ICT・Educationバックナンバー
ICT・EducationNo.37 > p1〜p4

論説
コミュニケーション学としての情報教育
新潟大学 生田 孝至
1.はじめに
 コミュニケーション研究で対象とする形態は,大きく二つに分けられる。一つは一対一のパーソナルなコミュニケーションの形態である。これは対面コミュニケーションが中心で,双方向性が特徴である。電話や手紙などもこれにあたる。集団でのコミュニケーションもこの範疇になる。ネット上では電子会議室,電子フォーラムなどの議論の場が容易に構成できる。ネットによる対話もこの形態である。もう一つはマス・コミュニケーションの形態である。マス・コミュニケーションは,遠隔による一対多のコミュニケーションである。これは送り手による情報伝達が強く,一方向性が特徴になる。Web上での個人のサイトなどはマスコミ型であるが,受け手が自由に返信できるので,双方向性はマスコミに比べて極めて高くなる。
 このほかに,個人内コミュニケーションがある。いわゆる思考に代表されるが,日記やメモなどもこれにあたる。また,人—機械のコミュニケーションや,機械—機械のコミュニケーションもある。
 こうした形態とは別に,意図的コミュニケーション,無意図的コミュニケーション,などの区分もある。意図的コミュニケーションは,送り手に明確な目的がある場合で,無意図的は,日常の何でもない会話や接するメディアによる知らず知らずの影響などがこれにあたる。どちらもコミュニケーション研究にとっては大きなテーマである。
 本稿では,主としてヒューマン・コミュニケーションを念頭に,コミュニケーション研究の視点から情報教育をながめようと思う。
2.コミュニケーションモデル
 D.K.バーローはコミュニケーションモデルとして,S—M—C—Rモデルを提示している。Sはソース,Mはメッセージ,Cはチャンネル,Rは受け手である。

(1)送り手と受け手論
 ソース,つまり情報源は,送り手個人の場合もあれば,マス・コミュニケーションのように組織や専門的集団の場合もある。ネットワーク社会では,誰もが情報源となり不特定多数に情報を発信できるという特徴があるが,受け手にとっては誰が情報源であるかの特定が困難な場合が多い。これまでのコミュニケーションでは情報源は見えていた。ところがネット上では,情報源が特定できないにもかかわらず,従来のコミュニケーションに慣れているため,どの情報も確かな情報源からの発信と思いこむ可能性がある。ネットを介してのコミュニケーションでは,情報源を意識することが大事になる。
 情報源は,情報の発信者であるから,そこに関わる第一の要因はコミュニケーション技能である。情報源としてのコミュニケーション技能とは,目的に応じて必要とするメッセージを構成し,それが表現できるメディアを設定する技能のことである。この時の能力が,符号化(コード化)の力である。伝統的には文章を書く力である。受け手が理解しやすいように符号化できれば,情報源としてのコミュニケーション力は高い。これが難しいのは,符号化と共に,受け手のコミュニケーション力を予測する力も必要となるからである。例えば,同世代であれば,ある程度の理解はできるが,世代が離れると困難になる。また,態度の要因も考慮しなければならない。相手に対して好意的である場合と苦手意識を持っている場合では,メッセージ構成やメディア選択においても異なってくることが分かっている。
 ネット社会での最大の課題は,送り手にとって受け手が特定できないことである。これはマス・コミュニケーションの送り手に似ている。受け手をどう見るか(分析力)は送り手にとって大きな力量となる。それは,送り手がもつ知識とも関わる。情報検索の技術が発達し,今や代表的なポータルサイトに行けば,様々な情報に行き着くことができる。この便利さは利用者を引きつけ,大きな産業となっている。こうした情報の仕組みは,情報の信憑性などと共にこれからの情報教育の課題でもある。技術と知識は,後述するメッセージとチャンネルに関わる。
 以上,送り手を中心に述べたが,同じことが受け手にも当てはまる。双方向のコミュニケーションでは,送り手が次は受け手になるからである。コード化とコード解読が同時に必要になる。情報教育ではこの力を明確にしたい。

(2)メッセージ論
 コミュニケーションの目的は,メッセージとして記号化されて初めて可視化され具現化する。メッセージ構成は,コミュニケーションにおいて大きな位置を占める。同時にこれはメディアをも決定する。文字による表現であれば,文章構成論にあたる。最近では,文字,静止画,動画,音声,図表など多様な符号によりメッセージを構成することができる。文を構成する知識も必要であるが,画像による構成もある程度の知識が必要となる。一枚の写真とするか,何枚かの写真の組み合わせにするかなど,構成により伝えたい内容が明確になったり不明確になったりする。勿論,受け手により構成が変わることは言うまでもない。
