学び!と歴史

「維新150年」が問いかけていること

 安部内閣は、2018年が明治維新から150年ということで、祝典を企画している由。この企画は、佐藤栄作内閣の下で営まれた「明治百年」の「祝典」を受けたものです。佐藤内閣は、1966年1月に古都保存法を制定して京都市(平安京)、奈良市(平城京)、橿原市(神武天皇―橿原神宮)等々の天皇にかかわる歴史的故地を指定し、「天皇の国」であることに目を向けさせ、さらに6月に国民の祝日法を改正、9月15日の「敬老の日」、10月10日の「体育の日」とだきあわせて「建国記念の日」を制定、12月8日に「建国記念の日」を2月11日とする答申をうけ、旧紀元節がここに衣替えをして蘇生したのです。この間には1968年が明治維新から100年ということで明治百年記念事業を国家的事業と営むことが決定されました。
 このような佐藤内閣の政策は、明治維新で誕生した「皇国」日本という物語を戦後日本における国民の記憶にすることで、国家の精神を造型することをめざしたものにほかなりません。国家の文化政策は、きわめて強い政治性を帯びたものであり、国民の歴史意識を規定するものなのです。
 かかる記紀神話のもとづく強い民族心を揚言する政治作法は、1968年に小笠原諸島返還、小学校における神話教育の復活をうながし、71年の沖縄返還、72年に沖縄県が発足することにみられますように、占領体制から日本の「真の独立」がここに達成されたとみなし、内閣の政治的遺産として受け継がれていきます。かかる国家ナショナリズムが揚言した民族的自覚は、帝国大学的体質で営まれてきた戦後大学の権威的体質に異議を申し立てる学生反乱が列島を揺るがせましたように、まさに国家の方途めぐり戦後日本の営みを根本から問い質すこととなりました。
 しかし国家の在り方は、神話的物語に照らされた国家ナショナリズムにのみこまれ、現在の安部政権が忠実に引き継いでおります。想うに安部晋三の母は岸信介の娘であり、岸は佐藤の兄、佐藤家の長男市郎が海軍の星として名をなす逸材との誉高い存在であったこともあり、秀才といわれた次男信介が岸家の養子となりました。3男栄作は、2人の長兄におよばない者とみなされた存在でしたが、市郎の死で佐藤家を継いだのです。
 まさに安部晋三は、岸・佐藤という「皇国」的な国家ナショナリズムの血を受け継いだ「大国」日本をめざしてきた家系の申し子にほかなりません。そのため安部晋三の世界は、中国と対峙するアジア戦略が物語るように、「昭和の妖怪」といわれる外祖父岸信介が終生想い描いてきた日本を盟主とする「大東亜共栄圏」の実現を夢想する外交戦略に引き継がれています。この思いこそは、自衛隊の海外派兵へ途を開くことで日米軍事同盟の強化をはかり、アジア諸国への艦船の供与で中国の海外進出に対抗し、北朝鮮の弾道ミサイル落下に対する挑戦的な指示で危機感を増幅し、国民の不安を煽り、テロ等準備罪という治安立法による国民監視体制の構築等々を強権的に推進せしめたものにほかなりません。
 かかる体制がめざす世界には、「維新150年」を宣揚することで、西洋文明の圧力に抗し、維新の復古革命で日本が世界に名をなす「大国」、「軍事大国」になりえたのだという思いこみにちかい歴史像があります。では「維新」への道を開いた、「タイクン」の国といわれた江戸将軍家の統治を崩壊に追い込んだ一撃は何にはじまったのでしょうか。

御一新―維新へ奔らせたもの

 1853年(嘉永6年)のペリー艦隊の浦賀入港、54年の日米和親条約による開国がもたらした衝撃は、後に「嘉永癸丑」の年として、御一新―維新による新国家創成の原点と意識されました。この「黒船」来航は、列島を覆う衝撃波となり、人心をゆるがしたのです。日本の開国は、イギリスの産業革命に象徴される資本主義の波動が日本に到達、世界がひとつになったことでもあります。かつ「未開野蛮」「暗黒の国」とみなされていた日本を「文明の光」で照らすものだともみなされた営みでした。この波動こそは、江戸将軍家の統治を揺るがせ、日本列島をひとつとすることで対外危機に対峙する方策を模索させました。
 1858年の日米通商条約調印をめぐる朝廷と将軍家の対立は、京都の朝廷を政治的な場に登場させ、将軍家に対抗する諸大名が「京都」をかつぐことで江戸に対抗する途を用意しました。彦根藩主井伊直弼は、大老に就任、将軍家の統治を強化すべく京都におもねる諸大名とその背後で教唆先導する「志士」を自称する武士を厳しく処断しました(安政の大獄)。
 井伊大老は、開国に舵を切り、将軍家の全国統治を強権的に推進することをめざしたのです。直弼は、オランダ学に心開いた「蘭癖大名」であり、「一期一会」を説いた茶道に通じた大名でした。このような人物の登場は、将軍家に対抗する者にとり、排除すべき存在とみなされたのです。かくて井伊直弼は1860年3月登城中の行列を水戸・薩摩の武士集団に襲撃され、殺されました(桜田門外の変)。
 この事件は、討幕攘夷を掲げた勢力にとり、個別的な襲撃で政治状況を変えていくという作法の先駆けとなったものです。この作法は、圧倒的な武と富を占有することで徳川王国を担う「タイクン」の政府に対抗すべく選択した、個別分散的な武力行使にほかなりません。諸藩の脱藩浪士は、将軍家の治安を揺るがせ、将軍家に近い公卿をはじめとする人物への執拗な襲撃で己の政治的場を世間に知らせようとしました。かかる作法は、当世風にいえば「テロ」そのものです。かかる「テロ」は御一新により徳川王国が滅び、天皇を頭首として明治の新政府が登場することで「義挙」とみなされ、そこに倒れた「テロリスト」は「義士」として称揚され、靖国神社に祀られました。

義挙―正義のために起こす企てや行動

 開国に世上が激変していく19世紀後半は、桜田門にはじまり、老中安藤信正を襲撃した坂下門外の変 、一方に品川東禅寺のイギリス公使を襲撃、さらに京都や江戸で大きな商家に押し込み「御用金」強奪。江戸では薩摩邸を拠点に西郷隆盛の教唆による相楽総三らの浪士集団が江戸の治安を攪乱すべく「御用党」を自称して商家を荒しました。そのため将軍家は治安出動として薩摩邸を襲撃。
 思うにこれらの事件は、時の権力を脅かし、自己に有利な状況を創り出すための武力行動、世上人心に恐怖をばらまくことで秩序に孔をあけ、自己に優位な状況をつくり、さらには権力を奪取するための企てにほかなりません。昨今成立した「組織犯罪処罰法」改正による「テロ等準備罪」なるものに該当するものこそは、桜田門をはじめとする水戸、薩摩、長州等々が教唆先導し、暗に実行した血生臭い諸事件です。いわばテロ等の諸行動は、新たな状況下で「義挙」「正義の行動」とみなされ、世が賞賛し、歴史に名を遺させることともなります。歴史を読むということは、この逆説がもつ世界を凝視し、世間日常の「正義」に対峙できる目をきたえる作法にほかなりません。「維新150年」なる言説はこの目で問い質したいものです。