学び!と美術

学び!と美術

研究授業の参観のコツ
2014.01.10
学び!と美術 <Vol.17>
研究授業の参観のコツ
~子どもに身を重ねる流儀~
奥村 高明(おくむら・たかあき)

「影物語」工作用紙、竹ひご、パワーポイント、プロジェクターなど

 よく授業参観の方法について聞かれることがあります。多くの場合、研究授業の参観は、ゆるやかな目的にそって、参加者独自の方法で行われます。私にも自分なりに決めた方法があります(※1)。汎用性があるかどうかわかりませんが、何かの参考にはなるかもしれません。本稿で紹介してみます。

1.子どもを決める

 私は授業がはじまったら、すぐに見る子どもを決めます。それが最初に行うことです。なぜかというと、研究授業は子どもの具体的な事実から指導の改善を図る実践だからです。先生の指導は子どもにおいて実現してこそ意味があります。その妥当性は子どもの発言や動きなどから分かるはずです。「指導の妥当性は子どもの姿から見える」と言い換えてもよいでしょう。そのために誰かを決めて授業を見るというわけです。

2.子どもを選ばない

 どうやって子どもを決めるかというと、たいていは最初に出会った子、目の前にいた子どもです。結果的に教室入り口付近にいる子になることが多いようです。積極的に発言する子、おとなしい子など選ぶめやすを設けることはありません。それが先入観になって子どもがうまく見えなくなるからです。偶然の出会いを決め込んでいます。選ぶとしても、せいぜい撮影しやすい角度にいる子、逆光を避ける程度でしょうか。

3.一人を見る

 子どもは一人だけにします(※2)。魅力的な活動をしている子どもを何人も拾って歩くような見方はしません。それは蒐集と同じようなもので、子どもではなく「自分の好み」を見る行為だと思っています。それに、何人も同時に見ることができるほど能力がありません。さらにいえば、自分が図画工作・美術の人なので、ついアート的に面白いことをする子に惹かれてしまいます。それを防ぐために、ほぼ無造作に一人を選び、ある意味我慢して、徹底してその子だけを見ます。でも、ずっと追われる子供からすれば、いい迷惑でしょうね……。

4.子どもから見る

 とはいえ、一人だけを見ているわけではありません。決めた子が隣の友達と話す、先生の話を聞く、材料や用具を選ぶなど、その子から広がる関係性や世界を見ているつもりです。「一人を見ない、一人から見る」といった感じでしょうか。子どもを成立させる多様な教育の資源を、その子から見ているのであって、一人の閉じた世界を覗き込むわけではないのです。また、授業はほぼ同じ条件で行われていますから、一人の道筋で起きている事実は大抵残りの子どもたちに敷衍できます。「一人から全体を見る」と言ってもよいでしょう。

5.先生は見ない

 一方、先生はほとんど見ません。そもそも、先生が何をするかは指導案に書いてあるので、それを読めばすむことです。それに子どもが先生の話を聞いていれば、それは「その子にとって大事なこと」であり、逆に聞いていなければ「先生はその子の世界に存在していない」ということでしょう。先生は子どもから成立するというわけです。でも、中には先生ばかり見ている参観者もいます。「目の前で子どもが事実を展開しているのにもったいないなぁ」と思います。

6.位置取りする

 子どもがよく見える位置を確保するのも大事です。参観者の流れに押されて教室の後ろから参観することになったら最悪です。先生と子どもの背中だけしか見えません。子どもの表情や動作が見えなくなると、具体的な子どもの事実から指導の有効性を判断することが不可能になります。子どもが何を感じ、考えているのか分からないので、子どもの育ちも不明になります。授業の是非が判断できなくなるので根拠ある意見も言えないし、指導助言もできなくなります。

7.カメラを覗かない

 授業の様子をカメラで撮影できる場合は、カメラを脇腹当たりに構えて、大まかに子どもの方向に向け、適当な間隔で録画ボタンを押したり、消したりします(※3)。ファインダーを覗いて撮ることはしません。我が子の運動会を撮影した経験のある方は分かるでしょう。何を見たかよく分からない気持ち、自分自身がカメラになったような感覚です。やはり自分の目で見ないと、子どもの身に重ねるということができません。でも、子どもを見ながら脇腹でカメラ操作なんて、まるで不信人物ですね……。

8.子どもと目があったら?

