学び!とPBL

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OECD東北スクールから10年② 「越境者」と「媒介者」
2024.12.20
学び!とPBL <Vol.81>
OECD東北スクールから10年② 「越境者」と「媒介者」
三浦 浩喜(みうら・ひろき)

 今回も前回に引き続き、OECD東北スクール(以下、東北スクール)に生徒として参加し、能登スクールのサポートをしている草野みらいさんのインタビューを紹介します。

1.「足かせ」ではない学び

三浦:草野さんの教育観について話してもらえますか。
草野:私は中学生時代に生徒会長をやっていて、自動的に「いわき中学生サミット」のメンバーになりました。震災が起きて、地域の復興を担うリーダーになることが期待され、いろいろな活動に参加しました。けれども、当時から地元で働きたいとは思っていなかったので常に違和感を感じていました。ある先生に相談したら、「必ずしもここに残らなくても、いろいろなところでやりたいことをやって、それが結果的に地元に還元されることになるのだとしたら、それは十分意味があることだ」と言われ、気持ちが軽くなりました。私は「学びは足かせであってはならない」と思っています。
三浦:日本では「勉強」という言葉が定着していて、我慢する、無理をするという意味で、学んだり認識したりする意味は含まれていません。学ぶことは我慢すること、と理解されていて、学びという苦役に耐えた人だけが成功を手にすると、本気で考えている先生も多いのではないでしょうか。
図1 東北復幸祭〈環WA〉を終えて(2014.9)草野:そう思います。学びというのは、自分がやりたいことを見つけたり、それを前に進めたりするためにある、その原点には好奇心があるのだと思います。だから「リーダーシップ育成プログラム」といった教育を大人が提供するのなら、生徒の自主性を尊重するという名目に甘えず、生徒の学びが最大化される枠組みを考える努力が大人の責任だと思います。学びというのは本人にとって楽しくて夢中になるものであってほしいので、その環境をいかに設定できるかが重要な気がしています。

2.学ぶ人は「越境者」

三浦:そう思いますが、その楽しさというのも表面的なものと、深いものがあって、どうしても表面的なものに流されがちです。表面的な楽しさはすぐに飽きるので、もっと刺激的な楽しさへとエスカレートしがちです。深い楽しさを勝ち取るためにはいろいろな苦労も必要です。むしろいろいろな苦労を通り越したところで深い楽しさに出会えると思っています。私はそれを「経験の質」と呼んでいます。子どもたちが夢中になると好奇心がどんどんつながり出して、大人が線引きしている境界を越えてしまうことがよくあります。
図2 高校生たちの通訳サポート草野:例えば、歴史と美術をつなぐと、歴史的な出来事がいろいろな絵に表されており、かつ、その時代ならではのとらえ方があって、いろんなことが学べると思います。先日、OECDのグローバルフォーラムで、シンガポールご出身で幼児教育のエキスパートの方が、大人と子どもでは学びの形が異なる、大人は何事にも枠組みや結論や目的を必要としてしまい逆算型になってしまいがちだが、子どもは結論を必要としないため、学びが好奇心のままにどんどん広がる、とおっしゃっていました。子どもの方がクリエイティビティに優れていると言われる理由の一つだと思います。
三浦:大人の知の形は、境界内にまとまるようにパターン化されています。子どもにはそのパターンというものがない。大人は混乱を避けるために、様々な形で線引きをする、つまり境界をつくり、線を越えないように注意します。子どもはその境界が何たるかを知らないので、足が届けばどこにでも進んでいきます。本当は今のような変化の激しい時代、大人もその境界を越える、「越境」することがとても大切なのではないかと思っています。確かに越境することは危険を冒すことではありますが、新しい経験に付きもののワクワク・ドキドキ感も伴います。
草野:日本の学校教育しかり、引いては社会全体の話にもつながりそうですが、境界線への意識が根深いようにも感じます。先生と生徒の立場を明確に区切り、そこを越えると叱られたり白い目で見られたりします。先生と他の職業の間にも一線を引く、みたいなことがよくあります。東北スクールの時にも、そんなことがよくありました。少しずつ「越境」するようになりましたが。先生も生徒もお互いの声に耳を傾ける姿勢は必要だと思います。
三浦:そうですね。力のある先生は生徒を頼りにするけど、力の弱い先生はどうしても自分の力だけに頼る傾向があるように感じます。教師という職業は、他の職業から見ても極めて特殊です。なぜなら、生涯学校の外を知らないで仕事ができるからです。それを教師は自覚しなければなりません。

3.「媒介者」としての教育者

図3 OECD本部で桜の植樹の準備草野:先生は「聖人君子」ではないということを、東北スクールでよくわかりました。往々にして先生はスーパーマンでもあるかのように語られてしまい、全て完璧であることや間違いがないことを求められてしまうけれども、実際は生身の人間です。東日本大震災で学校が避難所になったとき、先生があたふたしていて「こんな時どうしたらいいと思う?」と聞いてきました。先生も困ることもあれば我慢することもある、万能ではないと、あの時初めて知りました。
 先日、児童養護や社会的養護のお話を伺う機会があり、わかったことがあります。それは、私たちの誰もが、世の中には支援を必要としている人がいて、支援が必要だというはわかっているけれども、実際の当事者やその周辺で活動している人とただ認知しているだけの人とのギャップはとても大きいということです。教育でも福祉でも、いわばその両者のギャップを埋めることが、コミュニケーションの役割かなと。知っているだけの人が支援する意味を見出せるように、困っている当事者の声を代弁することで、誤解や隔たりを除いていくことだと思います。
図4 高校生と大学生とで作戦会議三浦:困っている当事者が「誰か助けてください!」と言っても、なかなかうまくいかないことがあります。第3者が客観的な立場で代弁すること、「媒介者」、わかりやすくいえばお節介やきの存在は問題を解決するときにとても重要です。当事者は、その問題状況に目を奪われていて、本当に自分や自分たちがよく見えないのです。当人に鏡を見せて状況を認識させるだけでもとても大切です。