学び!と人権

学び!と人権

学校におけるカミングアウトと自己開示
2023.04.05
学び!と人権 <Vol.21>
学校におけるカミングアウトと自己開示
森 実(もり・みのる)

1.プライバシーとは何か?

 自らの生活を綴り語ることは部落解放をめざす教育で大切にされてきましたが、これに反対する声もありました。反対者の意見にはいくつかありました。ひとつは、プライバシーに反するということです。たとえば学校の教員などが、子どもの私生活にそんなに踏み込んでよいものなのかという意見です。もうひとつは、生活苦など自分の努力で乗り越えるべきものだという考え方です。たとえば「ほんとうに苦労した人間は、苦労したことなど語らないものだ」という人がいます。
 このうち、ひとつめのプライバシーに関する意見は、基本的に現代的プライバシー観 を理解できていないために発生していると言わなければなりません。かつてはプライバシーと言えば「自分の生活をのぞき見られない権利」でした。情報化が進むなかで、そのような消極的捉え方では情報化社会を生き抜けないということで、1980(昭和55)年にOECD(経済協力開発機構)が「プライバシー8原則」を打ち出し、そのなかで「自分に関する情報は自分でコントロールすることができる権利」と捉えなおされました。OECDのプライバシー8原則については、文部科学省の『人権教育等の指導方法等の在り方について【第三次とりまとめ】』の「指導のあり方編」(第2章第2節4(2))同「実践編」(2.2.3.(3)参考) で紹介されています。この8原則は、2013(平成25)年に改訂 されていますが、その「第2部 国内適用における基本原則」にあるとおり、基本精神に変わりはありません。このように捉えれば、もしも誰か他の人に関する情報を本人の了解なく他の別な人に提供するとすれば、それはプライバシー権の侵害だということになります。こう考えれば、カミングアウトとアウティングの違いが明確になり、アウティングがなぜ問題かも明らかになりやすいでしょう。
 もうひとつの「苦労人」のお話は、苦労を個人的な問題と捉えるか社会的問題と捉えるかという問題に関わります。現代社会では、貧困なども社会の問題だ とされるようになりました。学校も貧困問題などにどう関わるかが重要になり、スクールソーシャルワーカーなどが配置され、「チーム学校」としてこれに取り組む ことが提唱されるに至っています。以下では、社会的なものだという考え方に基づいて論じています。

性的指向や性自認を第三者に暴露する「アウティング」を禁止する都道府県初の条例を全会一致で可決した三重県議会(2021年3月)

2.自分を綴り語るさまざまな場面、さまざまな意味

 生活を綴り語る意義は一色ではありません。少なくとも、次の4種類ぐらいには分けて考えた方が整理しやすいといえます。人はどういうときに自らを綴り語るのかという問題です。

①助けを求める

 人が自分の困難について綴ったり語ったりする第1の場面は、誰かに助けを求めるときだと言えます。わかりやすいのは、お金を借りようとするときでしょう。お金を誰かに借りようとするとき、わたしたちは自分の直面している困難を語ります。それによって誰かから借財しようとするのです。お金の問題だけではなく、何らかの意味で助けを求めて、わたしたちは自分のことを語ったり綴ったりします。たとえば、精神的支えです。
 この裏返しが、自分の苦労を自慢げに語るときです。困難な状況を何らかの方法で自力により乗り越えたというとき、その苦労話は自慢話に変わります。「ほんとうに苦労した人間は、苦労したことなど語らないものだ」というのは、苦労を乗り越えた本人はそんな話をしようとは思わないものだし、周りの人もそういう自慢話は聞きたくないということでしょう。ここでは、「苦労」は個人的な問題と捉えられています。自慢話をするのは、その個人的困難を自分は乗り越えたと言いたいときです。助けを求めることは、自分の直面する困難を個人的な問題とみている場合でもありえます。苦労自慢と助けを求めることというふたつが互いに「表裏」の関係になるのは、その困難な状況を個人的なものとして捉えている点で共通している場合です。
 LGBTQの人たちの体験を聞いていると、「自分は何者なんだ」と悩んでいる間は、苦しくてなかなか人に語れないという例が多いように思います。その段階でも語るときがあるとすれば、何らかの意味で助けを求める場合だと言えるでしょう。
 このような意味で誰かからその人自身のことを相談されたときは、「自分にできることは何だろうか」と思いながら話を聴くことになるでしょう。語ってくれた本人に対して直接「自分にできることがあれば、言ってほしい」などと返すことになるかもしれません。また、状況にもよりますが、「あなたの責任ではない」というメッセージを返すことが重要です。

