学び!と歴史

学び!と歴史

平城京・天平政治の舞台裏
2010.05.10
学び!と歴史 <Vol.37>
平城京・天平政治の舞台裏
遷都1300年
大濱 徹也(おおはま・てつや)

 今年は、710年の平城遷都から1300年ということで、マスコットキャラクターの「せんとくん」を掲げた一大イベントが企画され、奈良への観光客の誘致がはられています。テレビでは、「大仏開眼」が話題をよび、シルクロードにつながる日本の道と重ね、日本の原郷、「日本のはじまりの奈良」への関心が呼びおこされています。そこには、昨今の日本をおおう閉塞感への苛立ち、ある種の「美しい国日本」を言挙(ことあ)げすることで「日本民族」の誇りを感じたいとの想いが読みとれます。この「天平」なる時代はどんな時代だったのでしょうか。

藤原政権への道

平城京 朱雀門 奈良県奈良市

平城京 朱雀門 奈良県奈良市

 平城京を都とした8世紀は、律令体制の下で、シルクロードにつながる仏教文化が栄え、いわゆる天平の盛事とよばれる世界が展開していました。しかし、王朝政治の底流では、激しい政争が絶え間なく続き、藤原一族の覇権が確立されていきます。
 律令政治は太政官が政治の中心となり、太政官は公卿といわれる太政大臣・左大臣・右大臣各1名、大納言2名、中納言3名、少納言3名と数名の参議で構成されています。この首脳部は、皇親と石上(いそのかみ)・多治比(たじひ)・紀・粟田・大伴・巨勢(こせ)らの有力豪族と大化改新の功労者藤原氏からなっていました。藤原氏は、大宝律令制定の中心であった藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘宮子が文武天皇の夫人となり首皇子(おびとのみこ。のちの聖武天皇)を生んだことで、天皇家の外戚として力をつけていきます。しかし720年(養老4)に右大臣であった不比等が死んだため、天武天皇の長子高市皇子(たけちのみこ)の子である長屋王がやがて左大臣として力をふるったのです。

学び!と歴史vol37復元図

平城京 復元図

 不比等のあとを継いだ藤原武智麻呂(むちまろ)ら4兄弟は、724年に即位した聖武天皇の夫人光明子(こうみょうし=安宿媛・あすかべひめ)が不比等の娘で武智麻呂の異母妹であったことで、長屋王に対抗しました。727年に光明子が生んだ基皇子(もといのみこ)が満1歳の誕生日を迎える前に病死したのは長屋王の呪いだとして、長屋王一族は滅ぼされました。長屋王は、臣下の出身が皇后になった前例がないとして、光明子が聖武天皇の皇后になることに反対したからだったのです。武智麻呂ら藤原一族は、長屋王が密かに左道を学び国家を傾けようとしているとの密告をもとに、長屋王邸を包囲攻撃し、王と妻子を自害させました。ここに藤原氏は、公卿9人のうち4人を占め、その主導する政権を確立していきます。

長屋王の祟り

 藤原一族による天平の政治は10年近くつづきましたが、737年に、2年前に新羅からもたらされた裳瘡(もがさ、天然痘)で4兄弟が病没したことで一挙に崩壊しました。聖武天皇は天然痘の流行に怯え、己が不徳のなすところとして、諸社への奉幣や護国経の転読などを行わせますが功なく、長屋王の子女の位階昇叙(いかいしょうじょ=官位があがること)などを行いました。光明皇后は燃燈供養で長屋王の菩提を弔い、「五月一日経」書写を発願して長屋王への罪障の滅罪をはかります。
 このことは、九世紀初頭に編纂された『日本霊異記』中巻の「己が高徳を恃(たの)み、賤形の沙弥を刑(う)ちて、もって現に悪死を得し縁第一」に、長屋親王らの屍を城外に捨て、焼き砕いて河に投げ散らし海にすてたが、親王の骨だけ土佐国に流した。そのため土佐国では多くの人々が死に、人々は「親王の気に依りて、国の内の百姓皆死に亡(う)すべし」と申した。天皇は、これを聞き、すこしでも皇都に近づけるために、紀伊国海部郡椒沙の奥の島(現和歌山県有田市初島町)に置いたとの話にみられるような、長屋王の祟りへの恐れあったことによります。政変による非業の死は、亡魂がこの世に祟りをもたらすとなし、怨霊の存在を意識させたのです。

