学び!と美術

学び!と美術

大人と子どものずれが分かる図画工作・美術
2013.03.11
学び!と美術 <Vol.07>
大人と子どものずれが分かる図画工作・美術
奥村 高明(おくむら・たかあき)

 図画工作・美術に携わっていると、大人と子どもの「ずれ」を感じることが多々あります。今回は、その一例を挙げてみましょう。そこから図画工作・美術の役割を考えてみましょう。

 ある年、低学年のクラスに極端に寡黙な子どもがいました。話す友だちはクラスに一人だけ。声を聞くことすらまれでした。当時、校内研究のテーマは「学び合い」でした。私はこの児童を「学び合い」のできないおとなしい子ととらえていました。

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図1

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図2

 その見方が、「シャボン玉に乗って」という題材で変わったのです。題材は、まずシャボン玉遊びをして、その後に「本当にシャボン玉に乗ることができたらどうなるかな?」という提案で始まりました。多くの子は、すぐに画用紙に丸を描いて、その中にケーキや怪獣などを描き入れました。おしゃべりをしたり、友だちの絵を覗き込んだりしながら、どんどん表現を広げていました。でも、この児童は顔を上げず、周りを見ることも話すこともなく、、ただ一人で黙々とシャボン玉だけを描き続けていました。シャボン玉には何も乗っていません(図1)。それを見て、私は「やっぱり、この子に『学び合い』は無理だな」と思いました。ところが、しばらくすると児童の絵に、怪獣やケーキなどが表れ始めました(図2)。よく見ると、その子の絵が変わるのは「先生!ロボット描いた」「私、お花」など友だちの声が聞こえてきたときでした。児童は、周りの声を聞き逃さず、それを資源に絵を描いていたのです。
 私は、「この児童は友だちと話をしながら絵を描いている。豊かに学び合っており、一人ぼっちではない。」と思いました。そして「大人や学校制度の枠組みから寡黙な子どもに見えるだけで、本人にとってはそうではないのではないか」「私たちは子どもたちをいろいろ評価するけれども、それは本当に妥当なのだろうか」と思いました。

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図3

 そのような視点で図1を見ると、光、大小、重なりなど実に立体的にシャボン玉が描いてあります。絵の後半には、シャボン玉自体が生き物のようになっている形もあります(図3)。それはシャボン玉そのものへのこだわりにも思えます。児童はシャボン玉だけを描きたかったのかもしれません。周りや先生に合わせてロボットやケーキを描き入れたのかもしれません。「一見寡黙だけれども周りの様子を取り入れながら学び合う子ども」が、「シャボン玉を丹念に描きたかった」にもかかわらず、「友達や先生の声から」状況を判断して「『シャボン玉に乗って』という児童画」に変更した。そうだとすると、これは「シャボン玉に乗って」を描かせたかった大人の思いと、子どもの思いの「ずれ」だともいえます。
 そういえば、、私自身も似たような思いを味わった憶えがあります。幼稚園の年長のときです。「展覧会に出す絵を描こう」という内容でした。周りの友だちは山に行ったことや、海に行った思い出などを楽しそうに描いていました。私はそれが不思議で「なんで見ていないものが描けるんだ」と思いました。そして「隣のクラスに花があったから、あれを描きたい」と先生に頼み、私は花瓶にさしてあった一輪の菊とカーネーションを描きました。特に菊は花びら一つ一つまで丁寧に描きました。相当よく出来た絵になったと思い、展覧会は楽しみでした。でも、自分の絵は赤い色紙(銅賞)が貼ってありました。あの「夏、海で泳いだよ」という友だちの絵には金の色紙(金賞)が貼ってありました。その友だちの名前や展覧会の情景を思い出すくらい鮮明な記憶で、何か納得できず、哀しい気持ちがしました。
art2_vol7_04 それから45年後、その絵が私の実家から発見されました。今の自分が選ぶとすれば、やはり銅賞だろうと思います。なぜなら画用紙に花が二つ描かれているだけなのです。一枚一枚描いたはずの菊の花びらは結果的に塗り込められ、ただの丸い花になっていました。よく描けたという思いとはうらはらに、動きはなく平板で、児童画としては全く面白みのない絵だったのです。当時の私の思い、表現力、展覧会の思い、児童画らしさなどが見事に「ずれ」ていたのです。

 私たちは本当に子どもの描きたいものを描かせているのでしょうか。そもそも児童画って何なのでしょうか。そこには大人と子どもの「ずれ」が数多く存在しているように思います。私自身、まだ答えを見出すことができません。ただ、今回紹介した事例のように、子どもたちの姿は、常に大人の見方や制度などを問い続けてくれます。それだけでも、図画工作・美術は教育課程に必要だろうと思うのです。