 子どもと目があったら「私は君には興味なんかないよ」という顔で知らんぷりします。見られているという意識は、子どもの造形活動に影響を与えますし、子どももじろじろ見られると気持ち悪いでしょう(※4)。ただ、どう気を付けようとも子どもは気付きます。突然こちらに話しかけてくることもあります。ニコッと笑って作品を手に「ほらっ」という感じです。私はかなり怖い顔で見ているはずなのですが不思議です。子どもは自分を見る人が共感的なのか、そうでないのか直感的に分かるのかもしれません。

9.信じる

 「一人しか見てないのに、何も分からなかったら?」とよく聞かれます。原則そんなことはありません。子どもは必ず何かやってくれます(※5)。授業中はただひたすら「この子はやってくれる」と信じて見ています(※6)。もちろん、授業中には分からないままで終わってしまうこともあります。でも、後から撮影データを見直せば何か見つかるので、それほど心配していません。実際、撮影データを控え室で見ながら一人でニヤニヤしていることも多いようです。うーん、ほとんど怪しい人ですね……。

10.頭を空にする

 子どもに身を投じるためにできるだけ自分の頭を空っぽにします。これをしないと失敗します。あるとき「技能」に視点を決めたのですが、結果的に何も分かりませんでした。「技能」が色眼鏡になって「見ることそのもの」を阻害したのでしょう(※7)。また、授業が始まったらできるだけ指導案の内容を忘れるようにします(※8)。子どもは指導案を知って動いているわけではありません。教師の提示に驚き、出された課題に悩みます。それに共鳴するためです。先生の指導の理由が分からず指導案で確かめることもありますが、指導案をもとに授業を追っていくことはしないのです。時々わざと控え室に忘れることもあります。バインダーやペンまで用意してもらっていますが……。校長先生、すみません。

 結局、私が辿り着いた参観のコツは、偶然に任せて子どもを選び、子どもが何を感じ考えたか共感しながら、その子から教育の資源を分析するというものです。結果的に自分の思い込みに気付かされたり、教育の当たり前が問い直されたりするので、この方法を気に入っています。「自分から見ると自分以上にはなれないけれども、子どもから学べば少しは進歩するかもしれない」そんな意味もあります。私のこれまでの原稿も、そうやって見つけてきたことがもとになっています。もし、よかったらこの方法を使って見てください。
 なお、私の見た子どもが「なぜあの子だったのか」と驚かれる場合が多くあることを付け加えておきます。「普段と別人のように熱中していた」とか「高熱をおして授業に出てきた」などのようなことです。確かに、教室に入ったときに目の前に二、三人います。私が選んだ一人でなくてもよかったはずです。でも、なぜか「その子」だったのです。こればかりは説明がつきません。「子どもが呼んだのでしょう」と言っています。論理的ではありませんが、子どもが見えないオーラを発しているのかもしれません。それもまた子どもの能力だと思っています。

 

※1:研究としては、例えば奥村高明「造形活動における相互行為分析の視座~授業研究・指導法改善の方法論(1)~」『日本美術教育研究論集42』日本教育連合2009、奥村高明「造形活動における相互行為分析の視座(2)~相互行為分析の手がかりとしての視線~」『日本美術教育研究論集43』日本教育連合2010などで発表している。
※2:ただし、授業分析と授業参観は別だ。授業分析では教師カメラ、子どもカメラ、全体カメラの三台を用意する。
※3:周りとの関係性を見るので撮影するのはその子とその周りがある程度写っている範囲。
※4:授業研究ということ自体、子どもの学習の資源だ。普段より意欲的になったり、萎縮したりする。授業後に子どもたちが「先生!今日のあたしたちどうだった」と言うことも多い。
※5:もし見つからなければ、それは子どものせいではなく参観者の責任だと思っている。
※6:研究大会などでは、一つの教室に5分しかいないこともある。これまでの経験からは、たとえ短時間でも子どもは何かをやってくれた。
※7:技能は単独では存在しない。発想や構想、意欲や感触などと絡んで成立する。その関連が見えなくなって、技能そのものも見えなくなったのだろう。
※8:もちろん事前に指導案を読み、研究の方向をつかむことは必要だ。