学び!と歴史

学び!と歴史

国風文化とナショナリズム
2010.09.03
学び!と歴史 <Vol.40>
国風文化とナショナリズム
清少納言と紫式部がいた時代
大濱 徹也(おおはま・てつや)

清少納言 VS 紫式部

 清少納言は女房名で、父である歌人清原元輔の清原の姓から「清」と、親族の役職名から「少納言」にしたといわれています。一条天皇の993(正暦4)年冬頃から中宮定子に仕え、博学にして才気煥発な言動で定子をめぐる後宮をひきたて、主君定子の恩寵をこうむり、宮廷社会に名をなしました。その作品『枕草子』は、歌枕などの類集である「ものはづくし」、詩歌秀句、日頃の観察記、世間の噂、人物評をはじめとする宮中生活の記録ともいうべき回想で、作者清少納言の好奇心のおもむくままに見聞した世界が認められています。しかし、その才気煥発な言動を紫式部は『紫式部日記』で声高に批判しております。

 清少納言こそしたり顔にいみじうはべりける人さばかりさかしらだち、真名書き散らしてはべるほどもよく見れば、まだいと足らぬこと多かり、かく人に異ならむと思ひ好める人はかならず見劣りし行末うたてのみはべればえ心になりぬる人はいとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみをかしきことも見過ぐさぬほどにおのづからさるまてあだなるさまにもなるにはべるべし、そのあだになりぬる人の果ていかでかはよくはべらむ

 若い公達を手玉にとりしてやったりと得意顔する女清少納言、「したり顔」して「真名」たる漢字漢籍の知識をひけらかしているが、よくみるとまだ足らないことが多いとなし、こんな人の行く末にいいことがあるはずはないとまで述べるほどに、清少納言への敵愾心を燃やす『源氏物語』の作者紫式部の姿には、「女のいくさ」のすさまじさが読みとれます。
 紫式部は、「御堂関白」藤原道長に寵愛され、道長の長女である中宮彰子に仕えた女房でした。清少納言が仕えた定子は一条天皇より三歳年上で、父関白道隆によって中宮とされましたが、道隆の死後は三男の道長が権力を握り、その娘の彰子を中宮となし一人の帝王に二人の中宮という「一帝二后」という事態の中で苦しみ、その後宮も寂しくなります。
 「望月のかげあることなき」といわれるほどに権力をふるう道長の下にある紫式部は、このような敵対関係にある宮中にあって、中宮定子の女房清少納言に辛辣な眼を向けたのです。ちなみに紫式部は、藤原北家の出身である越後守藤原為時の娘、母は藤原為信女で、中宮定子が没後に中宮彰子に仕えます。その点では、清少納言が定子の後宮に奉仕していた時期とすれちがっていますが、彰子の権勢を一身に担う者として、中宮定子の高名を轟かせた清少納言の存在が許せなかったのではないでしょうか。

「真名」という漢籍をめぐる素養

 中宮定子の後宮風景は『枕草子』の「雪のいと高う降りたるを」にうかがえます。ある雪の朝、中宮定子が「香炉峰(こうろほう)の雪、いかならむ」と問われ、清少納言は御簾を巻き上げます。女房たちは、この清少納言の所作に、「さることは知り、歌などにさえ歌へど、思ひこそよらざりつれ」と言います。定子に仕える女房達は、清少納言が唐の詩人 白居易の「香炉峰雪撥簾看(香炉峰の雪はすだれをかかげてみる)」という詩をふまえたものであることを、すぐに理解したのです。ここには、後宮に奉仕する女が和歌のみならず詩文の知識、漢籍への素養をも身につけていたことがうかがえます。
 清少納言を論難した紫式部は、人前で「一」という文字すら書けないふりを『紫式部日記』に認めていますが、『源氏物語』に詩文の知識がちりばめられておりますように、詩文をささえる漢籍への造詣がありました。いわば真名は、男のもの、表の世界といわれていましたが、女にとっても身につけるべき素養だったのです。
 清少納言と紫式部という二人にみられる女のいくさは、平安朝の宮廷文化を支えている世界の奥深さ、真名という表層にある漢籍という唐様に対して、仮名という国ぶりをあらわす国風が深く根を張っていたことがうかがえましょう。
 平安朝の世界は、「をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみむとてするなり」と書きはじめた紀貫之の『土佐日記』が先導することで、男が政務の記録を漢字で記した日記をして、仮名で和歌と同じように己の心情を吐露する日記を誕生させました。こうした風潮は、漢籍に象徴される唐風の世界に対し、国風-国ぶりへの眼を大きくさせます。
 この営みは、歴史の記述において、摂関政治の時代を「国風文化」なる呼称で位置づけさせることともなりました。いわば「国風文化」は、列島にもたらされた中華の文明-唐風の世界が倭-日本の大地にとりこまれ、新たな色づけで国ぶりに塗り替え、意味づけられていくことでした。しかしその眼は、大宰府交易への強い期待、唐物崇拝が根深いように、中華の国への憧憬が渦まいていました。清少納言と紫式部が体現している世界は、このような唐風と国風が渦巻くなかで、国ぶりを問う眼が大きく育とうとしていた気分を代弁していたのです。

ナショナリズムに呼応して

 現在の歴史の教科書では、10~11世紀を「国風文化」あるいは「国風の文化」といった言い方で、日本の風土や日本人の人情・嗜好に相応した「優雅」で「洗練」された文化、日本文化が生まれてきたという記述、仮名文字・古今和歌集に代表される和歌、土佐日記などの仮名の日記、その他様々なかな物語が紹介され、寝殿造などの国風美術等への言及をしています。また、浄土信仰がおき仏教の日本化を読むことができます。この「国風文化」なる記述は、1930年代の国体明徴の時代風潮をうけ、東京帝国大学教授川上多助『平安朝史』(『総合日本史大系』)で9世紀初頭を「唐風文化」となし、10世紀以降を「公家文化」と呼び、「国風」を「公家文化」の一要素としました。
 現在の「国風文化」論は、こうした位置づけを受け、日本敗戦と占領下の1950年代に民族独立を課題とした日本共産党の政治綱領と結びついて展開されたものなのです。大阪市立大学文学部名誉教授 河音能平(かわね よしやす)は、敗戦の1945年以後における「新しい『民族問題』、発達した資本主義国である日本がアメリカ帝国主義に対して従属的同盟におちいったという新しい事態に直面」したという認識をふまえ、「日本『民族』の形成過程を科学的に明らかにすることによって、そこから真に国民的=革命的な歴史意識をくみだそうと」する研究のなかから、「日本民族文化」形成の重要な契機として「国風文化」を把握したいとの課題を提示しました(『講座日本文化史2』より「『国風』的世界の開拓」 三一書房刊 1962年)。
 このような論調には、「国風文化」を問い質し、「国風」とあえて強調することで、民族独立へのロマンを奏でる想いが読みとれましょう。この強きナショナリズムへの眼が説き聞かせた「国風文化」にこめられた「国風」なる呪縛から自由になるには、清少納言や紫式部が垣間見せた後宮の暗闘を問い質すなかで、唐風への強き憧憬を凝視し、「国」に託された世界を解析することが問われているのではないでしょうか。