学び!と歴史

学び!と歴史

戦場はどのような世界であったろうか
2015.10.21
学び!と歴史 <Vol.93>
戦場はどのような世界であったろうか
大濱 徹也(おおはま・てつや)

承前

 日本の兵隊は、前回紹介した窪田や片柳にみられますように、戦場での見聞を従軍日記等々として遺しています。このことは、欧米などにみられないことで、日本軍将兵の大きな特徴です。米軍は、太平洋の戦場に放置されていた戦死した日本軍将兵の持ち物から軍隊手牒や日記等々を収集し、その諸記録を読み解くことで日本軍の攻撃に対処し、作戦を立てたのです。一方、米軍は将兵に日記等の記録を遺すことを禁じていた。かつ欧米の兵士は、日本の兵隊とくらべ、識字力が劣っていました。
 日本の兵隊は、義務教育で識字力を身につけ、軍隊に入ることで手紙や日記等々を書く作法を習得しております。民衆は、当初徴兵を嫌悪し、忌避しておりました。しかし軍隊は、日清日露戦争の勝利により、時代と共にその存在が高くなるなかで、小学校を卒業し、村で百姓として生きねばならない青年にとり、過酷な軍務があるものの、3食コメの飯が食える場所で世間知を学べる官費の「人生道場」「国民の学校」とみなされていきます。
 かくて日本の社会は、20歳で徴兵され、現役兵として軍隊生活を終えることで、はじめて一人前の大人と認知することとなったのです。小学校を修了した若者は、兵営生活をとおして、生活の異なる多様な人間に出会い、話し方から読み書きのみならず、軍服や軍靴に代表される「文明」に象徴される生活作法を身体に刻みこまれ、「社会人」として育成されていきます。ここに日本人がいまだ身につけている集団行動の原点があります。
 戦場に行くことは、このような青年にとり、故郷を離れて「官費」で海外旅行をするという気分でもあったのです。そのため戦場の兵士は、はじめての異郷異国との出会が新鮮な体験だけに、その見聞を克明に認めております。その記録は、酷薄なまでに、戦場に生きねばならない兵士の相貌をつたえてくれます。そこで、日露戦争における203高地の惨状を記録した第1師団軍医部長鶴田禎次郎の検屍報告とロシア革命に干渉するためにシベリアに派兵された大正7年に小倉第14連隊の兵士松雄勝造(1896年生)の日記を紹介します。

医学者の眼―鶴田禎次郎『日露戦役従軍日記』の世界

 鶴田禎次郎(1865-1934)は、第1師団軍医部長として乃木希典の第3軍に属し、旅順攻略戦に従事、軍医として戦場における将兵の相貌を克明に認めています。戦場では、兵士の自傷、精神異常、戦闘中に「將校中不進の兵卒を2,3名惨殺したる後敵塁に躍入戦死したるもの」が語られ、「我連隊、我大隊、我中隊は殆んど全滅せりとの語を聴くこと何ぞ頻々たる」(明治37年12月6日)状況が日常下していく203高地攻防戦でした。占領後に屍体収容がはじまりますが、その「惨状目も当られず」として、

1)全身の大部黒焼したるものあり、2)衣服焼儘赤裸々のものあり、3)頭部の全くなきものあり、4)腹部、胸部に土砂充満し恰も47mm砲弾にて毀傷したる土嚢に彷彿たるものあり、5)何部の肉とも分らず、大なる肉塊の土地にまみれ、恰も朽大根を掘出したらん如く此処、彼処に散乱すあり、6)恰も帳面、書籍を焼きたらんが如く軍衣、チョッキ襦袢の炭化せるも尚一枚一枚重なり合て原型を存し燃え余りの衣片に接続しあるものあり、(明治37年12月9日)

 等々という状況ですが、「斯の如く千差万別なるも顔面を存する屍体は其顔貌何れも平和の態にありて一も憤怒の相を呈するものなし、実に意外千万なり、如何にも安心して死したるものゝ如くなり、画家従来人を欺くの甚しきものと言ふべし」と認めています。203m山の「光景同様」と。
 日露戦争は、このような戦闘の展開によって、プレ第1次大戦とも位置づけられることとなります。日本の軍医学は、日露戦争による「軍人狂」といわれた「戦地精神病」に取り組むことで、第1次大戦後にヨーロッパ医学界で問題視されることとなる研究に先行した取り組みをしたのです。

