学び!と人権

学び!と人権

アイヌ民族と人権(その3)
2024.01.05
学び!と人権 <Vol.25>
アイヌ民族と人権(その3)
森 実(もり・みのる)

1.ウポポイ

 今年(2023年)11月の初めに、北海道を訪れる機会がありました。その際に、前回紹介した木村マサヱさんともお会いしたのですが、あわせてウポポイ も訪れることができました。ウポポイとは、白老町にある「民族共生象徴空間」の愛称です。このなかに、国立アイヌ民族博物館と、国立民族共生公園があります。民族共生空間には、アイヌ工芸づくりなどを楽しめる工房(イカラウシ)や、アイヌの伝統芸能を上演する体験交流ホール(ウエカリチセ)など、さらにさまざまな施設 があります。
 ウポポイを訪れたのは11月3日の「文化の日」です。この日は、ウポポイが無料で公開される日でした。1200円の入場料が免除されていたのです。ウポポイだけではなく、日本にある博物館のなかには、「文化の日」だからということで、この日を無料にしているところがあります。わたしたちは知らなかったので、お得感がありました。無料公開の日だったせいか、どの事業も人が多くいました。博物館を見て回り、体験交流ホールで伝統芸能を見せてもらいました。これらは、どちらかといえばわたしたちは「お客さん」にとどまっていました。工房で木彫体験「イヌイェアン ロ」 をさせてもらって、やや参加意識は高まりました。自分のつくった作品と展示されている作品との間には、当然ながら大きなギャップがあります。それでも、「自分が関われた」感がありました。体験学習館の別館ではアイヌアートショー がありました。これは、アイヌアートの作家さんたちと直接話したり、作品を購入したりできるイベントでした。わたしにとってありがたかったのは、20年ほど前に北海道にちょくちょく訪れていたときにお世話になった結城幸司さん とお会いできたことです。そのおかげで、ウポポイとの距離感が一気に縮まりました。

2.知里幸恵銀のしずく記念館

 ウポポイから自動車で30分ほどのところに「知里幸恵 銀のしずく記念館 」(登別市)があります。これは、市民がつくった民間の博物館です。小さな館なのですが、歴史などについて情報を提供して、心にメッセージを届けてくれます。
 わたしにとっていちばん驚きだったのは、この連載の第23回で紹介した知里幸恵(1903~1922年)の1922(大正11)年7月12日の日記の現物を見ることができたことです。「私はアイヌだ。何処までもアイヌだ……」という文章は、小さなメモ帳のようなノートに小さな文字で書かれていました。ネット上のテキスト で見ていたときは、その力強さを感じていたのですが、現物を見て、力強さだけではなく、小さな文字に込めた願いを感じました。小さな文字を見ていると、知里幸恵がこの日記を綴っている様子が、表情や鉛筆を握る姿まで、映像のように心の中に浮かんできました。
 直筆の原文写真を「記念館」から提供していただいたので、原文をご覧ください。

「知里森舎提供」

 『アイヌ神謡集』(1923年)の序文などは、書籍として出版するときの序文ですから、ほかの多くの人たちが読むことを前提に書かれています。また、書いていた場所は金田一京助(1882~1971年)の自宅です。金田一京助はアイヌ文化についてそれなりに理解のある人だったといえますが、同時に、アイヌ民族のヤマト文化への同化を推進する人でもありました。「同化」と言っても、それは単に日本語を話すようになるということを意味するのではありません。アイヌの文化を捨て去ること、つまり民族の「浄化」を推進する立場の人です。だから、『アイヌ神謡集』の序文も、さまざまな配慮のうえに成り立った文章だと思った方がよいでしょう。それに対して日記の文章は、自分で自分のために書いている文章だといえます。ある意味「こっそりと」書いていたのではないでしょうか。これは推測でしかありませんが、いろいろな可能性を考えても、この日記の方が、知里幸恵の思いをストレートに綴っていると考えられるでしょう。
 それをわたしたちは読んでいるということになります。小さなメモ帳ぐらいのノートに書かれたこの文章は、書かれたときには他の人に見られる可能性を考えていなかったと思った方がよいとすれば、それを読むわたしたちには、責任や志が求められるように思えます。読んだうえでどうするのかということが問われるということです。

3.「被抑圧者の教育」と「抑圧者の教育」の接点

 「知里幸恵銀のしずく記念館」は、ある意味で、アイヌ民族の一人である知里幸恵に焦点を合わせて、被差別の立場にあるアイヌ民族の側から歴史を解き明かした博物館です。先の日記の文章もそうなのですが、館全体として、展示にはアイヌ民族が抑圧されていった過程が刻印されています。アイヌ民族の人たちがここを訪れれば、自分と同じ立場の人が100年も前にこういう文章を綴っていたことに力をもらえるのではないでしょうか。一方、和人がここを訪れれば、力をもらえる面もあるかも知れませんが、それにも増して、和人とアイヌとの関係を考えることになるのではないでしょうか。わたしも和人の一人として、自分の責任を改めて考えました。
 こういう議論をするときに、「罪の意識」という概念を土台に据えて議論する場合があります。そして、それに対して「昔の人がやったことで、自分がしたわけでもないのに、罪の意識を持つ必要はないのではないか」という意見が聞こえてきます。そういうときには、「罪の意識ではなく、自分たちの責任として考えてみてはどうでしょう」と応えてみることをおすすめします。
 確かに、わたしたち自身が北海道開拓を進め、アイヌ民族をもとの居住地から追い出し、文化を剥奪していったわけではありません。しかし、わたしたちがその恩恵を被っていることは明らかです。ほとんどの場合、わたしたちが食べている北海道の産品は、和人が侵略して北海道に暮らすようになって得られたものです。「侵略の恩恵」を受けているわたしたちは、フェアな関係を築き直すという責任を負っていると考えるのです。
 その構図を考えると、同時にわたしたち自身がいまの社会のなかで不利益を強いられているという面にも気づきます。自分たちの加害性と被加害性という両面から問題に迫るのです。
 和人の多くは、ふだんから自分が和人であるとはあまり自覚していないのではないかと思います。かくいうわたしも、30年ほど前まではあまりそういう自覚を持っていませんでした。一方のアイヌ民族の側では、自分たちがアイヌ民族であるということをくりかえし思い知らされています。一方がくりかえし思い知らされるのに対して、他方はその自覚さえないというのはあまりにアンバランスです。このままでは、知らず知らずのうちにでも、和人は差別する側に回ってしまいかねません。これは加害性の面から考えたときに見えてくる問題です。
 一方、明治時代以後に北海道に渡った和人の多くが、移住前は、安定した暮らしをしていたわけではないと思われます。さまざまな事情があって、北海道に渡っていったと思われるのです。
 アイヌ民族と和人がともに自己をふりかえり、和人が加害性と被害性を捉え直すことによってたんなる和人とアイヌ民族との対立を乗り越えることが可能になります。いま行われている教育実践でも、それは行われていますが、この面をさらに強く前に打ち出すことによって新しい人権教育が展開できそうに思えます。
 次回は、そのような発想にもとづいての提案をする予定です。

【参考・引用文献】

  • ウポポイウェブサイト
  • 「北海道アイヌ協会理事 結城幸司さんインタビュー」(MouLa HOKKAIDO、2023.10.17)
  • 知里幸恵 銀のしずく記念館ウェブサイト
  • 青空文庫「日記(大正11年6月1日) 知里幸恵」