学び!と歴史

学び!と歴史

日本列島という世界
2015.03.09
学び!と歴史 <Vol.85>
日本列島という世界
―吉田松陰の眼―
大濱 徹也(おおはま・てつや)

承前

 江戸時代、「徳川の平和」がもたらした「読み書き」の文化は、日本の近代化をささえる原動力となり、日本国民を育成する器を用意しました。ここに展開された国民教育は、日本列島の多様性を一元化し、国家が各地域の固有性を強権的に剥奪していくことで可能となったものです。その営みは、「母乳とともに呑みこんできた愛国心」と評されたような民族主義を生み育て、日本国民を「愛国心」中毒にすることにもなりました。
 このような日本人の姿は、東北学院の創立に尽力した宣教師ホーイが日本人の「愛国心なるものは確かに病的で、「我が国」というかの病的な一句が、「われらの父なる神の御国」よりも、もっと包括的」(1891年6月6日付書簡)との嘆きに読みとれます。日本のキリスト者は、内村鑑三が二つのJ-JesusとJapan-にたくして己の信仰を問い語ったように、強く愛国心に囚われた存在でした。
 この病理は、プロレタリアの国際連帯が使命であるにもかかわらず、1922年に開催されたコミンテルン主催の極東民族大会に出席した日本の共産主義者が排外愛国主義に冒されていることに対し、ジノヴィエフが「母乳とともに飲みこんできた愛国心」と論難した言動にも見ることができます。まさに日本国民は、キリスト者にせよ共産主義者にしても、「愛国主義」の虜ともいえる存在だったのです。この「愛国主義」は、「大東亜戦争」の敗北を受け、戦後教育で問い質されました。しかし戦後70年の現在、「愛国主義」の病理がもたらした世界を凝視することなく、戦後体制からの脱却を大義とする「愛国心」なるものが声高に説かれております。

戦後教育の転換

 戦後教育は、「大東亜戦争」の敗北を痛覚となし、教育勅語を失効させ、新たな教育の指針を1947年に教育基本法で定めました。その前文は、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にして個性ゆたかな文化の創造をめざす教育の普及徹底」を高く掲げ、人間の尊厳を説き、閉ざされた愛国心からの脱皮をめざすものでした。
 しかし戦後教育の原点であった教育基本法は、2006(平成18)年に全面改定され、「教育の目標」として、「伝統と文化を尊重し、それをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」を新たな教育の指針として提示します。この改定は、「占領体制」を継承した戦後の枠組みからの脱却をめざしたもので、最終的に日本国憲法を根本的に創りなおすことをめざす第一歩にほかなりません。ここに学校教育では、「愛国心教育」が説かれ、「公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育の推進」と、「公共の精神」が声高に説かれることとなりました。
 この「公共の精神」は、「我が国と郷土を愛する」とした「愛国心」を担わせることを意図し、「個人の尊厳」を呑みこむものにほかなりません。それだけに現在問い質すべきは、「我が国と郷土を愛する」と説かれた「愛国心」と「愛郷心」が同一のもとしてありうるか否かを、日本列島の住民がいかにして「日本国民」となり、「母乳とともに飲みこんできた愛国心」の持ち主に造形されたかを歴史として読み解くことではないでしょうか。そこで先ずは、日本列島なるもの在り方がどのように認識され、その住民が何時「日本国民」となったのかを読み解くことにします。

吉田松陰の眼

 江戸時代は、地域が異なれば、東国を旅する長州藩士吉田松陰が言葉の通じないことに困惑しましたように、異質な世界でした。列島という空間は、各地に固有の言葉が飛び交い、方言といわれることとなる言語様式が日常的な世界でした。このことは、亜寒帯から亜熱帯におよぶ日本列島の構造がもたらした文化の落差にほかなりません。
 この列島は、千島から琉球列島に連なる弓状の弧状列島で、その容(かたち)がはなづな(花綵)のようだとして、後に花綵列島と称されます。列島の住民は、黒船が来航する状況下に噴出した危機感にうながされ、日本とは何かを自覚的に問うこととなります。
 NHK大河ドラマの主人公吉田松陰は、下田沖の米艦に搭乗、密航を企図した責めを負わされた囚人として、萩の野山獄に幽閉されました。ここで認めた『幽囚録』は、下田踏海の一挙を決意した己の志を顧み、鎖国日本に迫りくる列強の圧力を前に、日本を「皇国」とみなし、その容を「常山の蛇」と位置づけ、危機に対峙する想いを吐露しております。

夫れ神州は東北は蝦夷に起り、蝘蜒委蛇(えんえんゐい)として西南のかた対馬・流求(りゅうきゅう)に至る、長さ千里に亙りて広さ百里に過ぎず。是れ常山の蛇に非ずや。首至り尾去る、豈に其の術なからんや。蓋し機内は所謂六合(りくごう)の中心にして万国の仰望する所、皇京の基、万世易はることなし。

 松陰は、列島の容が蛇のようにくねくねと曲がったものだとの認識をもとに、孫子が説いた「常山の蛇」を想起し、「其首を撃てば則ち尾至り、其尾を撃てば則ち首至り、其の中を撃てば則ち首尾俱に至る」と説き、日本独立を論じます。まさに蛇の如き日本列島像は、宇宙から日本を捕えたもののごとき映像にほかならず、列島を「常山の蛇」とするために一個固有の愛国心によって首尾一体となる絆を深めざるを得ないことを実感せしめます。まさに列島の住民は、日本という大地に生きる者として、日本国民に相応しい精神の共有性を身に帯びた存在であることが求められたのです。この「精神の器」こそは、他国と異なる日本の固有性へのこだわりであり、「皇国」という幻想にほかなりません。ここに病的なる愛国心の根があると言えましょう。