学び!と人権

学び!と人権

アイヌ民族と人権(その1)
2023.06.16
学び!と人権 <Vol.23>
アイヌ民族と人権(その1)
森 実(もり・みのる)

 日本には、先住民族としてアイヌやウィルタなどの人びとが暮らしています。アイヌ民族は、北海道からサハリン、千島、東北北部などに住んできた民族です。ウィルタは、おもにサハリンに住んできた民族で、日本にはごく少数が住んでいます。ここでは、アイヌ民族をおもなテーマとして述べることにします。今回は、第二次世界大戦までの歴史が中心です。

1.アイヌ民族をめぐる歴史

 日本の歴史では、古代から東日本に住む人たちを指して「蝦夷(えみし)」という言葉が使われてきました。坂上田村麻呂(758~811年)を将軍として大軍を東北に送り、アテルイ(?~802年)などの指導者を捕虜とし、支配を強めたと言われます。しかし、この「蝦夷」がアイヌ民族であったかどうかは定かではありません。現在の考古学によると、アイヌ民族が成立したのは12世紀から14世紀とされています。
 アイヌ民族は、狩猟・採集の他、洋上を舟で渡り日本国内だけでなく中国やロシアなど、大陸との交易を担ってきました。この交易という側面は、アイヌ民族を考えるときに抜きにできないのですが、わたしたちが教えられてきた「アイヌ=狩猟・採集民族」という従来からのイメージとずれているため、軽視されがちです。
 東北北部にいわゆるアイヌ語地名があることが知られています。ある地名がアイヌ語地名として認められるには、①アイヌ語が話されていた時代の記録があること、②それがない場合、北海道各地のアイヌ語地名と同様のものが周辺に集中して存在すること、③そうした地名と地形の結びつきが確認できること、といった条件を満たす必要があります。たとえば、青森県にある三内丸山遺跡 です。「三内」という地名がそもそもアイヌ語 で解釈すれば理解できます。「サンナイ」とは、アイヌ語で「流れ出す川」という意味になります。「雨が降ると鉄砲水が出る」という地名です。このように、アイヌ民族の歴史を学ぶ と日本史に関わるイメージも変わる可能性があります(*1)
 現代とのつながりで考えるとき、アイヌ民族の歴史と関連して特に重要なのは、明治時代(近代)になってからの動きです。明治政府は「富国強兵・殖産興業・脱亜入欧」を掲げ、北海道開拓にも乗り出します。江戸時代(近世)までは、アイヌ民族の存在を前提に交易をしています。それが明治時代になって変わるのです。1871(明治4)年、明治政府は、北海道開拓のためアメリカからホーレス・ケプロン(1804~1885年)を招きます。ケプロンはアメリカの農務省長官だった人で、北海道に小麦栽培を広げたり、札幌農学校(現・北海道大学)の開設を進言したりするなど、北海道の開拓に貢献したとされる人物です。札幌の大通公園には彼の銅像も建っています。同時にこの人は、アメリカ先住民を居留地へと追いやり、厳しい生活を強いた人でもあります。日本に来て、アメリカで先住民に対して行ったのと同じような政策をアイヌ民族に対して進めようとした のです。これは厳しい同化政策(*2)でした。ケプロンの政策が「富国強兵・殖産興業・脱亜入欧」という明治政府の政策に合致していたということであり、明治政府の政策がどんな性格のものだったかを端的に示しています。
 江戸幕府は、「蝦夷と呼ばれる人たちが住む地域」を蝦夷地(えぞち)と呼んでおり、自分たちの土地ではないことを名称としても認めていたことになります。ところが明治時代に入ると、明治政府は「アイヌモシリ」(アイヌ語で「人間の大地」)を「北海道」と呼ぶようになり、日本国の土地としました。同時に、その土地に住む人びとは、明治政府の政策に従わなければ生きていけなくなりました。ことばや服装など民族文化が禁止され、和人文化への同化を求められました。戸籍制度が敷かれると、和人と同じように「氏名」(*3)というスタイルの名前を使うことを強制されました。このような明治政府の政策を法律として固定化したのが、1899(明治32)年の北海道旧土人保護法 です。
 この時代にアイヌ民族の和人への同化を担ったアイヌのリーダーもいます。アイヌ民族の生活改善などのためです。その一人、吉田菊太郎(1896~1965年)は、アイヌ民族の同化を担いながら、結局アイヌ民族がいなくなり、アイヌ文化も途絶えてしまうことを嘆きつつ、十勝の幕別町に蝦夷文化考古館という博物館を建てました。その博物館の中には、彼が1961(昭和36)年に書いた「蝦夷文化考古館におもう」という文書が掲げられています。(句読点を加えた箇所はありますが、段落換えを含め、基本的に文面を変えてはいません)

