学び!と人権

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部落差別と同和教育(その1)
2021.10.05
学び!と人権 <Vol.05>
部落差別と同和教育(その1)
森 実(もり・みのる)

 個別人権課題に最初に取り上げるのは、部落差別(同和問題)と同和教育です。2016年12月に「部落差別の解消の推進に関する法律 」(部落差別解消推進法)が制定されて、部落差別への取り組みは新たな段階を迎えました。それはどのような意味なのでしょうか。また、新しい時代に即した教育はいかにあるべきなのでしょうか。今回は、部落差別をなくすために展開されてきた同和教育の様子を紹介し、次回に現代的課題に焦点を絞って論じることにします。

[1]部落差別および同和教育とは?

 部落差別とは何でしょう。部落差別についての定義は「部落差別解消推進法」にはありませんが、政府関係の文書では、同和問題と同義であり、「人権教育・啓発白書」において用いられてきた同和問題に関する説明を基本的に用いることが合理的とされています。ちなみに『令和3年版人権教育・啓発白書』 は、次のように述べています。

「部落差別(同和問題)は、日本社会の歴史的過程で形作られた身分差別により、日本国民の一部の人々が、長い間、経済的、社会的、文化的に低い状態に置かれることを強いられ、同和地区と呼ばれる地域の出身者であることなどを理由に結婚を反対されたり、就職などの日常生活の上で差別を受けたりするなどしている、我が国固有の人権問題である」(同48頁)

 一方、同和教育とは、「部落差別を中心に、あらゆる差別をなくすための教育」をさします。同和教育という概念は、戦後では1953年に文部省が「同和教育について」という次官通達を出したのが広がるきっかけの一つです。本格的に広がったのは、1953年に全国同和教育研究協議会(現在の全国人権教育研究協議会 )が結成されて、全国各地から同和教育に取り組む人たちが集まるようになってからのことといえます。そこから同和教育の歩みが始まったといってもよいでしょう。ここでは、同和教育の歴史を大きく分け、1970年頃までの原則確立の時期、2000年頃までの取り組み拡大の時期、2000年から最近までの人権教育の中核としての展開の時期というぐあいに時期を区切って説明していきます。時期区分の仕方はさまざまに可能です。ここでは、この連載のねらいに則しての区分であることをご承知おきください。

[2]同和教育の歴史

①原則確立の時期(~1970年)
 第二次世界大戦が終わって間もない頃、部落差別をなくすための教育活動は、さまざまな名称で呼ばれていました。高知県では福祉教育、岡山県では民主教育、和歌山県では責善教育などです。それぞれに由来や特徴がありますが、ここではそれは省きます。誰かが概念を整理し、理論を打ち立てて、それに基づいて実践が展開されていたというわけではありません。地域に根ざして取り組みが始まっていたのです。それぞれに個性がありました。
 全国同和教育研究協議会が結成された後にも、同和教育で何を大切にするべきかについては議論がありました。一方に、「差別意識をなくしていくことが同和教育の目標だ」という考え方がありました。部落差別は意識の問題だという捉え方です。それに対して他方に、「部落の生活に表れている困難状況を部落差別の表れと捉え、それを改善し、克服していくことが同和教育の目標だ」という考え方がありました。部落差別は生活のなかにあるという考え方です。二つの流れの議論から、次第に後者の考え方が中心に座るようになりました。
 戦後間もない頃、学校に行けない長期欠席や不就学の子どもたちがいました。そしてそれは、被差別部落など厳しい生活を強いられているところに集中していました。同和教育の最初の課題は、そういう子どもたちが学校に来られるようにすることでした。そのため、教員は家庭訪問を繰り返し、何に困っているのかを確かめ、解決のための手立てを打つことが求められました。たとえば、傘がないために雨が降ったら学校にいけない子どもには、学校で傘を準備したという学校があります。経済的に家庭を支える必要のある子どもには、生活保護などの制度を活用して、家族みんなが暮らせるよう応援した学校があります。当時は小中学校の教科書が有償で、教科書を買えない子どもたちもいました。地域の保護者などとともに教職員が教科書無償化に取り組みました。これが、1963年の「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律 」につながっていきます。こうした取り組みは、現代的に言えば、スクールソーシャルワークそのものです。アメリカにおけるスクールソーシャルワーカーの活動も、不就学児童生徒の出席督励から始まっています。
 こんな取り組みのなかから1965年になると、後者に軸足を置きながら、両方の考え方を一つに含み込んで、同和教育の原則が確立されます。その原則とは、「部落差別の現実から深く学び、生活を高め、未来を保障する教育を確立しよう」というものです。観念的に「差別はいけない」といくら言っても、それだけで差別がなくなるわけではありません。部落の生活実態のなかに差別があることを見いだし、そのなかで生き抜いてきた地域の人たちの生いたちや体験や生き方に学んで、教員としてのありかたを考え、教育を生み出していこうというのです。
 この原則の具体化として、仲間づくり、学力保障、進路保障など、幅広い領域で実践が展開されるようになりました。これらが具体的に展開していくのは、第2の1970年からの時期となります。「仲間づくり」とは、単なる仲良しを広げるというのではなく、差別をなくすという共通の目的意識をもった仲間を広げていくことをさします。「学力保障」とは、単にテストの点数を上げる学力向上ではなく、教育内容のあり方を根本から問い直して、新しい教育内容を構想し、それをすべての子どもが獲得できるよう教育を組み直すことを意味しています。「進路保障」は、進路指導とは異なります。「あなたの学力で行けるのはあの学校だ」というぐあいに、学力などに応じてすすめる進路を指導するのが進路指導だとすれば、それに対して進路保障では、すべての子どもたちが自分のめざす進路へとすすむことができるよう保障しようとするものです。就職差別などの現実があったからこそ生まれた概念と言えます。仲間づくりや学力保障など、同和教育のすべてが進路には関わります。だから「進路保障は教育の総和である」と言われました。