②親友に嘘をつきたくない

 自分の直面した困難を綴ったり語ったりする第2の場面は、「黙っているのが嘘をついているようで嫌だ」という場面です。親友と呼べる人ができたとき、その人にだけは自分が母子家庭で育った、被差別部落出身である、在日韓国朝鮮人だといったことを語る場合があります。親友と思える人に対して何か隠し事をしているのは、相手に対して申し訳ないという気持ちになっているということです。語ることで相手が自分を差別したり、自分から遠ざかったりする恐れもあります。しかし、そのように考えること自体が、相手を信頼していないことにもなりますし、語ろうとする相手に対しては「そんなやつじゃない」と思えていることが多いものです。それで語るのです。これは別に助けてほしいと思っているわけではありません。語ることが誠実だと思えるから語るのです。
 こういうときは、語られた側としても嬉しいものです。自分を信頼したから話してくれているのだと感じられます。返す言葉も「話してくれてありがとう」ということばが基本になりそうに思えます。より深い関係を期待して語っている面がありますから、それに応えるとすれば「じゃあ、もっと信頼し合えるようになるね」と信頼に応え、「実は自分もこんな状況のなかで生きてきたんだ」というふうに、自分のことを自己開示して返すという場合もあるでしょう。一人が語ったことに対してそれと重なるように相手が自分のことを返すというやりとりを「自己開示の返報性の原理」などと呼びます。
 こういうときに語った側として聞きたくない感想は、「そんなの関係ない。これまでと同じでいこう」に終わる感想だといいます。自分が悩んできたことそのものを否定されているような気持ちになるからです。もっとも、それまでの関係に十分満足しており、このことを話せば相手が離れていくのではないかと心配しつつのカミングアウトである場合には、「これまでとかわらない。あなたはあなただ」という返答に「ほっとした」という人もいます。

③自分を捉え直せたから語る

 自分を綴り語る第3の場面は、自分を捉えている問題が実は社会的な事柄だったのだと気づいたときです。学校教育などのなかで、子どもたちが自分自身のことを綴ったり語ったりする一番多い場面はこれであるように思えます。たとえば、学校で人権学習をして、その結果、自分を取り巻く課題がはっきりと見えてきたというタイミングがあります。先生の話を聴いて社会問題と自分がつながったという例は少ないかもしれません。多くの場合は、同級生たちの感じたことを聴き、同級生の生いたちや暮らしを聴くなかで自分の背景にも社会的な問題があると感じ取れるようになるものです。この場合には、自分のことを語っている人自身が、気づかせてくれたみんなに「ありがとう!」という気持ちで語っているのではないでしょうか。
 聞かせてもらっている側としても嬉しいでしょう。そして「一緒に乗り越えよう」「共に闘おう」と言いたくなるのではないかと思います。ここで起こっていることは、単なる「自己開示の返報性」によるものではなく、「自分自身や自分の家族のせいだと思っていたけれども、社会に原因があったのだ」と、自分を捉え直す活動が、広がっていく波のように学級などの集団で相次いで生まれていることによるものです。
 これは、ジュディス・ハーマン(1942~)が『心的外傷と回復』(中井久夫訳、みすず書房、1994年)で提唱した「トラウマからの回復3段階説」 にも通じることがらです。その第3段階がクラスで発生しているような状態です。ただ、大きく異なるのは、ジュディス・ハーマンが提唱した集団は基本的に同じような困難や体験を抱えた人たちであるのに対して、学校のクラスというのはさまざまな子どもたちが一緒にいる場所だという点です。ジュディス・ハーマンの提唱している第3段階よりもむずかしい取り組みをしているのだということになります。ただし、もう一つの違いは、ジュディス・ハーマンが対象としている問題よりも傷は浅い場合が多いという点にもあります。しかし、いろいろな子どもがいる集団で取り組もうとしているのだという点は忘れてならないことでしょう。
 この、ある意味でむずかしいことがらがクラスで発生するには、人権学習などが重要な役割を果たします。次に挙げるような、ゲストなどによる体験談が大きな意味を持つこともあります。

