ICT・Educationバックナンバー
ICT・EducationNo.16 > p18〜p22

海外の情報教育の現場から
寒いけれど熱い国ロシア
─ロシアの教育について─
青山学院高等部 池田 敏
sikeda@agh.aoyama.ed.jp

 ロシアというと,「恐ろしい」,「何を考えているかわからない人々の国」というイメージを持つ人が多いことでしょう。私も以前は同様でした。最初に下見に出かける前,不安を感じていたのは事実です。しかし,その先入観はものの見事に打ち砕かれました。これほど純粋で暖かいハートを持った人々がいるのか,という感動を覚えたくらいです。私の勤めている青山学院高等部では,1998年より,ロシア・サンクトペテルブルグ第83中等学校との具体的な交流が開始され,この5年あまりの間にこちらから3回訪問し,反対に向こうから2回訪問を受けました。その経験を通して学んだことがらを,ここでは紹介させて頂きたいと思います。

1.交流の経緯

 ロシア・サンクトペテルブルグ第83中等学校(以下83校)では,1993年に日本語教育特別課程が設置され,カリーニナ・ヴァレンティーナ・アレクサンドローヴナ先生が日本語課程担当の副校長に就任し,熱心な日本語教育が始まりました。ロシアの学校では,校歌というものが決められていませんが,カリーニナ先生は,故・濱口庫之助作詞・作曲の「バラが咲いた」を日本語課程の校歌と決め,生徒たちにこの歌を教え始めました。このためバラの学校とも呼ばれています。この濱口庫之助氏が青山学院の卒業生で,現理事長の友人であったことから,青山学院との交流が始まりました。当初は初等部児童との文通という形で交流が始められたのですが,1996年カリーニナ先生の来日をきっかけにホームステイの可能性が検討され始めました。1998年3月,私を含む2名の教員が現地に赴き,実地調査・打ち合わせが行われました。具体的日程,受け入れ家庭との責任分担,経費の問題,病気・事故などの対応について協議がなされ,その年の夏,7月末に第1回ロシア・サンクトペテルブルグホームステイが,参加生徒12名,引率教員2名で実施されました。その成功により,翌1999年7月に第2回目が同じ規模で実施されました。2000年5月には,青山学院の招待でカリーニナ副校長と生徒3名が来日し,第1回 ・第2回ホームステイ参加者の家庭にホームステイしました。2001年7月には第3回ホームステイが実施され生徒9名引率教員2名が現地に赴きました。そして2002年は2回目の引き受けを行い,カリニーナ先生と3名の生徒が来日しました。私は,こちらから行くホームステイの引率2回と引き受け2回を担当しました。

2.実際に行ってみて感じたこと
 しばらく前のテレビでは,ロシアには物がなく,パンを買うにも列を作らねばならないというような映像が流れた影響もあり,何を食べられるのか,一体どんな生活が待っているのか,心配しながら下見に出かけました。下見で,まず,最初に感じたのは寒さでした。3月末であったにもかかわらず,サンクトペテルブルグの中心を流れるネヴァ川は完全に凍っており,その氷の中にロシア革命の象徴である戦艦オーロラが閉じ込められていました。雪はほとんどなく,乾いた寒さを感じました。それでも,1週間の滞在中に川は緩み始め,昼間は少しずつ水が動くようになりました。そうなると川岸の日だまりに水着を着て日光浴をする人の姿が見られました。分厚いコートを着て震えている身には信じられない情景でした。空港や街中の印象は,想像通り怖い顔の人が多いように思われました。空港の係官は笑顔を見せるのは悪徳だと言わんばかりの表情で応対し,お店のレジの人もニコリともしません。日本の買い物とはシステムが多少異なり,ショーケースの商品を見て,買う物を決めると先にレジで支払いを済ませなければなりません。そのレシートを持ってショーケースに戻って初めて商品を受け取ることができる仕組みになっています。その買い方にも慣れず,お店は怖い,という印象を持ってしまいました。

 しかし,打ち合わせのために訪れた83校や下見をさせて下さったいくつかの家庭では,本当ににこやかに心のこもった対応をしてもらい,そのギャップに最初は悩んだくらいです。

