集積して検品、均一品質の良質のものを大量に準備して市場に出すことで各農家の利益をあげていきました。この方式は、資本力の無い農家が協業協力する組合を結成することで、独立した養蚕農家として道を歩むことを実現したものです。
 在来の伝統的な技法を改良した座繰製糸による農家の営みは、収繭から製糸を「各農家」、揚げ返しを「組」、束装販売を「組合本社」が受け持つという分担でそれぞれの責任体制を明確にすることで生産性をあげ、富岡製糸場をうわまわることができたのです。ちなみに碓氷社が地域にある組の共同揚げ返し場は水車などによる一斉回転の大枠と絡交装置をもち、機構として富岡製糸場と変らなかったといわれています。それだけに富岡製糸場は、生産工程の最新の機械化を実現したとはいえ、収繭から製品化にいたる過程を充分に管理出来ないままに農民の座繰に敗北し、身売りへと追い込まれたのでした。ここには、模倣としての「近代」に対し、在地に根ざした営みがもつ近代の在り方が読みとれましょう。

 

参考文献

  • 松浦利隆前掲書
  • 大濱『明治キリスト教会史の研究』吉川弘文館 1979年