②取り組み拡大の時期(1970年~2000年)
 1965年に「内閣同和対策審議会答申 」、それを受けて1969年に「同和対策事業特別措置法 」が制定されました。「同和対策事業特別措置法 」は対象地区の環境改善などを目標としており、部落差別をなくすことを正面から目標として掲げていたわけではありませんが、部落差別をなくすための教育を展開するうえで大きな力となりました。部落差別をなくす教育は、生涯学習としての体系を整えていきました。
 全国同和教育研究協議会は、1971年に子どもたちへの学力保障のために、「四認識」という枠組みを打ち出しました。これは、それまでの同和教育の取り組みが、ともすると学力向上と部落問題学習に分裂してすすめられていたことへの反省に立っています。それまでの同和教育では、一方で、教育目標や教育内容、教育方法などを問うことなく、学力不振だった同和地区の子どもたちの成績を上げることが追求されていました。学力向上というだけでは結局、学校教育全体のカリキュラムが問われることがなくなります。その一方で、確かな部落問題認識を育てようと、社会科などでの授業が組み立てられました。部落問題学習というだけでは、社会科など、一部の教員の取り組みに終わりかねません。「四認識」という枠組みを打ち出したことによって、すべての教科と領域において同和教育がすすめられるようになりました。
 「四認識」とは、教育内容を四つの領域に分けて考え、それらを総合する形で子どもたちの力を育もうとする考え方です。ここでいう「認識」は知識を得るという意味だけではなく、本質をつかみ、確かなスキルを身につけて使いこなすことも含んでいました。教育の土台にあるのが言語認識です。ことばや数などの認識を培い、それによって社会や自然を捉え直し、自分を表現する土台を獲得します。その土台の上に、社会認識と自然認識が培われます。これら三つの領域を中核に据えて、自己表現の力を育むべく、芸術認識が培われるのです。この枠組みによって、あらゆる教科・領域と同和教育とがつながっていることがはっきりしました。すべての教職員が関わりやすくなっていったのです。
 部落問題から始まった同和教育の取り組みは、1970年代になって、取り組む課題を広げていきました。
 ひとつは在日韓国・朝鮮人問題です。戦前からの差別により、在日の子どもたちは通名(日本風の名前)を使うなど、日本社会への同化を強いられ、在日として学校内で立ち現れることが難しくなっていました。それに対して、「本名(民族名)を呼び名乗る」というスローガンのもと、まわりの子どもたちが在日の子どもたちの背景や生いたちを学び、在日の子どもたちの本名を知り、その本名でその子たちを呼ぶことをめざしました。もちろんこれは、在日の子どもたちの側の、在日としての自覚が高まることと同時並行ですすみます。韓国・朝鮮の言語や文化もここでは重要な役割を演じます。
 障害者の教育保障も重要な課題となりました。すでに1950年代から脳性マヒ者の運動体、青い芝の会などが教育保障の運動を展開していましたが、そことつながりながら同和教育のなかで原学級保障がすすみました。「養護学級」で子どもたちが過ごすのではなく、地域から通う他の子どもと同じ学級で毎日を過ごし、そのなかでお互いが成長することをめざしたのです。
 さらに、平和教育も同和教育の課題となっていきました。大阪などから広島や長崎に修学旅行で訪れ、被爆地で被爆者から話を聴くという活動が重ねられました。その際重要なのは、「戦争は大変だ」「自分たちは平和な時代に生まれて幸せだ」で終わるのではないということです。「戦争は仲間や親子を引き裂く」「被害者であるはずの被爆者が、差別を受けて生きてきた」といったことを知り、その被爆者の人たちが、自らの人生をかけて平和を訴えていることを学ぶのです。体験を語る被爆者からは、爆心地で「友だちを見捨てて逃げた」という痛恨の体験を明かされ、子どもたちに「君らはそういうときにも仲間としてつながっていられるような絆をもっていてほしい」「君たちにはそういう仲間がいるか?」と問いかけられるのです。

