学び!とPBL

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札幌新陽高校と福島
2021.04.20
学び!とPBL <Vol.37>
札幌新陽高校と福島
三浦 浩喜(みうら・ひろき)

1.一か八か……

 2018年2月に福島市で、「新しい教育」をテーマとするシンポジウムを開催しました。地方創生イノベーションスクールで一緒に活動した和歌山のメンバーもお呼びし、福島市チームやふたば未来学園高校とのコラボも実現できました。メインの講演は、OECD東北スクールスターのきっかけとなる支援をいただき、東日本大震災復興支援財団の理事を務められ、東北全体の復興にたいへんな力を発揮し、現在は札幌新陽高校で校長先生(当時・現在は副理事長)をされている荒井優氏にお願いしました。
 荒井氏はいつも新陽高校のロゴの入ったパーカーとジーンズを着用して現れ、ネクタイ・背広の姿を見たことがありません。それだけでもいかに常識にとらわれない型破りの学校運営をされているか、よくわかります。講演から、いかに生徒たち一人ひとりの個性、教員一人ひとりの個性を学校づくりに活かしていくか、とてもインパクトのある内容でした。一人1台のパソコンを早々と導入し、授業もゼミナール形式で行います。
図1 生徒たちによるお出迎え 話を聞いている内に、札幌の荒井氏の学校に行きたい願望が極限に達し、講演後に交渉したところ即、快諾を得ました。福島市チームと日程について相談すると、何と3月30日しか取れないということになります。年度末の学校現場はまるで戦場で、そこにお邪魔するというのは非常識の極みなので、諦めるしかないかと思いましたが、ダメ元で交渉してみると、OKをいただいたではありませんか! しかも荒井氏は「他でもない、大事な福島が来るのなら、スケジュールを変える」といって、東京から九州に移動する日程を、「東京→札幌→九州」に変えてくださったのです。

2.いざ、札幌新陽高校へ

図2 手作りの昼食をとりながら 3月29日、私たちが札幌に到着すると早速「ようこそ札幌へ!」の横断幕でお出迎え。部活動の送迎に使っているという、新陽高校の先生の運転するかなり年季の入ったマイクロバスで学校まで送ってもらいました。
 学校に到着すると、「本気で挑戦する人の母校」の強烈な文字が迎えてくれます。十数名の生徒たちが出迎えてくれ、保護者の皆さんの手作りという昼食をとりながら、自己紹介をします。
図3 初めてのキンボール 生徒の創意による「宝探しゲーム」、新しいスポーツ「キンボール」体験など、とても楽しい一時となり、生徒たちはすっかり仲良くなりました。ここでは、生徒たちのデザインよる、企業と連携した独自のファッションブランドも立ち上げており、荒井氏がいつも身につけているパーカーやトレーナー、Tシャツなどはすべてこのブランドのものでした。他にも高校生の起業活動が活発で、福島の高校生たちにとっては驚くことばかりでした。
図4 生徒たちによるファッションブランド 札幌新陽高校の生徒たちはとても一人ひとりが生き生きしていて、その個性が形になって現れており、丁寧に育てられていることがよく伝わってきます。今回の交流も、自ら立候補した生徒たちが、すべて自分たちで企画してくれたとのことでした。ここでの生徒同士のつながりは、その後もずっと続くことになります。

3.札幌新陽高校と福島

図5 生徒たちと熱心に語り合う荒井氏 福島側のグループには佐藤君という、ふたば未来学園高校から「来週」福島大学に入学する「生徒」もいました。2日目は、「高校生の地域活動」と題した熟議を行うことになっており、新陽高校の生徒たちに福島を知ってもらうため、佐藤君にプレゼンをお願いしていました。原発被災地の富岡町の出身で野球少年だった彼は、高校時代のプロジェクトでアメリカに行ったとき、生産者と消費者が親しく交流するファーマーズマーケットに「運命的に」出会い、自分のやることはこれだと確信し、高校時代は農業の研究と、ファーマーズマーケットの実現のために汗を流し続けました。自分で交渉した農家に参加してもらったファーマーズマーケットは大雨にたたられましたが、たいへんな達成感を得ます。
図6 札幌新陽と福島の生徒による熟議 財団の理事として福島の復興やふたば未来学園高校の創設にも関わっていた荒井氏は、「大切な福島から、こんな若者が育った」と、涙を流して彼の話を聞いていました。「復興とは子どもが大きくなること」という印象的な言葉を核にして、荒井氏自身と福島の関わりを話してくださいました。これをもとにして、高校生同士、札幌の真ん中で、延々と福島の震災と復興の物語は話し続けられました。

図7 玄関で「本気で挑戦する人の母校」 帰りの飛行機の中で福島市チームの生徒たちは、「新陽高校の生徒たちに会ったら、自分たちで何か新しいことを始めたいと思うようになった」と言いました。この出会いが、福島チームの生徒たちに、決定的なバネとなったのです。