学び!と歴史

学び!と歴史

徳川の平和 Pax Tokugawana
2015.01.28
学び!と歴史 <Vol.84>
徳川の平和 Pax Tokugawana
大濱 徹也(おおはま・てつや)

 江戸時代は、鎖国日本として、士農工商といわれる身分秩序に固定され封建的な秩序そのもので、閉ざされた自己完結的な世界とみなされ、否定的に評価されてきました。このような江戸時代像は、徳川将軍家を打倒し、薩摩・長州などの西南雄藩による下級武士が「ミカド」等と呼称されていた天皇を擁立した復古革命、明治維新にはじまる新時代の到来を正当化するための歴史像にほかなりません。こうした江戸時代像は、日本が経済大国を謳歌していくなかで問い質され、日本の固有な歴史を強調していく風潮に棹をさす流れにのり、「徳川の平和 Pax Tokugawana」なる言説とともに、17世紀からの江戸時代を日本近代の先駆けとみなすことともなります。この「平和」をささえたのは何でしょうか。そこには、寺子屋の隆盛にみられる「もの学び」、教育への期待がありました。

高きもいやしきも皆物書たまへり

 徳川将軍家による統治は、武力による直截的支配ではなく、法と礼によることがめざされ、戦乱のない平和、徳川の平和をもたらしました。その様相は、ローマ帝国による「平和」に擬えられ、「徳川の平和 Pax Tokugawana」と評価されることとなります。このような秩序を可能にしたのは、寺子屋等の普及にみられる世界が展開していたことによります。
 世間では、17世紀初頭、すでに武具ではなく、文具が重んじられていました。仮名草子の作者三浦淨心(1565-1644)は、大御所家康が豊臣秀頼の大坂城攻略を命じた慶長19年(1614年)の序をもつ江戸の世相を記録した「慶長見聞集」で時代の空気を次のように描いています。ちなみに浄心は、北条氏の家臣で、小田原落城後に江戸で商人となった人物です。

廿四五年以前迄諸国におゐて弓矢をとり治世ならす、是によつて其時代の人達は手ならふ事やすからず、故に物書人はまれにありて、かかぬ人多かりしに、今は国治り天下太平なれは、高きもいやしきも皆物を書たまへり、尤筆道は是諸学のもとといへるなれば誰か此道を学ばざらんや

 このような気風は、江戸にかぎらず「天下の台所」として繁栄していく大坂においてみれば、5代将軍綱吉、生類憐みの令で再々にわたり「徳治」を問いかけた貞享7年(1694)、井原西鶴が『西鶴織留』に認めた世界にも読み解くことができます。村里で「老先のたのみなれ」と、子供に手習いを教授、「我ままそだちの草を刈」と躾け、いろはの「角文字」から教えていきます。そこで奈良育ちの老人、村の童と言葉が通じないがため、謡をならい、その符節でなんとか教えようと苦労しております。住む土地の違いで話し言葉が通じない世界でした。

其年より夫婦内談して、「兎角銀がかねをもふくる世なれば、せつかくかせぎて皆人のためぞかし、外聞を捨て、身のたのしみこそ老先のたのみなれ」と、奈良草履屋を二足三文に仕舞て、大坂を離れ、女房の在所、住吉の南、遠里小野に身を隠し、夕暮よりは油を売、すこし手を書を種として、所の手習子ども預り、我ままそだちの草を刈、野飼の牛の角文字よりおしへけるに、謡しらねば迷惑して、日毎に大坂へ通ひ、むかしの友にならひて、又里の子におしへける

書筆之道は人間万用達之根元

 ものが書けるかどうかは、世間に出て、己の才覚で生きていく必須とみなされていきます。17世紀末の「商売往来」は、身につけておくべきこととして、「商売持扱文字、員数、取遣之日記、証文、注文、請取、質入、算用帳、目録、仕切之覚也、先両替之金子、大判、小判、壱歩、弐朱、貫、目、分、厘、毛、払迄」「雑穀、粳(うるち)、糯(もち)、早稲、晩稲、古米、新米」等々の項目をあげています。そして、商家に生まれた者は、幼時より、まずきちんとした字を書き、算用を身につけること肝要なことであると。歌、連歌、俳諧、立花、茶湯、謡、舞、琵琶、堤、太鼓、笛、琵琶、琴などの稽古ごとは、家業に余力があれば「折々心懸、可相嗜」ことだと、説いています。
 香月牛山は、こうした時代の要請に応じるべく、元禄16年(1703)に日本で最初の育児書ともいうべき『小児必要養育草』を著し、求められる教育の作法を説きました。

手習い勤め候事は、朝十返、昼三十返、晩十返習うべし、手本ひとつを十五日とさだめて、五日に一返づつ清書をなして、三度めの清書を諳書(そらがき)にすべし、諳書とは中におぼえて書く事なり、和俗近来、童をして、手習い師匠にまかせて手習いをさする事なれば、その勤め方は、その師匠の教えにまかすべきなり、また近きころは、女の童をも、七、八歳より十二、三歳までは、手習い所につかわすなり。
謡を習わしむべきなり、謡は日本の俗楽とはいいながら、小歌・浄瑠璃の類の鄭声とは格別にして、都鄙ともに符節を合わせたるがごとくにして、相替わる事なく、古今不易の音楽なれば、知らぬはかたくななるべし

 この学習の作法こそは、徳川日本に根づき、日本の教育の原点ともいうべきものとなり、つい近年までみることができたものではないでしょうか。かつ謡の「符節」は地域ごとの固有の話し言葉がもつ壁はでのりこえる方便として役立ったのです。ここには標準語としての「国語」成立前夜の営みが読みとれます。まさに「徳川の平和」は、このような教育の普及、それは明治維新後における日本列島を一元化していく国民教育の普及をささえる基盤となったものといえましょう。