(幕別町教育委員会提供)

 蝦夷文化考古館におもう

 その昔、北海道は蝦夷、即ちアイヌ民族の自由の天地であり、大自然に恵まれて何不自由なく楽しく住んでいた。蝦夷ヶ島北海道は、急激なる拓殖政策の強化に伴い、古潭は村に町にと拓け、世は限りなく発展を示しつつあるのに反し、激しい生存競争に耐えられぬ同族の中には世の敗残者として家財を失い、古潭を離れてその行方さえ知れぬものが少なくない。
 又、進化向上した者は事業のため其の他により都会に移り、古潭に停る者も生活様式の改善により、あるいは和人との混血により、同族本来の姿は年々薄れ、古潭は一般和人部落に変りつつある現状にして、おそらく近い将来には全くアイヌ人の姿はこの世から歿し去ることであらう。斯くて先祖が起き伏し、日頃意を通ずるために用いた言葉や、荘厳に行われたカムイノミ(祭典儀式)も殆ど忘れられていることは誠に遺憾の極みである。また、鎌倉時代から蝦夷ヶ島北海道開拓のため移入する内地人の奴僕となって、重荷を背負い、深い茨を分けて道しるべの役となり、或は河に丸木舟を操って交通運輸に努め、開拓移民の先駆者として、文字通り犬馬の労に身命を曝す。
 その酬いとして与えられた品々及び熊の皮、鹿の角など、物々交換により求めた諸々の物を宝ものとして保存し、又自ら作った生活必需品など之等貴重な文化財が薄れゆくアイヌ民族と共に失はれ、このまま放置せんか、古潭にアイヌ文化財は全く消え失せるであらうことを嘆く吉田菊太郎は、一族と共に奮起したのである。
 而して、先祖の遺した文化財を蒐集して一堂に収め、永く正しく保存することが、先祖に対する餞であり、また向後の考古資料にも役立つであらうと考え、先ず之等を保存する館を建設するに当り、菊太郎は資金造成のためアイヌ文化史なる冊子を発刊し、之を道内外に行脚して販売す。尚家族の私財を含めても足りず、然るに幕別町を始め江湖諸賢の御賛助に与り、昭和三十四年深秋、首尾良く蝦夷文化考古館の完成を見るに至る。以来文化財の蒐集に渾身懸命に努むるや、幸い篤志家の御協力と相俟って、徐ろに収容しつつあり、必ず初志の目的を完遂する信念に徹す。茲に念願するは、菊太郎亡き後の蝦夷文化考古館の維持管理は幕別町において當られるよう切に望むのである。
 嗚呼、思いを後世に転ず。既に蝦夷は亡く蝦夷文化考古館の一堂のみが往時先住民族アイヌ人居住の跡として此の地に残るのであらう。
 吾は、先祖と共に蓮華の蔭から蝦夷文化考古館を見守る。合掌。

昭和三十六年五月五日(一九六一年)
北海道十勝国中川郡幕別町字千住(元チリロクトウ古潭)
蝦夷文化考古館建設者 アイヌ人 吉田菊太郎
明治二十九年七月二十日この地に生る

 ここには、心ならずも同化政策を担いながら、アイヌ民族の文化が途絶えかねないことを嘆くアイヌ民族の一リーダーの声があります。吉田菊太郎という名前は和人風につけられた名前です。彼のアイヌ名もあるはずなのですが、それはわたしには分かりません。
 この幕別のコタンに住んでいた人の話を聞いたことがあります。2005(平成17)年前後ですが、その頃その人は、65歳ぐらいだったかと思います。幼い頃、フチ(おばあさん)たちがおしゃべりしているところによちよちと歩いて行こうとしたら、そのおばあさんたちは「やめよう、やめよう、おしゃべりは。子どもにアイヌ語がうつってしまう」と言っておしゃべりをやめて離れていったのだそうです。おばあさんたちにとってよちよち歩きぐらいの子どもは、孫のような存在でかわいかったことでしょう。そんな子どもともアイヌ語で話せない状況を強いられたということです。
 このような政策は沖縄でも行われ、その後、台湾・朝鮮など、日本が海外侵略を進めるときに引き継がれていきました。このように、明治に入ってからの日本の歴史は、明治の初め頃につくられたさまざまな制度を維持し、拡大していこうとする歴史だったと言えます。北海道の開拓で進められた政策を引き継ぎ、海外侵略も、戦争をくりかえしながら進んでいったと言わなければなりません。このプロセスが現代までも強い影響を及ぼしており、わたしたちの暮らしやものの感じ方を左右しています。

