学び!と歴史

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大日本帝国憲法という枠組 ―「皇国」日本という幻想(3)―
2018.01.29
学び!と歴史 <Vol.119>
大日本帝国憲法という枠組 ―「皇国」日本という幻想(3)―
大濱 徹也(おおはま・てつや)

承前

 伊藤博文は、ヨーロッパでキリスト教がはたしている役割に代替しうるものとして、皇室を国民統合の要とみなし、国家の枠組みに天皇を精緻な制度体としてとりこむことに全能力をかたむけました。この制度体は、神話的な言説に粉飾されているものの、先進文明国であるヨーロッパの立憲君主制の枠組みを換骨奪胎し、日本型ともいえる立憲君主制を可能とする大日本帝国憲法として実現します。この国家造形に見られる作法は、文明の枠組みを分節化し、選別改変して、選択的に受容する、機能合理主義的価値判断にうながされたものです。まさに日本の近代化は、文明と天皇制が同時的に展開することで、国民国家への方途が可能となりました。ここに天皇という存在はどのように位置づけられたのでしょうか。

「帝国憲法」の構造

 大日本帝国憲法は、伊藤が説き聞かせたごとく、「国家統治の大権は朕か之を祖宗に承けて之を子孫に伝ふる所なり朕及朕か子孫は将来此の憲法の条章に循ひ之を行ふことを愆(あやま)らさるへし」と、「第1章 天皇」からはじまります。

第1条 大日本帝国は萬世一系の天皇之を統治す

 伊藤博文は、帝国憲法を解説した『憲法義解』において、第1条を次のように説いています。

恭て按するに神祖開国以来時に盛衰ありと雖、世に治乱ありと雖、皇統一系宝祚の隆は天地と與に窮なし本状首めに立国の大義を掲け我か日本帝国は一系の皇統と相寄て終始し古今永遠に亘り一ありて二なく常ありて変なきことを示し以て君民の関係を萬世に昭かにす

 日本帝国は、神武天皇の「開国」以来の万世一系の皇統による統治を「立国の大義」となすことで、国家存在の根拠としました。この「立国の大義」は、第2条、第3条によって、新国家における王権の在り方を規定します。

第2条 皇位は皇室典範の定むる所に依り皇男子孫之を継承す
第3条 天皇は神聖にして侵すへからす

 皇位は天皇の血を継ぐ男子がつぎ、天皇が「神聖」な存在であると。「神聖」とは、日本書紀巻一「神代上」冒頭にある天地開闢の記述で、「天(あめ)先づ成りて、地後に定る。然して後、神聖(カミ)其の中に生まれます」を受けたもので、「カミ」との意をこめたものです。しかし「カミ」なる天皇は、権力がいかに強大だとしても、

第4条 天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行ふ

とあり、君主といえども憲法に規定された範囲を超える権力の行使が出来ないように君権を「憲法の条規」に封じ込めております。
 伊藤は、この条文に「抑憲法ヲ創設スルノ精神ハ第一君権ヲ制限シ第二臣民ノ権利ヲ保護スルニアリ」(「枢密院会議筆記・一、憲法草案」)との思いを託したのです。ちなみに第1条と第4条の矛盾ともいうべき関係は、憲法および皇室典範を「皇祖皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述」(「告文」)したものと位置づけることで、解消しました。
 しかし、天皇が「戦ヲ宣シ」(第13条)、その戦に敗れたりすれば、当然天皇に政治的な責任が生じかねません。そのため、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」との第3条で「神聖(カミ)」なる天皇であるがために無答責であると宣言し、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」(第55条)と規定することで、国務各大臣に大権行使の責任を負わせたのです。
 たしかに陸海軍の統帥権をはじめとする「天皇大権」がありましたが、天皇が恣意的に「大権」を行使することはできません。そこには、内閣・元老、さらに軍等の意向を参酌せねばならず、天皇が独裁者の如くふるまう道はありませんでした。このような統治システムを「天皇制民主主義」とみなす論者もありました。ある意味でいえば、大日本帝国憲法の枠組みは、時代状況に応じて流動し、内閣や軍の意向に左右され、「天皇」の名による恣意的統治への道を開くことを可能にする世界でもあったといえましょう。
 それだけに大日本帝国憲法の運用は、天皇と輔弼者である大臣との信頼関係、端的にいえば制定者たる伊藤博文と明治天皇との情誼的な一体感をふまえた信頼関係の下で、はじめて運用の実、憲法に込められた理念が実現できたのだといえましょう。この情誼的・人的装置の喪失は、法の論理が先行することで、「機関説」「神権説」云々の論争の中に運用の妙が喪失し、統治機構の内的崩壊をもたらすことのなったのではないでしょうか。この課題は、大正から昭和にかけて、あらためて検証せねばなりません。