学び!と歴史

学び!と歴史

地域再生に問われるのは何か(2)
2014.10.23
学び!と歴史 <Vol.81>
地域再生に問われるのは何か(2)
―古橋暉皃という存在―
大濱 徹也(おおはま・てつや)

承前

 古橋源六郎暉皃(てるのり)は、開化の風が吹くなかで、「銘々腕稼」による起業家精神がもたらす世界を、「維新開化の今日」という思いにうながされて「明治16年北設楽郡殖産意見書」で次のように描いていました。

普通の学より天文地理経済学に、農工商古今に通じて学ばしめ、哲学科学舎密(セイミ「化学」の呼称)の学をも研究して、数多の元素を詳知して、水より火を取り火より水を取り、或は軽気球を製して空中をも走るべく、又は地質を修めて地層の深底をも探求して地心地皮の功用を弁ずるなど地水火風を自在にし、文法語格に至るまで明にして、交通自在に航海せば自国の不足は他国に取り、自国の余贏は他国に及ぼし、事物百般不足なく、宇宙間を我家の如く成たらんには豈愉快ならずや如此事業進歩の秋にこそ各々開化の風に移りて勧娯をも極むべきなれ

 この思いには、昨今耳にする海底・宇宙探査による資源開発競争、原子力の活用から地熱発電、経済のグローバル化への過剰なる期待、国際共通語としての英語教育等々こそが豊かさを可能にすると、昨今喧伝される政府の国家構想に通じる世界が読みとれます。しかし、暉皃の構想は、明治16年の愛知県北設楽郡「人民生活の状態」を前にして、行き詰まります。

人民生活の状態

 松方財政下で呻吟する北設楽郡内を視察した文部書記官は次のように報告しています。

本郡専ら農耕を業とす。或は商業職工を営すものありと雖も、僅々兼業たるに過ぎず。然り而して郡曠濶、大凡方里内に於て戸数平均80戸6分厘余、人口平均451人7分3厘余なりと雖も、耕地段別は僅に2226町6段18歩、戸数平均5段6畝1歩強にして、其他は皆な山林原野耕耘の施すべきなきものなり。然るに僅々に限りあるの田畝も多くは洞田棚畦にして地味皆薄瘠なり。氣候寒冷極寒に至れば、寒暖器氷点21度に下り、極暑は93度、平均57度の内外を昇降す。是を以て労費夥多にして収獲僅少、終に得失相償はざるの歎を発せしむるのみならず、年間の収穫人口に給足するを得るものは、郡内纔に5分の1にして、其他は皆年の半ばを支ふる能はざるもの多きに居る。是等は皆資を美濃信濃の他国に仰ぎ、以てに其生計を得るに至る。是を以て活路極めて困難、未だ凶歳の声を聞かざるに皆な菜色を帯ぶ所以の者は、蓋曰、常食する所の物、多くは稗、麦、芋、馬鈴薯等の淡白無味滋養に関係薄き麤悪の物資を用ゆるに職由すと云はざるべからざるなり。故に郡内人民の活路を計る、之を田畑に資るの至難なる其斯の如し。是を以て活路を計る、其路他に需むるあるにあらざれば、何によりてか自営の策を求むるを得んや。然るに繭・生絲・茶・烟草・楮・椎茸・馬等の如き産出物なきに非ざれども、頼りて以て活路を計る又難しとす。唯頼りて以て力ありとするものは独山林なり。然るに此の山林にして多くは伐採し尽して顧みず。以て資り難き僅々の田畦に垂頤して以て生計を営まんとする。是れ天に梯すると一般、豈に得べきの理あらんや。故に現今百方奨励勧誘、以て山林の蕃植・製茶・養蚕・産馬改良等の諸業何れも緒に就けり。漸を以て他日其目的を達するに至らば、目今の活路を回復し得るのみならず、陶朱猗頓の如くなるを欲せざるも豈に得べけんや

 土地に相応しい産業こそが「陶朱猗頓」、金満家になる道と説くことで、民富の形成と富村への期待が表明されたのです。ここに古橋源六郎暉皃は、製茶・蚕糸・煙草等の殖産が成果を見いだせない中で、民富形成をささえる原点に民心統一が欠かせないことに想い致したのです。いわば富村は、産業による経済的利益がもたらす以上に、地域を己のものとして担う民心の一致がなければならないとの想いにほかなりません。

民心の協力一致を求め

 ここに古橋源六郎暉皃は、茶業崩壊に直面するなかで、山間地にある稲武にとり、「唯頼りて以て力ありとするものは独山林なり」との指摘を想起、地域の資源に目を向け、『富国の種まき』をはじめます。この『富国の種まき』は、明治11年の東海巡幸の記憶を想起し、開化の風になびいた起業を反省し、神の贈り物である山幸たる山林経営による富村富国への想いを吐露したものです。

明治11年東海御巡幸を拝せむと、道を足助に取て行くは10月24日也、既にして伊勢賀見の嶺(現伊勢神峠)に登り、遙に神宮を拝し、西に尾海を望み、東に駒山を顧るに、山相土性東西自然に異なるを見る、其東にあるは山色萃黛肥潤耕土乾燥嶮峻、其西にあるは山相赭色枯瘠耕土平坦沢饒、下りて明川に至り親その実を知り、行々これを察するに益西して益然り、尾張に至りては殊に平坦大沃、山を見ること無きに至る、それ田圃肥饒なる地は山力薄く、耕土薄瘠なる地は山力盛なるは何の為に然らしむるや、これ蓋し天神造化の妙機にして、天下の黎衆(アオトビグサ)をして各其所を得せしめ給はむか為也

 先の所信表明演説は、ここに表明した暉皃の言説を都合よくパクリ、上っ面を利用したものにすぎません。製茶等の起業による地域再生の挫折こそは風土に根ざす山林への回帰となったのです。その山林経営は、植林から100年先を待たねばならない事業であるだけに、強き精神を共有しうる民心がもとめられます。そのため暉皃は、「自然天理人道に叶へば、神明も恵みたまひ、幸へたまひて、事業隆盛、子孫長久、人々安楽の基を開くべきなり、然るに眼前の小利にのみ汲々して、永遠の計を為さざるものは、啻に敬神愛国の心無きのみならず、また其祖親を忘れ、妻子を顧ず、而して又其身を捨る所謂自棄自亡の人なり。神明何ぞ憎悪み給はざるべき。災害必ず其身に及ぶものなり、深く恐れて、固く慎まるべけんや」(『報国捷径』)と説き聞かせ、「敬神愛国の心を全くして、必要の事業に勉強すべきこと」を強調したのです。
 ここには、平田門国学者暉皃の面目が躍如としていますが、起業による経済的利得ではなく、住民の協同一致を可能とする精神の拠り所となりうる器なくして地域再生への途がないことが問いかけられています。現在、問い質すべきは、地域再生を担うにたる精神の器、その器の場をいかに蘇生し、住民の協同一致を実現していくかではないでしょうか。そこに求められるのは、交付金を給付し、金の力で民心を買い取り、煽動していく方策ではありません。暉皃の言説を宣揚するのであれば、その言説に託された想いを読み解きたいものです。