2.アイヌ民族の闘い

 このような動きに対して、古代から蝦夷やアイヌ民族の戦いはありました。8世紀末から9世紀初めにかけての「アテルイの戦い」、1457年の「コシャマインの戦い」、1669年からの「シャクシャインの戦い」、1789年の「クナシリ・メナシの戦い」などです。近代になってからは、アイヌ民族はさらに厳しい生活を強いられ、抵抗の動きも続きました。アイヌ民族であることに誇りを持って生きようとする人たちが登場します。
 『アイヌ神謡集』を書いた知里幸恵(1903~1922年)は、1922年7月12日の日記のなかで次のように書いています。文中に出てくる「シサム」とは和人のことを指しています。

「私はアイヌだ。何処までもアイヌだ。何処にシサムのやうなところがある?! たとへ、自分でシサムですと口で言ひ得るにしても、私は依然アイヌではないか。つまらない、そんな口先でばかりシサムになったって何になる。シサムになれば何だ。アイヌだから、それで人間ではないといふ事もない。同じ人ではないか。私はアイヌであったことを喜ぶ。私がもしかシサムであったら、もっと湿ひの無い人間であったかも知れない。アイヌだの、他の哀れな人々だのの存在をすら知らない人であったかも知れない。しかし私は涙を知ってゐる。神の試練の鞭を、愛の鞭を受けてゐる。それは感謝すべき事である。
 アイヌなるが故に世に見下げられる。それでもよい。自分のウタリが見下げられるのに私ひとりぽつりと見あげられたって、それが何になる。多くのウタリと共に見さげられた方が嬉しいことなのだ。
 それに私は見上げらるべき何物をも持たぬ。平々凡々、あるひはそれ以下の人間ではないか。アイヌなるが故に見さげられる、それはちっともいとふべきことではない。
 ただ、私のつたない故に、アイヌ全体がかうだとみなされて見さげられることは、私にとって忍びない苦痛なのだ。
 おゝ、愛する同胞よ、愛するアイヌよ!!!」

知里幸恵の日記(大正11年7月12日) より

 知里幸恵は、言語学者の金田一京助(1882~1971年)に見いだされ、彼の誘いで東京に移り住んで『アイヌ神謡集』(1923年)を著しました。才能を見いだされたアイヌ民族の子どもが1922(大正11)年5月に東京へと移り住み、同じ年の9月に19歳で亡くなったのです。わたしは、アイヌ神謡集を初めて読んだときに、そういう背景があったことを知りませんでした。
 知里幸恵以外にも、アイヌ民族として誇りを持って生き抜いた人たちがいます。違星北斗(1902 ~1929年)は、『コタン』(1930年)を発刊し、アイヌ復興への思いを和歌に託しました。知里幸恵の弟である知里真志保 (1909~1961年)は、アイヌ語をはじめアイヌ民族文化の保存と整理に努めました。これらの人たちは、誇りを持って生き抜いた人たちのほんの一部です。吉田菊太郎の憂いを乗り越え、現在も、アイヌ民族としての誇りを引き継いで生きている人たちがたくさんいます。

3.現代の課題につなぐ

 このような流れを受け、第二次世界大戦後も取り組みは進みました。詳しくは次回に譲りますが、政府は「ウタリ対策事業」を実施するとともに、1997(平成9)年には「アイヌ文化振興法」、2019(令和元)年には「アイヌ民族支援法」を制定してきました。これらのいずれも、上に述べてきたようなアイヌ民族に対する日本政府の同化政策を反省し、先住民族としての権利を十分に認めるものではないという意見もあります 。次回は、現代的課題を中心に論じます。

 本稿執筆にあたり、幕別町教育委員会の担当者にアドバイスを頂きました。ここに記すとともに感謝したいと思います。なお、本稿の最終的な責任は森にあります。

【参考・引用文献】

  • 文化庁ウェブサイト「ぶんかるNews002」(2021.8.3)
  • 中川 裕氏(千葉大学文学部教授)「北海道の激ムズ地名「重蘭窮」どうやって読む? アイヌ語の地名は基本的に地形を説明している」(東洋経済オンライン 2021.2.12)
  • アイヌ文化振興・研究推進機構『アイヌ民族:歴史と現在―未来を共に生きるために―』(第6版 アイヌ民族文化財団ウェブサイトより 2015.7)
  • ノエミ・ゴッドフロア氏(フランス国立東洋言語文化学院日本言語文化研究所)「明治時代におけるアイヌ同化政策とアカルチュレーション」(国際交流基金ウェブサイト)
  • 「〔旧〕北海道旧土人保護法について」(北海道ウェブサイト)
  • 青空文庫
  • 東村岳史氏(名古屋大学大学院国際開発研究科教員)「いま、なぜ「アイヌ新法」なのか : 「日本型」先住民族政策の行方」(nippon.comウェブサイト)

