学び!と歴史

学び!と歴史

時代像を提示する「歴史用語」とは何なのだろう
2009.05.20
学び!と歴史 <Vol.27>
時代像を提示する「歴史用語」とは何なのだろう
江戸三大改革の呼び方と、背景を例に
大濱 徹也(おおはま・てつや)

歴史に想像力をとりもどしたい

 歴史の授業は、歴史教科書に出てくる時代の、ある「出来事」に付けられた名称だけにすぎない「歴史用語」をひたすら暗記する教科とみなされ、自らの眼で世の出来事を読みとり、歴史的事実と位置づけ、歴史を描いていくという知的にして、創造的な営みであることが忘れられているのではないでしょうか。
そこで教科書がある時代を問うときに、自明として記してきた時代を象徴的に表明するとしている名称を検証し、ある「歴史用語」を成立せしめ、歴史像を固着させたのは何かを問い質し、歴史学に問われる想像力を取り戻したいものです。
ここでは、その作業のために、「江戸時代の三大改革」なるものがいかに問い語られてきたかを検討してみます。

「通史」に読む「江戸時代の三大改革」像

 日本史の教科書が自明のごとく記している徳川八代将軍吉宗による「享保の改革」、松平定信の「寛政の改革」、水野忠邦の「天保の改革」なる名称はいつから登場したのでしょうか。吉宗のみならず、定信も忠邦も自分が主導する治世を「改革」などと称していません。明治以後の代表的な「通史」もこのような名称でその時代を位置づけませんでした。

 明治期では、田口卯吉の『日本開化小史』(1877-82年刊)が本文中に「8代将軍吉宗中興」と記しているものの、寛政の改革、天保の改革に関する言及がありません。1890年刊行の重野安繹・久米邦武・星野恒の『稿本国史眼』には、吉宗の治世を本文中で総括する用語がなく、「寛政の改革」を小見出しで「松平定信ノ政治」となし、「天保の改革」を小見出しで「水野忠邦ノ改革」となし、本文中に「水越ノ改革」と記述しています。

 大正期では、吉田東伍『倒叙日本史』第5巻(1913年)が「八代の中興」其一.其二の章、「松平越中の新政」という小見出し、「革政無効」の章の小見出しで「水野越前」「水越失敗」として書いています。1916年刊行の池田晃淵『徳川時代史』下(改定増補大日本時代史)には、「革新の修正時代」の章の小見出しに「享保の修正政治」、節名に「吉宗の文武奨励」などがあり、「全盛時代」の章に「家斉の初政と松平定信」の節があり、さらに「閣老権威の失墜及び水野越前の改政」とされています。内田銀蔵の『近世の日本』(1918年)では、「徳川吉宗」「松平定信」「天保の改革」の章がそれぞれに立てています。「天保の改革」なる用語はここに初めて見ることができます。

 昭和期になると徳富蘇峰(猪一郎)が、『近世日本国民史』において、各巻を『吉宗時代』(1926年)、『松平定信時代』(1927年)、『天保改革篇』(1928年)として刊行しております。1932年刊行の高須芳次郎『江戸時代爛熟期』(国民の日本史第十一篇)には「吉宗の民政振興と財政整理」「吉宗時代の経済的発展」「寛政の内政更革と外交政策」「大塩騒動と天保改革」という章があり、栗田元次『江戸時代史』(1933年)では「文治政治の反動」なる章に「所謂享保の中興」という節、「幕政の停滞」の章に「寛政の改革」「天保の改革」という節がおかれています。国史研究会編『岩波講座日本歴史』には、中村考也が「江戸幕府政治(二)」(1933年)で「所謂享保時代の政治」「享保政治」「寛政の改革」を論じ、井野辺茂雄が「江戸幕府政治(三)」(1934年)で「名高い天保の改革」として把握しました。1903年以降の講述を増補修訂して1944年に刊行された三上参次『江戸時代』は、「八代将軍吉宗の治」なる章の一節に「天和の政治と吉宗の改革」があり、「寛政の改革」という章についで、「天保時代」の章の一節で「天保の改革」を論じています。

元号による「改革」の表示が意味すること

 時代を代表した「通史」は、江戸時代をかく時、現在の教科書で自明とされている「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」なる「三大改革」を論じるに、治世の担当者である八代将軍吉宗の政治であり、松平定信の新政、水野忠邦の改革とみなしていました。このような人名を冠した用法は、昭和になり、1930年代に元号で価値付けをして語る用法が定着したことをうかがわせます。このことは、一世一元制の下で、御一新といわれた明治の革命を「明治維新」となしたように、天皇の治世を証する元号で朝廷に対峙する幕府の統治を位置づける風潮が一般化したことにほかなりません。

 このような元号表示で江戸時代のみならず、時代を位置づけるようになったのは、1930年代という時代の空気、国体明徴の奔流に流され、「昭和維新」が声高に説かれる時代の閉塞感を打開する器として、天皇―皇室にある種の「開放」を託そうとの想いがあったからではないでしょうか。ここには、日本の歴史を天皇の存在と結びつけて描く作法に囚われ、歴史を読み解いてきた相貌があります。このような視点は、戦後の歴史学でも克服されることなく、いまだに強く息づいています。それだけに歴史を読み直すには、自明とされてきた「歴史用語」が時代の気分や空気を代弁したものであることに想いいたし、ある種の学問的粉飾で提示されている時代を価値づけた名称や用語を検証したいものです。

 「大化の改新」をはじめ「国風文化」「鎌倉新仏教」「建武の中興」等々の用語の登場はいつ頃なのでしょうか。どのような想いがその名称にこめられていたのかを、授業の前に一時立ち止まり、時代を読み直してみたら面白い世界が見えてくるのではないでしょうか。ちなみに「建武の中興」と「建武の新政」では、その問いかけに何が異なるのか、そこに込められたイデオロギーを問い質してみるのも一興ではないでしょうか。