 実際に生徒を伴い,ホームステイを実施したときに,後者こそが真実の姿なのだということが強烈にわかりました。ロシアの家は基本的に一戸建てではなく3DKか2LDKのアパートです。(一部屋の大きさは日本のものより大きいことは確かです。)子どもの数も多くはなく,一人または二人。三人以上の子供を持つ家庭はほとんど見られません。そして,その子どもを徹底的に大切に可愛がります。欧米の独立心を養うという教育観とは全く異なり,人目も気にせず可愛がります。子どものためならばどんなことでも犠牲を惜しまない,という風潮です。子どもが日本語の勉強を始めると,かなりの数の親も子どもの勉強を見てあげられるようにと,日本語を学び始めると言いますから,その熱心さは半端じゃありません。

 アパートには,3世代住んでいることも珍しくはありません。夫婦で一部屋,老人に一部屋,子どもに一部屋という感じです。しかも,そのような家庭がホームステイを引き受けるのです。そして,客人のために誰かが部屋を空けるのです。最初に私が滞在した家庭では,私の滞在中,おじいちゃんがリビングのソファで寝ていてすっかり恐縮してしまいました。それでも,子どもの日本語の勉強に役立つはず,と引き受けてくれるのです。

 ロシアの家庭の平均月収は200〜300ドルと聞いています。私たちと交流を持った83校の日本語特別課程の場合,これよりは高収入であろうと思われます。しかし,それにしてもと思われるくらい私たち訪問者のために尽くしてくれるのです。食事は本当にどこでも非常に美味しいですが,訪問者用にロシア的なものを一品多く用意してくれることが多く,わずか10日間の間に確実に体重は増えてしまいました。どこかに出かける際も,地下鉄の料金すら払わせてもらえません。「あなたは我が家の大切なお客なのだから…」というのです。さらに,ほぼ全員の生徒が,ホストファミリーにバレエかオペラに連れて行って貰っていました。決して安くはないはずです。私の場合も,親は入り口まで送り,子どもと私だけが入場し,帰りに迎えに来てくれました。子どもには本物を見せたい,という思いなのでしょう。また,子どもの時から本物の美を愛する心を持ちあわせているようで,小学校3年生の男の子が「くるみ割り人形」全幕を静かに楽しそうに見ているのには驚きました。

 自分たちの文化,特に芸術に対しては幼い頃から深い愛が育てられています。サンクトペテルブルグの街中いたるところに見られる歴史的建造物や美術品の前に来ると,日本語課程に学ぶ子どもたちは一生懸命説明を始めます。驚くのは,いつ作られたのか,どのくらいの大きさかといった具体的な数字まですべて暗記しているのです。深い愛着がなければ不可能な業である,と思いました。

 家の中では,家族の対話をこの上なく楽しんでいるようです。どこの家にもテレビはありますが,あまり観ることはないようです。小さな台所には通常ラジオが置かれ,起きて家にいる間中,ラジオは鳴り続けています。そして,やはりそこに置かれている小さなダイニングテーブルの回りで,何時間も話し込むのが何よりの娯楽となっているように感じます。家族の中で人が人として大切にされていることを感じました。もしかすると日本人が忘れてしまった大切なことが示されているようです。訪れた生徒たちも異口同音に「家族の絆の深さに感動した」という旨の発言をしています。

出迎え場面
▲出迎え場面

ネヴァ川のほとりで
▲ネヴァ川のほとりで

ホストファミリーと台所で
▲ホストファミリーと台所で
3.ロシアにおける情報教育
 1998年に下見で訪れたときを除いて,生徒を引率してのホームステイはいいずれも夏休み中であったため,授業の見学をしてはおりません。学校の施設そのものも,お別れ会の数時間訪ねただけの印象で,あまり詳しくとはいえません。分かる範囲でご紹介したいと思います。

 ソビエト連邦が解体されてから,国民全体が大きな変動を経験してきました。その中で,特筆すべきことは二つあるように思われます。まず,第一は宗教回帰です。ソビエト時代,宗教活動は制限されていました。大きな教会の多くは党に没収され,その管理下におかれました。その反動なのかもしれませんが,多くの人が教会に集まっています。国中,いたるところで教会が再建されたり,新たに作られたりしています。多くは町のシンボルして非常に立派なものに建て上げられています。ロシア正教の礼拝はカソリックやプロテスタントのものと多少違いがあります。教会堂の中には机はもちろん椅子もありません。人々は立ったままか,あるいはひざまずいて礼拝を捧げます。パイプオルガンなどの楽器もありません。讃美歌はすべてアカペラでその朗々とした歌い方,美しさには息を飲むばかりです。

