美・知との遭遇 美術教育見聞録 学び!と美術

美術教育への誇り

かたくりの花

 はじめまして

 今回から、この欄を担当することになりました。今どきの学校や子どもたち、そして美術教育について感じていること、考えていることを述べてみたいと思っています。図画工作科・美術科の先生方に元気が出るメッセージをお届けできれば幸いです。よろしくお願いします。

 年明けからの2ヶ月ほど、10数年ぶりに中学校で美術の授業をするチャンスに恵まれました。やっぱり美術の授業はいいですね。久しぶりとは思えないほど、表現指導を通して生徒とすぐに接近することができました。そして生徒の考え、個々の性格や能力がおおよその傾向として見えたような気がして、2回目の授業からは人間的な交流ができたのではないかと自己評価しています。生徒たちにも、表現指導を通して私の人間性が伝わったのでしょう。作品(粘土の頭像)の評価や技術的なアドバイスにもすぐに反応し、楽しく学びに誘導しながら、私自身も充実した時間を過ごすことができました。

 私は日頃から「絵描きが子どもを教えられるか。」ということを講演などでよく話します。指導者にとって、表現経験が深いということは、表現活動の際に適切な材料と道具の指導ができますし、表現に行き詰まる子どもたちの心情を察知し、表現意欲を高める指導のポイントを外さずアドバイスできるかもしれません。場合によっては、上手な描き方を示し、表現のヒントを与えることもできるでしょう。そしてなにより、子どもたちが表現技術の優れた先生として尊敬し、憧れる気持ちを抱くようになる可能性があります。
 ただ、教師とは、造形的な表現指導をするだけでは十分と言えない立場にあります。忘れ物ばかりで表現意欲の見られない児童や、作品が未完成で終わることが常である生徒たちに対し、教育的な視点からの評価をしなければなりません。つまり、教育的指導者は、造形的な表現経験に裏づけられた表現力と、担当する子どもたちに適切な教育的指導と評価ができることが求められます。ですから、たとえピカソを講師に招いたとしても、彼の教育的指導と評価の視点が弱い場合には、「絵描きが子どもを教えられるか。」と言わざるを得ないのです。
 このことは、戦後の美術教師像を語る上で語り尽くされてきたのかもしれません。先生方の中には、この二面についてバランスを欠いていると自分自身で感じている方も少なくないでしょう。多くの場合は、平面的な表現の指導はできるが、立体的な表現には自信がないなどの理由でしょうか。美術には表現ジャンルが多くあり、すべてに精通している教師はいないでしょう。どれか一つのジャンルについて表現経験を深めようとする姿勢が必要なのだと思います。

 私は初任の頃(70年代)、造形的な表現力のあることが美術科教師の唯一の条件であるかのように考えていました。のちに美術教育の奥深さを知るにつれ、造形的な表現活動を通した教育の重要性に考えがシフトしていったように思います。美術科に限らず教育の難しい時代です。私たちは自らの造形的な表現力を常に高めようとするとともに、造形表現の本質的な教育力について考えようとする姿勢が必要です。「難しい理屈は必要ない。」と言わず、私たちが生涯をかけて取り組んでいる美術教育の本質を知ろうとしてください。そうすれば必ず、私たちの指導や評価の視点が変化し、授業が幅広く豊かなものになるとともに、いっそう美術教育に誇りがもてるでしょう。そして、そのことを授業の中などで、教育の専門家ではない子どもたちや保護者にも、わかりやすく一般的な言葉を選んで美術教育の世界を知らせてほしいのです。地道な営みが美術教育への理解者を増やすことになるからです。