*1:アイヌ民族と和人
 アイヌ民族の歴史を意識して、奈良や京都、東京に成立した政権について考えると、さまざまなことが違って見えてきます。たとえば、アイヌ民族との関係で、それ以外の日本人を一括するとき、和人という言葉が使われます。弥生時代以前に日本列島にやってきたのは、アジア各地のさまざまな地域に住んでいたさまざまな民族だと言われます。その後、奈良時代や平安時代から始まる政権を担ってきたのは和人と呼ばれるグループです。江戸時代のさまざまな身分の人たちは、だいたい和人だったということができます。現代では、さまざまな国からさまざまな民族の人たちが日本にやってきていますが、主流となっているのは和人だと言えるでしょう。ところが、日本に住む和人の多くは、ふだんから自分たちが和人だとは意識していないかもしれません。「日本は単一民族だ」という発言をする人などは、その典型です。沖縄の人たちは、和人のことを「やまとんちゅ(大和人)」と呼びます。沖縄から日本の歴史を考えることによって、これまた異なる歴史と社会が浮かび上がります。
*2:「同化政策」について
 同化政策とは、支配集団が被支配集団を自分たちの文化や制度に従わせようとする政策を指しています。しかし、同化政策という言葉の使われ方は幅広く、支配集団の言語を習得することだけをもっぱら指すという場合もあれば、言語・名前・生活様式など幅広く文化をすべて支配集団の通りにさせることを指す場合もあります。この後者は、民族浄化政策とも呼ばれます。民族浄化とは、特定民族の文化全体をなくしていこうとする政策で、住んでいる場所から特定の民族などの集団を排除し、追い出し、住めないようにすることを含みます。ジェノサイドという言葉もありますが、こちらは「集団虐殺」と訳されることも多く、民族集団の生命そのものを直接に奪うというところに力点があります。
*3:「氏名」について
 そもそも、和人の間に「氏名」という枠組みが創られていったのは明治維新からです。江戸時代まで、和人の名前はさまざまでした。武士も、「氏名」という枠組みではありませんでした。たとえば、江戸時代の名奉行として知られる大岡忠相(1677~1752年)のフルネームは、大岡越前守忠右衛門忠相となります。忠相は諱(いみな)であり、この諱はもともと忠義(ただよし)でしたが、後に忠相となりました。諱で本人に呼びかけることは失礼とされていましたので、彼が「忠相」と生前に呼ばれることはほとんどありませんでした。忠右衛門は通称です。通称は求馬から始まり市十郎と変化し、忠右衛門となりました。ですから、生前に彼が「大岡忠相」と呼ばれることなどなかったのです。諱の忠相を勝手に使って、わたしたちがいまの氏名という枠組みに当てはめて彼を呼んでいるのです。一方、百姓身分にも多くの場合、名字はありました。ただ、公的な場所で名乗ることはできませんでした。明治時代になって1870年に「平民苗字許可令」が出ても、人びとの多くは名字を届け出ませんでした。公的に名字を明かせば処罰されると思っていたからです。「氏名」という枠組みで戸籍を編成し、すべての国民を管理しようとした政府にとって、これは見逃せないことです。そのため、のちに「苗字必称義務令」(1875年)などを出し、名字を義務づけました。
 このように、江戸時代までの名前は、①氏名という枠組みではなく、②成長とともに変化し、③さまざまな要素を含んでいた、ということになります。そして、それらを一括して管理するために、明治時代になって「氏名」という制度が創られていったのです。「氏名」という制度の下では、生まれたときにつけられた名前を一生変えることができず、「氏名」以外の要素を使うこともできません。こういう枠組みの名前制度をもっている国はほとんどありません。わたしたちは、氏名という制度一つをとっても、明治時代に作られた枠組みに縛られているのです。そのため、外国生まれの人でも、日本国籍を取得するなら「氏名」という枠組みにあわせるよう求められます。「帰化」とは、こういう面も含めて日本の社会や制度などに従うことを認めるという制度だと言えます。