 二つ目の大きな変化は,貧富の差の拡大です。ニューリッチ,新しいロシア人と言われる富裕層の出現に,国全体が戸惑っているような印象を受けました。不思議なことは,国民全てが豊かさへの憧れで同じ方向を向いているわけではない点です。前述のカリーニナ副校長先生も,日本語のガイドとして生計を立てれば現在の数倍の収入が可能なようです。しかし,日本語を教えること,そして,日本との交流を広げて行くことが私の生きがいであり,収入など第二義的な問題と軽く言ってのけるのです。金銭的なこと以上に精神的な豊かさを求める人たちが確実にいることが,この国の底力なのかもしれません。

 それでも,新しい欧米の商品は確実に浸透してきています。モスクワでもサンクトペテルブルグでも,おなじみのハンバーガーやピザのファーストフード店が伝統的なピロシキやクワスを凌駕しつつあるように見えました。

 83校の中でも経済的格差はあるようです。学費が特別にかかる日本語(英語のものもあるようです)特別課程には,恵まれた環境の子どもたちが集まっているようです。普通課程に通う子どもたちとは環境が大きく異なるようです。この特別課程のカリキュラムには,情報(コンピューター)の授業が必修として組み込まれているようです。コンピューター専門の教員が常勤しており,7年生から12年生までの生徒はこの授業を必修として,週2回受けているようです。その内容まで深く知ることはできませんでしたが,ワープロソフトや表計算ソフトの使い方の習得やメール,インターネットの使い方,簡単なプログラミングも行っているようです。

 使われているソフトも,基本的にはマイクロソフト社製のものが主流のようです。ロシア国内のソフトメーカーの名前は聞きませんでした。キリル文字(Ж,Щ,Ю,Я,Иなど)のフォントの問題を除けば,ロシアの生徒たちと直接メールのやりとりも可能です。ホームステイに参加した生徒の何人かは,今も文通の代わりに実際日常の細かいニュースのやりとりをメールでしているようです。その際,お互いに読み書きしやすい,英語でやりとりをしているようです。

 83校生徒の家庭におけるコンピューターの所持率は,普通課程生徒の家庭の場合では限りなく0に近いようですが,特別課程生徒の家庭の場合,80%近くになるそうです。最初に私がホームステイをさせていただいた家庭は,私と同じ物理の先生の家庭でした。その時にはコンピューターはなく,物理の演習課題を膨大な量のカードにストックしており,それをコピーし,問題集・テストに使っていると言っていました。見せていただいたものは細かい字でオーソドックスな良問が幅広く用意されており,基礎力を身につけるための教育をしっかり行っていることを感じました。3年後に訪れたときはその家庭にもコンピューターが購入されており,すべての物理カリキュラムが1枚のCDに収められていることを見せていただくことができました。日本も同様だと思いますが,この5年でコンピューターの状況は大きく変わっているようです。

赤の広場で
▲赤の広場で

イサク寺院の前で
▲イサク寺院の前で

ピョートル夏の宮殿
▲ピョートル夏の宮殿
4.ロシアとの今後の関わり
 来年は,サンクトペテルブルグ建都300年祭に当たります。また,同時に,83校の日本語特別課程ができて10周年目に当たります。現在,サンクトペテルブルグ市内は,道路や建物の大幅な修復が進められているようです。2001年に訪ねた時もすでに街中では道路を掘り起こす工事が盛んに始められておりました。日本の工事のように住民へ障害ができる限り少なくなるように,というような配慮はあまりなされないようで,街中に通じる道路をすべて封鎖しての工事を敢行することもあるようで,そうなると交通網は完全に分断されてしまうようです(第3回のホームステイの時もその地区全体の給湯システムの工事にあたり,1ヶ月間お湯が出ない日が続いていました。大きなバケツに湯を沸かし,バスタブに水で埋めながら満たし入浴することで,全く問題は感じませんでした)。大々的な催しを市や学校で行うことになっているそうで,次年度のホームステイ参加者は幸運と言えるでしょう。美しく整備されたサンクトペテルブルグは,コンピューターの整備という面でも格段の進歩を遂げていることと思います。

お別れ会
▲お別れ会

お別れの朝
▲お別れの朝
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