シベリア―パルチザンとの遭遇―松尾勝造『シベリア出征日記』(風媒社 1978年)

或部落で飯盒炊爨に取掛ったが、其処の土人は、「何を持って行ってもいいが、此処で飯を炊くことだけはやめてくれ。日本人は飯を炊くのに火を燃やす。敵はその煙を見て日本軍あれにありとて射撃をされた日には、我等は傍杖を食ふから」と。聞けば道理だが、何処へ行っても火を燃やさねば飯は出来ぬ。「愚図愚図言ふな」と叱っておいて飯を炊き終わり、急いで壕に帰った。(略)
中隊命令で明日の朝と昼2食分の飯を炊けとのこと。普通なら予、後備兵でも小まめに炊事をするものだが、今日の場合、今までの敵の砲弾の威力に些か恐れを抱いてゐる際とて、指名されぬ限りは頬かむりを決め込む。塹壕に屈んでゐれば安全でり、飯炊きに行って弾丸に当って死んでも、名誉の戦死と言ふ名は付けられようが、同じ死ぬものなら敵と渡り合って戦死してこそ死所を得たりと言ふものだらう。(大正7年8月23日)
払暁の時刻の突撃こそは、日本軍の華であり骨髄である。世界に向って最も誇りとしてゐる得意の戦術、払暁戦である。(略)
ところで不審なのは、敵兵の服装である。いづれも狩り集められた土民らしき兵、一人一人がまちまちの服装であう。(略)
健気な殿軍の役をする奴を突き伏せ、追ひ伏せ、逃げる奴、刃向ふ奴原を、一突でブスリと、脊より腹へ、腹より脊へと田楽刺に面白いやうに突き通って行くのは、牛や豚のやうに引締っていないからで、人間一人突き殺す位造作はない。頭と言はず胴と言はず、手当り次第に、倒れた戦友の弔い、仇討に突いて、突いて、突きまくって、盛んに追討ちをかけ、ブスリブスリと突き殺して行くのであるから、かうなると戦争も面白い。人間の骨は、生きている間は重い荷を担いだり酷い仕事をしても坐骨すると言ふことは滅多にないが、このやうに死んだ奴等を踏み越えて行くと、肋骨でも手も足もポキポキと音を立てて折れて行くから妙だ。(略)どうせ自分も戦死だ、命も何も惜しくない、同じ死ぬなら幾久しき語り草に、敵の本陣へ躍り込んで充分敵兵をやっつけて華々しく散って死のうと思った。これが所謂大和魂と言ふものだらう。敵の死骸を踏み越えて、誰よりも真先に突進した。実にかうした激戦の際、一番先頭になってキラキラ光る銃剣に残敵の血を塗らして突進して行くのは、実に愉快至極である。かくして突撃すること200メートル、遂に敵の歩兵最後の陣地を奪取占領したのである。(大正7年8月24日)

 シベリアの日本軍は、このようなパルチザンとの戦争に翻弄され、泥沼のなか撤退したのです。日本は、この戦闘から何も学ぶことなく、日中戦争で中国人民の大海に呑込まれて行くこととなりました。そのため日本軍は、「シナ人」を見たら敵とみなし、殺したのです。「南京虐殺」はこのようななかで起こったのです。このゲリラ戦は、ベトナムやアフガニスタンでアメリカ軍を消耗させました。
 この記録は、戦場に生きた兵士の相貌を具体的に描いたのみならず、まさに現代の戦争につながる世界の一端を提示しているものです。この記録を遺した兵士松尾が残酷な人間なのではなく、まさに兵士として生きるにはこのような世界があったのです。これらの記録は、戦場で生きることが敵を殺すことになるという冷酷な事実を、私たちにつきつけております。戦争に向き合うということはこうした戦場において人間であるとは何かを己に問うことでもあるのではないでしょうか。人間が人間であるには何が問われているのでしょうか。

 

参考文献

  • 堀田善衛『夜の森』講談社 1955年
  • 高橋治『派兵』朝日新聞社 1972-77年
  • 大濱『近代民衆の記録8 兵士』新人物往来社 1978年
  • 大濱『日本人と戦争―歴史としての戦争体験―』刀水書房 2002年
  • 大濱『庶民のみた日清・日露戦争―帝国への歩み―』刀水書房 2003年