 情報教育では,情報の構成についてコミュニケーションの観点から検討したい。結論を先に示すか後に示すか,事例を先にするか一般原則が先か,文字中心がよいか映像中心がよいか,などについての研究はたくさんある。しかし,これらは一定ではなく,受け手の特性に合わせてチャンネルと共にその組み合わせは変化することが分かっている。この領域では,ある種の学習理論とも関わりたくさんの研究がなされてきている。情報教育では,もっと意図的にメッセージ構成を扱ってもよい。とりわけ,ネットでのコミュニケーションに対応するメッセージ構成への考察が大事である。最近,朝日・読売・日経の新聞社が連携し,「あらたにす」というwebサイトを立ち上げ,各社の記事を比較できるようになった。社説なども並べて見ることができ,その主題と内容を比較できる。これは時代を見据えた新聞社の生き残りをかけたメッセージ競争である。情報社会にあって互いに競争することで,新聞というメディアのメッセージを精錬させ,独自性を切り開こうとしている。
 メッセージ論は,とりわけマス・コミュニケーションでは報道論となる。たとえば,人と環境の問題が問われる今日,マスコミの報道は各社の指針を反映する。新聞はメッセージの比較分析には好都合なメディアである。情報教育も,こうしたテーマを扱うであろうが,これもメッセージ論,送り手論との視点から検討するには都合がよい。
 ネット社会では,誰もが自由に,個人でも,仲間でも,組織でも情報を発信できるようになった。このメリットと引き替えに,メッセージの質の低下が問われている。これは同時に送り手への信頼の問題とも重なる。自由に発信できるメッセージの構成は,文字・画像・動画・音声・図表など多様な記号がミックスされたコンテンツ表現をとる。これまで,文字には文章構成の文法があり,映像には映像構成の文法があり,その学習をふまえてメッセージが構成されている。送り手の持つ知識と技術は,メッセージの質を決める。リテラシーである文字の読み書き能力はまさにメッセージ構成とその解読の力である。しかし,多くの人は映像についてその構成に関わるリテラシーをきちんと学習しているわけではない。まして,文字と画像を組み合わせたメッセージの構成となると,そのリテラシーはまだ弱い。メッセージに着目すると,これらも情報教育での対象にしたいのである。

(3)コミュニケーションチャンネル
 情報は,いくつかのチャンネルを介して入ってくる。五感は我々の身体に備わっているチャンネルであり,聴覚・視覚・触覚・味覚・触覚がある。メディアはこれら身体感覚を拡張する装置である。対象を認識するのは,直接か,あるいはメディアを介してこの五感を通すことによる。教育においてはまさにこの五感を,如何に学習対象に応じて発動させるかが教師の力量とされている。人間の認知の発達は,行動的次元→映像的次元→記号的次元と発達するといわれている。デールの経験の円錐モデルでは,直接経験から映像メディアを経て記号としての文字による概念の獲得過程を示している。行動的次元は直接体験の次元でもある。我々のチャンネルは,認知の発達に応じて多様なメディアと連携し,新たな世界を学びの対象としてきている。映画やテレビは,人が直接体験から学び,やがてそれを離れた実物のコピーからも対象がわかる段階でのメディアである。学習というコミュニケーション過程は,このようなメディアの媒介を経ている。人間のコミュニケーションは実にメディアと五感というチャンネルを介してのコミュニケーションであることがわかる。視覚と聴覚に障害を持つヘレンケラーが触覚を通した直接経験により「水」という言葉を最初に学習する過程は,対象と記号である言葉との連合というコミュニケーション過程(学習)でのチャンネルとメディアの関係を教えてくれる。そして一旦言葉を獲得すると,世界は急激に広がり,ものの見方や考え方を大きく変えていくことを知るのである。
3.チャンネルとメディア