広嗣の乱、広嗣の霊

 藤原四氏没後の政権は、右大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)が中心となり、唐から帰国した吉備真備(きびのまきび)と僧玄昉(げんぼう)らが参加して運営されていきます。
 740年(天平12)、大宰府に左遷されていた藤原広嗣(ひろつぐ)は、天地の災害の元凶が吉備真備と僧玄昉にあるとなし、北九州の豪族・百姓を率いて叛乱を起こしましたが、大野東人(おおののあずまびと)に鎮圧され、唐津で処刑されました。ここに広嗣の式家に代わり南家が台頭し、朝廷も動揺します。聖武天皇は、律令の原理であった公地公民制が破綻し、天地の異変に怯え、都を恭仁京(くにきょう-現木津川市加茂)、紫香楽宮(しがらきのみや-現滋賀県甲賀市信楽町)、難波宮(なにわのみや-現大阪市中央区)に遷都し、平城京に還すという遷都をくりかえす有様でした。
 玄昉は、745年(天平17年)に藤原仲麻呂から筑紫観世音寺別当(太宰府市観世音寺)に左遷され、翌年に亡くなります。この死については、『続日本紀』天平18年6月の条が「世相伝えて云わく、藤原広嗣の霊のために害するところ」と記しており、『扶桑略記(ふそうりゃっき)』も「玄昉法師大宰小弐藤原広嗣の亡霊のためにその命を奪わる。広嗣の霊は今松浦明神なり」としているように、玄昉の死を広嗣の霊魂の仕業とする風聞が広く流布したのです。『平家物語』『今昔物語集』も広嗣の悪霊をめぐる物語を描き、天皇が怯えていたことを記しています。
 広嗣の霊は、悪霊としての強力さで、現在の佐賀県唐津市の鏡山の麓に鎮座する鏡神社、北九州市八幡東区の荒生田(あろうだ)神社、奈良市高畑町の鏡神社、京都府木津川市の御霊神社などに祀られています。

跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する亡魂・生霊

 橘諸兄の政権は、聖武天皇が譲位して孝謙天皇の時代になると、藤原仲麻呂と対立していきます。仲麻呂は、孝謙女帝とその母光明皇太后の信任を得て、皇后宮職を改称した紫微中台(しびちゅうだい)長官として、皇太后の権威を背景に権力を握ります。諸兄の子奈良麻呂は、仲麻呂を排除すべく決起しようとして捕縛され、拷問死します。奈良麻呂の乱は、「民間に亡魂に仮託し、浮言紛紜として、郷邑(きょうゆう=郷里)を撹乱する者あり」と、奈良麻呂の非業の死への同情が怨霊となって世を騒がすとの風聞を生んだようです。
 ついで仲麻呂は孝謙上皇の寵愛をうけた道鏡を排除しようとして処刑され(恵美押勝の乱)、廃帝された淳仁天皇は淡路に幽閉され、淳仁の兄弟船親王は隠岐国へ、池田親王は土佐国に流されました。孝謙は重祚(じゅうそ=一度退位した君主が再び君主の座に就くこと)して称徳天皇となります。『水鏡』は、称徳天皇の項に、天平宝字9年(765)に「淡路廃帝国土を呪い給うによりて、日てり、大風吹きて世の中わろくて、飢え死ぬる人おおかりきと申し合いたりき」と、淳仁の呪いで災異が起きたとの噂があったことを記しています。天平宝字の災害は淳仁の生霊が引き起こしたとみなされたのです。淳仁は、称徳の意向で淡路廃帝と呼ばれたままで、淳仁天皇と呼称されるのは明治3年(1870)になってからです。称徳は、淡路の淳仁が逃亡し、徒党を組んで皇位を奪いにくることを警戒しつづけたのです。淳仁は、天平神護元年(765)10月23日に歿しました。

「青丹よし」と歌われたかの平城京は、権力の争奪をめぐる激しい政争が渦巻き、非命に倒れた者の恨みが世を騒がしていたのです。平城遷都1300年の現在、復元された平城京に立ち、そこに眠る亡魂と向き合い、敗者の眼で時代の闇を読み解くのも、歴史の一作法です。