学び!と人権

学び!と人権

障害者の人権と教育
2022.06.06
学び!と人権 <Vol.13>
障害者の人権と教育
森 実(もり・みのる)

①障害者の介護に入って

 わたしが大学生だった1970年代、「青い芝の会」との関連で自立生活運動を始める脳性マヒ(CP)者が次々と出てきていました。大学に入学して間もないころ、自立生活を営んでいる脳性マヒ者の講演を初めて聴く機会がありました。実は、話を聴くといっても、わたしは体を硬くして、耳を澄ませ、一生懸命聞こうとするのですが、お話の内容はまったく聞き取れませんでした。そのときに驚いたのは、介護に入っている人が、通訳のようにしてその人が話している内容を逐一よどみなくわたしたちに話したことでした。わたしの驚きは、そのときの脳性マヒ者の話の内容そのものと同じ程度に、「通訳」をしている介護者の姿にあり、「すごいなあ」と思いました。障害者との接点のない人間の、ゆがんだ感想でした。
 その後、わたしは自立障害者Aさんの介護に入るようになりました。Aさんは穏やかな人で、「あるがまま、なすがまま」というのを座右の銘にしている人でした。
 最近の介護には、たいてい謝金があり、アルバイトの一種としても成り立つようになっている場合がありますが、わたしたちの学生だったころは、謝金はまったくなかったと思います。もっとも、その人が住んでいたのは大学の最寄り駅の近所だったので、交通費はまったく不要でした。また、介護中の食事は無料でいただけたので、実質的には謝金があったともいえます。
 大学を卒業して一時期は介護に入らなくなっていました。社会人となって数年後には再び入るようになりました。いったん離れたわたしには、「障害者の介護に入ることが自分にとってどんな意味があるのか、それが整理できていない状態で入るのは偽善になるのではないか」という気持ちがありました。再び入るようになった一番のポイントは、再び入るかどうかためらっているわたしに対して、「自分自身にとってどんな意味があるのかなどと考えるよりも、その人が必要としているのなら入ればいいのではないか」というアドバイスをくれた人がいたことです。
 結局わたしは改めて入るようになり、その後は1か月に1回程度でしたが、50歳代になるまで介護に入っていました。介護をやめたのは、Aさんの体調が悪くなり、亡くなったときです。
 この経験は、いろいろなことを考える手がかりを得る機会となりました。そもそも、Aさんの所属している「青い芝の会」という団体について知ることとなりました。

②「青い芝の会」行動綱領

 「青い芝の会」というのは、1957年に結成された脳性マヒ(CP)者の団体です。「青い芝の会」が展開した初期の運動 について詳しいことはよく知りません。印象深かったのは、1970年につくられたという、この会の「行動綱領」でした。

一、われらは自らがCP者であることを自覚する
われらは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつある自ら位置を認識し、そこに一切の運動の原点をおかなければならないと信じ、且、行動する。

一、われらは強烈な自己主張を行なう
われらがCP者であることを自覚したとき、そこに起るのは自らを守ろうとする意志である。
われらは、強烈な自己主張こそがそれを成しうる唯一の路であると信じ、且、行動する。

一、われらは愛と正義を否定する
われらは愛と正義の持つエゴイズムを鋭く告発し、それを否定する事によって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且、行動する。

一、われらは問題解決の路を選ばない
われらは、安易に問題の解決を図ろうとすることがいかに危険な妥協への出発であるか、身をもって知ってきた。
われらは、次々と問題提起を行なうことのみ我等の行ないうる運動であると信じ、且、行動する。

一、われらは健全者文明を否定する
われらは健全者の作り出してきた現代文明が、われら脳性マヒ者を弾き出すことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動及び生活の中からわれら独自の文化を創り出すことが現代文明への告発に通じることを信じ、且つ行動する。

(荒井裕樹『障害者差別を問いなおす』ちくま新書、2020年、54-56ページより作成)

 Aさんは、「青い芝の会」の役員をしていたことがある人です。当然この行動綱領を大切にされていました。自分の生活は自分で決める。介護者は、Aさんの言葉を受けとめて介護にあたる。しかし一方で、たとえば「意思決定をするのは障害者であり健全者は障害者の手足であるべきだ」という、いわゆる「手足論」からは少し距離を置いていたとも思います。「手足論」をそのまま実践すれば、健全者が考えなくなるからだというのです。介護者たちとAさんは、「ぼけつっこみ」よろしく、ふざけあいながら過ごす時間もありました。
 この行動綱領に関連して思い出すのは、あるときの介護調整会議での場面です。その頃、介護者たちに緩みが出ており、ルーズさが目立つようになっていたようです。その介護調整会議の場で、Aさんは険しい形相で、声を荒げて話しはじめました。Aさんには言語障害があり、長く介護に入っているメンバーにも、話している言葉がすぐにわからないことがありました。この日はそうでした。Aさんは表情を硬くし、絞り出すようにして、くりかえし声に出して主張していました。Aさんの言葉がわかるまで、わたしたちは1時間ほどその場にいてくりかえし聞き返していたかと思います。
 「介護に来るのが嫌なら、もう来るな。ボクは一人でもここにいる。」1時間かけて、わたしたち介護者たちが聞き届けたのは、これでした。「誰も介護に来なくても、一人でここで暮らしていく」ということです。これは、つまるところ実質的には「死んでもこの自立生活を続ける」「死を覚悟して自分は自立生活をしているのだ」という意味になります。いま考えても、この言葉は、「青い芝の会」の行動綱領を突きつけるものだったと思います。
 「青い芝の会」などの自立生活運動に関わってきた人たちは、多かれ少なかれ、このように、「青い芝の会」の行動綱領を考える機会があったのではないかと思います。

川崎バス闘争(1977年) 神奈川県川崎市では、車いす使用者のバス乗車拒否が続き、青い芝の会員たちが、バスを占拠して抗議活動を行った。

③障害者差別をめぐる現代的動向

 いろいろと書きたかったのですが、今回は、上の個人的体験をつづるに止まってしまいました。近年の「障害者の権利条約」や「障害者差別解消推進法」などをめぐる議論に触れるにつけ、わたしにはこの介護経験が思い出されます。「青い芝の会」の行動綱領や運動は、現在の動きの先取りであったと強く感じるのです。
 次回は、障害者差別をめぐる近年の動向に進みたいと思います。

【参考・引用文献】
・鈴木雅子氏(障害者運動史研究者、静岡県近代史研究会)「『青い芝の会』初期の運動と人々」(「ノーマライゼーション 障害者の福祉」2012.8月号)
・荒井裕樹氏『障害者差別を問いなおす』(2020年 ちくま新書)
・写真/朝日新聞社