読み物プラス
読み物プラス

【特集】夢と挑戦、キャリア教育
世界も認めるレジェンド
ソチオリンピックの年、私は10年ぶりのW杯優勝を果たした。41歳7か月の勝利はスキージャンプ界の歴史を覆す出来事だ。私はオリンピックのメダルももうすぐだと思った。メダルの方からやってくる、そんな気がした。そして、ついにオリンピック当日がやってきた。朝食前に散歩に出て、遠くに広がるソチの山々を見ながらイメージトレーニングを重ねた。リラックスして過ごしたあと、午後からは軽い筋力トレーニングで体の調整。午後7時ごろ一人で会場に向かった。
いよいよ私の番の1本目がきた。助走、サッツのタイミング、空中姿勢、何もかもがイメージ通りだった。飛距離は139メートル、得点は140.6。2位につけた。
2本目。私は集中し、すべてがかみ合ってもいた。飛距離は133.5メートル、得点は136.8。最後の一人カミルを残して飛び終わった。そしてカミルは132.5メートルを飛んだ。結果は、2本目の飛距離も得点も、私はカミルをわずかに超えた。それでも1.5ポイントしか上回ることしかできず、わずか1.3ポイントの差で金メダルを逃した。金メダルに匹敵する結果だった。
「ク・ヤ・シ・イ!」と私は叫んだ。最大のチャンスだったので、本当に悔しかった。しかし、ついにオリンピックで初めての銀メダルを獲得した。うれしさがあふれるようにこぼれてきた。

3つのギネス世界記録に認定された
私は7度目の、2014年ソチオリンピック後、3つの「ギネス世界記録」に認定された。「冬季五輪最多7度出場」、「41歳219日、W杯最年長優勝」、「ジャンプ種目の冬季五輪最年長メダル」の3つだ。こうして私はレジェンドになった。人は成功してもどこかでまた失敗するだろう。失敗し最下位に落ちても、諦めずに努力し続ければ必ずよみがえることができるのだ。
もっと遠くへ、ジャンプとの出会い
私は、1972年、札幌オリンピックの年に北海道北部の内陸の町、上川郡下川町に生まれた。スキージャンプで有名な町だ。亡くなった母の話では、小学校に上がるまでは月の半分は病院へ通っていたほど病弱な子どもだったそうだ。小学校に上がるころからは健康になったので、山や川を飛び回っては、自然を相手に遊んでいた。父に勧められ、マラソンも始めた。冬はもちろんスキー。家の裏にあるスキー場にはジャンプ台が4つ設けられていて、冬になると、ここが遊び場だった。私の柔軟な体と足腰のバネは、下川町の自然に培われたようなものだ。
スキージャンプとの出会いは、小学校3年生の冬。友達に誘われてジャンプ台のスタート地点に立ったときだ。
「ウワァ! 怖いなぁ~」アプローチを見下ろしながら、友達と二人で叫んでいた。ものすごく怖いけど、飛びたい。怖いけど、どこまで飛べるのだろうっていう冒険心があった。結局、「よし、行っちゃおう」と着地の方法も知らないまま滑り降りていた。ほんの一瞬、空を舞っているような気分になり、ものすごく楽しかったのをよく覚えている。
初ジャンプで競技のおもしろさを知ってしまった私は、両親に隠れてジャンプを始め、どんどんのめり込んでいく。「もっと遠くへ飛びたい」、その一心だった。今でもフライングヒル競技は怖いが、あのときと同じ興奮に包まれる。「どこまで飛んでいけるのだろうか、どこまでも飛んでいきたい」と。
多くの人々に支えられて
ジャンプ少年団に所属し、下川町主催のスキー大会に両親に内緒で出場した。小学校3・4年生部門で2位になり、ますますジャンプばかりの日々を送るようになった。そのころからジャンプ少年団の関係者が訪ねてくるようになり、両親を悩ませた。費用のかかる競技だということはよく理解していた。でも、私はやめたくなかったのだ。姉や妹は「スキー代にお金がかかるから、これからお小遣いやお年玉は無くなるからね」と母から言われていたと姉から聞かされた。母は一生懸命働いてくれていたし、姉も妹も何も言わず、ずっと私のジャンプを応援してくれていた。家族は、今も変わらずずっと陰ながら支え続けてくれている。
私は高校時代から札幌に出て、東海大四高のスキー部にお世話になった。住み慣れた下川町を離れ、札幌で寮生活だ。私自身、知らない人ばかりの札幌暮らしへの不安もあったが、よき指導者や温かい級友に恵まれ、快適な高校生活を送れた。なんといってもスキーの環境は最高だった。
上杉監督は世界を相手に競技することを勧めてくれ、高校2年から頻繁に海外遠征を行うことになる。このとき、私はすでに世界を見据えていた。改めて、支援してくれる人たちや級友たちに支えられていたのだと実感する。人は一人では生きることはできない。周りの人々の深い理解、協力がなければ物事は進まないのだ。今も、こうして飛び続けていられることに、本当に心から感謝したい。
新たな夢に向かって歩み続ける

ソチオリンピックで川本副会長と女子ジャンプの応援に
いいことばかりだったわけじゃない。失敗ジャンプ、2度の鎖骨骨折、それに身内の不幸……。それでもアスリートなら、どんな試練からも立ち直らなければいけない。
紆余曲折はあったが、土屋ホームの川本謙社長(現副会長・スキー部総監督)との出会いで、私は変わることができた。川本社長は、全社員を巻き込んで社内でスキー部の後援会を作ってくださった。そして、どんなに業績がたいへんなときもスキー部を無くすようなことをせず、しっかり支え続けてくれたからだ。成績が残せないからとやめさせられるという不安から解放され、のびのびと安定した状況のなかで活動することができたのは大きい。素直な気持ちで厳しいトレーニングにも精を出すことができた。
また社長は、人として荒削りで未熟でガンコ者の男、非礼、無礼、失礼だったかもしれない私に、時には優しく、時には厳しく、時間をかけ、いろいろなことを教えてくださった。オリンピックでメダルを取ることができ、スキー部を支え続け、応援し続けてくれた土屋ホームの社員の皆さんや川本社長に少しだけ恩返しできたような気がしている。
メダルを取ってからは、また多くの人たちに出会い、スキー以外の多忙な日々を送ることになった。そして、今までとは違う景色を見ている。特に、社会人として礼儀作法、服装、所作、そして、言葉遣いなど、「学び直し」として考え、実践している。これからの新しい選手たちにも伝えていかなければと感じている。
でも、私にはもう一つ、「金メダルを取る」という仕事が残っている。人はいつも目標(夢)があるから力強く前に歩み続けることができるのだと思う。
可能性と夢は、いつも自分の歩いていく、すぐ前に残し続けていく方がいい。だから私はここまで来ることができたと思う。
今、金メダルは夢ではなく、超えていくものの一つだと思うのだ。
写真:土屋ホーム
→この記事が掲載されている「教育情報No.7」全編は、当サイトの機関誌・教育情報「教育情報」にて公開中です!
葛西 紀明(かさい のりあき) |