学び!と歴史

学び!と歴史

富岡物語(1)
2014.06.24
学び!と歴史 <Vol.77>
富岡物語(1)
創業の記
大濱 徹也(おおはま・てつや)

文明―西洋の貌として

画像提供 富岡市・富岡製糸場

 群馬県の富岡製糸場は、「富岡製糸場と絹産業遺産」として世界遺産に登録されることとなり、未曾有の観光ブームのにぎわいで喧騒の渦にまきこまれているようです。明治政府は、明治3(1870)年に日本の文明開化、西洋を模範とした近代化を実現するための外貨獲得をめざし、「糸縷純情色沢玲瓏の佳品」を製造する一大製糸場を建設し、進んだ製糸技術を全国に広めようとはかりました。ここに製糸場建設計画は、横浜の生糸商社エッシュ・リリアンタール商会が紹介したフランス人技師ポール・ブリューナを雇用し、具体化します。
 富岡の地が選ばれたのは、(1)1万5600坪という広大な敷地、(2)富岡付近が古来より養蚕の中心地として多量の原料繭を生産し、座繰糸による品質の優れた製糸生産地であったこと、(3)水質が製糸に最適である高瀬川からの引水が容易なこと、(4)富岡周辺の山水の美にひかれたこと、(5)地元有力者の協力が期待できたこと等々によります。工場は、着工後1年半、明治5年7月に完成、煉瓦造りで、繰糸場(長さ142メートル、幅14.4メートル、高さ11.8メートル)をはじめ、東西の繭所、蒸気釜所、寄宿所等々からなり、一大偉観を呈し、「御場所」「御製糸所」といわれましたように、お上の権威が威光を放つ存在でした。
 建設資材は、杉を妙義山、松を吾妻地方の官林、セメント代用の漆喰用石灰を下仁田、基礎の石材を甘楽町の連石山、煉瓦は粘土が手にはいる甘楽町福島の窯で焼かれましたように、周辺のものが使用されました。

工場の営み

 工場は、明治5年10月4日から操業しましたが、明治6年の日本人職員が通訳3名を含めて14名、伝習生徒13名、フランス人9名の少人数で、工女が400名前後で出発するというあわただしい開業でした。明治8年には、日本人職員が通訳・医官を含めて22名、生徒2名、「小使い」20名、フランス人2名、寄宿工女550名、通勤工女750名に警官5名、馬丁1名という大所帯になっています。このような大規模な富岡製糸場の存在は、戸数620戸、人口2500人程度であった富岡の町にとり、驚天動地ともいうべき出来ごとでした。その風景は、ハヤリ唄にうたわれるほどに富岡の名所とみなされたのです。まさに赤煉瓦造りの壮大な建物群は、糸繰る車の音とともに、民衆に「文明」への夢を奏でる世界でした。

上州一ノ宮あづまやの二階
 椅子に腰をかけ遙か向うを眺れば
あすこに見えるはありや何処だ
 あれこそ上州の甘楽郡
音に聞えし富岡の
 あれこそ西洋の糸きかい
西洋造で木はいらぬ
 回りははしごで屋根瓦
窓や障子はギヤマンで
 糸繰る車はかな車
あまたの子供はつれだちて
 髪は束髪花やうじ
紫はかまを着揃へて
 縮緬だすきをかかけ揃へ
糸とる姿のほどのよさ

文明の陰翳

 工場の経営は、御雇外国人への給与支払いが巨額なこともあり、当初より赤字経営が続いていきます。そのため外国人の雇用は、契約が満期となった明治8年で打ち切られ、日本人だけで運営されたのです。この間、明治6年に良質生糸をオーストリアのウィーンで開催された万国博覧会に出品し、日本にも器械製糸場があり優良製品を生産しうる国であることを宣伝しました。しかし製糸場の運営は、工場が大規模なこともあり、構造的な赤字体質から脱却できず、明治14年の官営工場の払下げの対象をまぬがれたものの、ついに明治24年6月に払下げの入札が行われました。開業以来の総経費は20万円余(現在の34億円程度に相当か)でした。最初の入札は予定価格が整わず、26年7月の再入札で三井家が12万2600円で落札します。この価格は、倉庫にある原料繭代約8万円がふくまれており、土地・建物・機械のすべてが約4万2600円の値段でしかなく、操業後10年にして製糸場の評価額が5分の1でしかなかったことになります。
 この後、富岡製糸場は、明治35年に原合名会社に、さらに昭和14(1939)年に片倉製糸紡績株式会社に譲渡され、現在に至ったのです。昭和62年には、工場の製糸部門が廃止され開業以来動いていた機械は停止となり、繭倉庫として使用されたものの、現在その業務も停止されました。かくて現在は富岡町の観光資源として蘇生され、注目をあつめています。このように流転していく工場の運命には、「蚕の化せし金貨」といわれた外貨獲得の花である生糸をめぐる歴史が凝縮されています。
 富岡製糸場の開設は、工場が流転していく様を想い見ることなく、民衆に文明の響きを告げるものでした。しかしこの夢は、甘楽郡の農民にとり、大規模工事への強制的動員、資材運搬で田畑が踏み荒らされたことなどもあり、無残にも裏切られたようです。そのため、信越線が新町―藤岡―富岡―下仁田―上田のルートで計画された際、政府の工事を敬遠する反対運動が生まれる要因ともなりました。ここには、「西洋の糸きかい」が奏でる文明をもたらす音が民衆の暮らしを根底から揺るがす地鳴りであったことがうかがえます。このような「西洋の糸きかい」の登場は、日本農村で営まれてきた在来の製糸業にとり、どのような影響をあたえたのでしょうか。

 

参考文献

  • 大濱「糸をつむぐ女たち」笠原一男編『近代の女性群像』日本女性史7 評論社 1973年
  • 松浦利隆『在来技術改良の支えた近代化』 岩田書院 2006年