 チャンネルとメディアとの関係をコミュニケーションの視点から検討することは,情報教育の重要な役割である。 視聴覚教育の典型的な研究の一つに,メディアの比較研究がある。コミュニケーションにおいてどのメディアが有効かを研究するのである。代表的なものに画像メディアとテキストメディアの比較がある。メッセージを一定にしておいて,メディアを比較するのである。やがて,受け手の情報処理の特性によって,有効とするメディアに違いがあることが分かってくる。いわゆるATIの研究である。高度情報通信社会では,どのようなメディアが社会でのコミュニケーションを促進するのかを知ることが大事である。それは個人ベースの学習と共に,人間関係,社会関係,国際関係に広がるコミュニケーションの基礎を学ぶことになる。この際,メディアを多様な次元から見ていくことが大事であろう。ここでいう次元とは,パーソナルな次元と集団の次元と社会的,国家的,グローバルな次元などである。パーソナルな次元では各人の学習や生活においてコミュニケーションチャンネルとメディアがどのように活用されるかが課題となる。今ある多様なメディアの活用と共に,それらのメディアと五感の関係なども知っておく必要がある。
 臨床知と言われる知の大切さが指摘されているが,それは五感を通して環境のもつ意味を問いかける知とされる。科学知と対比されるが,ネットワーク時代での大切な知となる。それはチャンネルに焦点を置いてこれを問い直す知でもある。認知の発達で言えば,直接体験という体を通しての自然や地域,人々とのコミュニケーションの重要性でもある。鉛筆と紙で文字を書いて学習する過程とパソコンで文字を学ぶ過程では,使用するチャンネルによるコミュニケーションの質が異なる。
 地域や国を超えたコミュニケーションでは,メディアで表現する文化や価値の置き方など,様々な課題があることを知るであろう。異文化間コミュニケーションの問題であるが,これとて,直接その国に出かけ五感を通して学ぶことと,遠隔地でのネットワークによるコミュニケーションでの学びとでは大きな違いがある。こうしたメディアを通してのコミュニケーションの特徴と限界を情報教育でも扱うことも重要であろう。グローバル教育においては,共生のあり方を避けて通ることはできない。コミュニケーションでは,メディアとチャンネルの視座から,この課題を捉えることになる。それは,教科にメディアが追随することではない。マス・コミュニケーションによる情報提供に対しても,これらの視点があれば,クリティカルな姿勢でその情報を見ることができよう。
 メディアと接する際に重視したいのは,メディアリテラシーの力である。情報教育は,メディアリテラシーの教育と深く関わる。それはメディアを学習や生活に利用する際に,その利点と問題点を知っておくことであるが,これは短期間には身につかない。体系的にコミュニケーション形態とそのメディア特性を学習することが必要である。情報教育では,コミュニケーション学の基礎である「だれが」「だれに」「なんのために」「どのようにして」「どうなったか」に気を置く一貫性がほしい。今後メディアとしてとりわけ注目したいのは,小型マルチメディアとしてのケータイである。学校で教えなくても,その普及と利用は低年齢化し生活の一部になってきている。しかし,コミュニケーション機能の豊かさは,これまでのメディアを超えている。ケータイによってつながる新たな世界での生き方を学校で,情報教育で扱うべきかも知れない。便利さと危険さを内包するメディアの教育である。
4.関係性としてのコミュニケーション
 今回は,主としてコミュニケーションモデルをもとにコミュニケーションを見たが,コミュニケーションを送り手—受け手という固定した立場で見るのではなく,自我の確立をコミュニケーションから考察することが大事である。これまでのコミュニケーションでは,送り手も受け手も,既に確立した1人の人間と見なし,個人として確立した人が,確立した別の個人とコミュニケーションをするという前提に立っているが,現実には,確立した個人ではなく成長する過程にある個人が,コミュニケーションを経てさらに成長する動的過程として見る立場である。とりわけ,対面的コミュニケーションでは,送り手は受け手の反応を見て次のメッセージを構成するわけで,受け手によって送り手のメッセージは規定され,変化する。送り手も受け手も相互作用的コミュニケーションを経て,自己形成を繰り返すと考えるのである。これを関係性のコミュニケーションという。
 この視点の転換は,コミュニケーションを考えていくときに極めて重要となる。クリティカルな思考を検討する際にも,まず自分があって,その自分がある情報を批判的に受け止めると考えがちであるが,批判的思考を必要とする文脈的コミュニケーションを経て,批判的思考が形成されてくると見るのである。これは人間教育においても重要なことと言わねばならない。単に,情報を受け取るのではなく,その文化や価値との相互作用の過程を経て,その文化を学び価値を判断し受け入れ,ある時はそれを批判的に検討することを経て,一人一人の自己が確立していく。ネットでのコミュニケーションはこうした関係性をどう確立するのかも,情報教育の対象としたい。
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