④自分という事例をとおして社会的問題を語る

 第4の場面は、自分という事例をとおして社会的な問題を訴えようとするときです。社会的な課題を一般的・抽象的に語っても、なかなか多くの人の心をつかむことができません。個人の体験してきたことをとおして語るとき、社会問題の意味が人びとの心に届きやすくなります。また、一面的なステレオタイプに止まらない形で問題を捉え直すことも可能になります。
 この例としてあげるべきは、被爆者の人たちが被爆体験やその後の人生を語る場面です。わたしの知っている人物で言えば、被害者である被爆者の人のなかに、爆心地を逃げるときに助けを求める人の手を払って逃げたという体験を語る人 がいます。親戚から「うつるから」と家に入れてもらえず、助けてもらえなかったと語る人 がいます。
 こういう話を聴いたときには、「ありがとうございます」と思いつつ、聴き手として自分の体験のなかに重なることがらを見つけ、それを言いたくなるものです。それは被爆とは異なる体験ではあれ、「助けを求める人の手を振り払って逃げた」というような経験です。たとえばいじめられている友だちを見捨てたという経験です。あるいは、自分がいじめられたときに、友だちに相談したら「おまえも直した方がいいところがある」とだけ返されたりしたときのことです。語ってくれた被爆者の人に返したくなるのは、そういう体験とともに、「自分も仲間と一緒に生きていきます」といったことばになりそうに思えます。これらの思いは、話を聞いてすぐに出てくるわけではないことも多いでしょう。自分のなかで咀嚼して、消化することによって初めて生まれる思いです。
 学校での人権学習では、被差別部落出身者や在日韓国朝鮮人、被爆者や障害者、LGBTQの人などさまざまな人が語ってくれることがあるでしょう。ときとして教員が、その人たちに「頑張ってください」と返すことをよしとしているように思えることがあります。そうではなく、子どもたちのなかに、「特にこの子に聴いてほしい」と教員が思う子がおり、そのこの思いを受けとめるまわりの輪が広がることを願って聴き取り学習を位置づけたいものです。

3.分類する理由

 もちろん、この4種類への分類は手がかりに過ぎません。分類する目的はいろいろあります。ひとつは、これらを手がかりとすることによって、自分がカミングアウトする場合であれ他の人からカミングアウトされた場合であれ、その意味を的確に把握し、的確に対応しやすいからです。
 また、4種類のあいだには、さまざまなグラデーションがあります。たとえば、学級担任をする人が年度初めに自分の生いたちやそこにねざした願いを語ることがありますが、これは社会的な問題を訴えるというだけではなく、子どもたちに生いたちや体験を綴る呼び水となることを願っているからだと言えるでしょう。そうすることにより第1や第2の類型で子どもたちから自分のことが出てきやすいようになるかもしれません。
 また、このような整理につながったのは、部落解放をめざす教育をとおしてなので、LGBTQに関わる取り組みでは、別な点がポイントになる可能性があります。ここでは、学校教育に論点を絞って整理しようとしてみました。以前に、もっと広く社会で起こるカミングアウトについて論じた ことがあります。それも参考にしていただけると幸いです。

【参考・引用文献】

  • 森 実「アイデンティティとカミングアウトについて」(冊子『わたしをいきる』(2012年)まえがきから 大阪府ウェブサイト)
  • 文部科学省ウェブサイト
  • 堀部 政男氏、新保 史生氏、JIPDEC氏、(野村 至)氏 仮訳「プライバシー保護と個人データの国際流通についてのガイドラインに関する理事会勧告(2013)」(日本情報経済社会推進協会ウェブサイト 2014.5.7)
  • 政府広報オンライン「“こどもの貧困”は社会全体の問題 こどもの未来を応援するためにできること」(2023.3.24)
  • 山野 則子氏「担任、養護教諭、ソーシャルワーカー…『チーム学校』で不登校激減。家庭の貧困や社会的孤立、虐待を防ぐ『学校の潜在力』を引き出す研究開発」(社会技術研究開発センターウェブサイト)
  • フェリアンウェブサイト「トラウマからの回復の三段階モデル(ハーマン、1994)」
  • YouTube広島平和記念資料館公式チャンネル
  • 森 実「アイデンティティとカミングアウト~自己・他者・社会との関わりのなかで~」(冊子『わたしをいきる』(2012年)大阪府ウェブサイト)