③人権教育の中核としての展開(2000年~)
 1995年から2004年は「人権教育のための国連の10年」でした。この世界的流れを受けて、日本でも2000年に「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律 」(人権教育・啓発推進法)が制定されました。2002年には「人権教育・啓発に関する基本計画 」が策定され、国内の人権課題として、女性、子ども、高齢者、障害者、同和問題、アイヌの人びと、外国人、ハンセン病元患者やHIV感染者、刑を終えて出所した人、性的マイノリティなどがあげられました。2003年からは「人権教育の指導方法等に関する調査研究会議」が組織されました。同会議は、2008年には「人権教育のあり方について【第3次とりまとめ】 」を発表しました。ここに初めて、日本政府につらなる組織による人権教育の提言が行われるに至ったのです。このような動きを中心になって推進してきたひとつが同和教育運動や部落解放運動でした。
 ここに至って同和教育には、あらゆる人権問題を包括する教育をつくることが課題とされるようになったと言ってよいでしょう。連載の次回では、この時期の取り組みを中心に紹介していきます。

[3]改めて同和教育とは?

 以上のような、簡単な歴史記述から、同和教育について確かめられることがあります。それは次のようにまとめられます。

①同和教育は「仲良し教育」ではなく、「差別をなくすための仲間づくりの教育」である。
 同和教育と言えば、「みんななかよく」という言葉を連想する人がいます。けれども、同和教育の歴史を見ていくと、単に「なかよく」するというのではなく、差別をなくすためにともに取り組む関係を培おうとしてきたことがわかります。人と人とが集まれば、何らかの対立は起こるものです。それを解決しながらさらに絆を強めていこうとすることこそ、同和教育の観点に立った仲間づくりです。はじめから「みんななかよく」というだけでは、人間社会に発生する対立を見ないようになってしまいかねません。それでは「差別がある」と問題提起することそのものも否定されがちになります。

②「差別してはいけない」ではなく、「差別の現実から深く学ぶ」ことを大切にしている。
 同和教育の初期には、「差別してはいけない」と子どもたちにわからせることを教育の第一目標にしていた人たちもいました。けれども、その後、生活のなかに差別があるという認識が広がりました。そこから、差別がどのように表れているのかを学び、そこから教員が自分自身を問い、教員としての確かな生き方を築いていこうとすることを大切にするようになっていきました。差別の現実から学ぶことによって、教職員が差別や偏見、さまざまな思い込みなどにとらわれていたことに自ら気づきます。そこから解放されていくことこそ重要だと語られました。

③同和教育は、仲間づくり・学力保障・進路保障など体系的な実践をつみあげてきた。
 もしも同和教育が、「差別してはいけない」と説教することを目標にしていたら、それは日本の教育を変える力にはならなかったでしょう。差別の現実から出発した同和教育は、部落の親や子どもたちが追い込まれている現実から学び、日本の教育全体を変えていく必要があると考えるようになりました。そのために、あらゆる教科や領域を問い直し、教育制度のあり方に問題提起するようになっていきます。全体を問題にする総合的な教育になっていったのです。

④同和教育は部落差別から出発してさまざまな課題へと取り組みを広げてきた。
 特に1970年代からは、部落差別だけではなく、在日韓国・朝鮮人、障害者、平和などに取り組みを広げていきました。その後、児童養護施設で育つ子どもたち、女性、LGBTQなど取り組む課題はさらに広がりました。広がるうえで、同和教育が基本的な理念と枠組みをもっていたことが、プラスに作用しました。

⑤同和教育は、日本における人権教育を推進する重要な役割を果たしてきた。
 以上の結果、20世紀の終わり、国際的な動向を受けて日本に人権教育の政策や実践が広がるというときに、同和教育は重要な役割を果たしてきました。この段階の課題と取り組みは、連載の次回(第6回)でご一緒に考えます。