学び!と歴史

学び!と歴史

兵士は戦場をどのように記録しているか
2015.09.29
学び!と歴史 <Vol.92>
兵士は戦場をどのように記録しているか
大濱 徹也(おおはま・てつや)

承前

 日本は、米国との協力をさらに強固にするために、「積極的平和主義」をかかげ、新たに安全保障関係の法体系の整備をなし、自衛隊が米軍の後方支援に参与できるようにしました。安倍総理は、この後方支援が自衛隊員にrisk-危険をともなうことがない安全に配慮したものである、と縷々説いています。はたしてそうでしょうか。
 この「後方支援」は、日米の防衛協力を取り決めたガイドラインによると、logistic supportとされております。logisticは兵站(へいたん)のことです。兵站とは、戦争において軍隊が必要とする武器・弾薬・食料等々の補給や兵士の運搬をする任務のことです。日本陸軍は、歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵(しちょうへい)・看護卒から構成されていましたが、輜重兵は「もしも輜重兵が兵隊ならば蝶々トンボも鳥のうち」「もしも輜重兵が兵隊ならば電信柱に花が咲く」などと揶揄されるほどに軽蔑され、兵科とみなされていませんでした。まさに日本軍は、兵站の思想が欠落しており、食は敵地でとれとした軍隊でした。そのため戦地においては、現地住民の食を奪い、各占領地で多くの非道を行いました。この補給を蔑視した体制こそは、とくに太平洋戦線において、日本軍死者の7割前後が餓死であったことにも読みとれましょう。

戦争をみつめたろうか

 近代戦、とくに現代の戦争においては、兵站の確保が必須のことで、兵站の破壊が戦争を左右します。まさに兵站は真っ先に攻撃をうけます。後方支援だから戦場でないなどというのは現代の戦争について無知か意識的欺瞞のきわみです。しかも「危険」をriskとみなし、dangerと説明しないのは言葉の詐称そのものです。riskが意味する「危険」は、たとえば商売などで“リスクを取る”といわれる表現にみられるように、その人が負うべき自由と責任と不可分に結び付いた概念にほかなりません、戦場における危険は、兵士が己の責任でリスクを取るものでしょうか。それは、否応なしにおそって来るdanger-危険にほかなりません。これは、言葉の綾ではなく、戦場の危険を隠蔽するための詐欺的言語操作そのものでないでしょうか。ことほどさように言葉の置き換えで本質を隠蔽した政治が現在まさにまかりとおっているのが、日本の政治なのです。
 このような時代だからこそ、戦争とはどのような世界かを、戦場の兵士の目で確かめることとします。戦後教育は、「平和教育」を課題としてきましたが、戦争がもたらした世界を個別具体的に説くことを「児童生徒」にとり「残酷」だとしてにげてきました。慣例のごとく企画される8月行事を「平和」なる冠で営むものの、正面から戦争に向きあう「戦争展」は忌避されてきたのではないでしょうか。それだけに戦争といえばTVや映画のなかの格好のいい世界としか理解できない、戦場の死が己のことと重ねて読み解く想像力を失わせたといえましょう。そこで戦争とは何かを、徴兵された若者が、一人の兵士として戦場で見聞を記録した世界から問い質すこととします。

第1師団歩兵第15連隊窪田仲蔵の旅順戦記

 長野県諏訪郡の農民窪田仲蔵は、1873(明治3)年生まれで93年12月に第1師団歩兵第15連隊に現役兵として入営、翌94年日清開戦で第2軍の下、乃木希典の指揮下で旅順攻略に参加、12月に1等卒、95年3月に上等兵に昇進、終戦で帰国、勲8等瑞宝章を授与された人物(岡部牧夫「兵士の見た日清戦争」)。その従軍日誌は、戦場で生きた兵士の相貌を詳細に記録しており、旅順のおける殺戮戦を克明に認めております。この旅順における日本軍の殺戮戦は、「旅順虐殺」として世界に報じられ、後に日中戦争下における南京占領での「南京虐殺」に重ねてあらためて想起されることとなったものです。旅順口の白玉山東麓に万忠墓はその死者を慰弔したものです。日記には、日本兵が清国の軍民を殺戮していく思いがあますところなく吐露されています。そこには戦場における兵士の心理が読み取れましょう。

敵兵退却の後我兵士の死体を見るに一の首あらず皆敵兵之れを切り持去れり。或は手なきもあり足なきもあり腹は十文字に切り武器被服皆持去り実にザンコクの殺しをなしたり。余等は之れを見て実に耐え兼此の後敵と見たら皆殺しにせんと一同語り進む。(明治27年11月19日)
互に砲戦2時間にして日は既に西山に傾く。此の時敵の死体三つあり。見るに皆火あぶりにし亦腹等は十文字に切りあり。是は前18日双台溝に於て敵の為めに無残の殺しを受けし故其仇として我兵士今此の死体を此の如くしたるなり。余等も是れを見て一寸の心を安ぜり。(11月20日)
余等は急に追撃す。敵も三方討ち破られ逃ぐるに遑あらず土民の衣を着て土民に詐るあり。或は人家に隠れ或は屋根の上を逃るもあり恰も蟻の散るが如し。此の時余等は旅順町に進入するや日本兵士の首一つ道傍木台に乗せさらしものにしてあり。余等も之れを見て怒に堪え兼気は張り支那兵と見たら粉にせんと欲し旅順市中の人と見ても皆討殺したり。故に道路等は死人のみにて行進にも不便の倍なり。人家に居るも皆殺し大抵の人家二三人より五六人死者なき家はなし。其の血は流れ其の香も亦甚だ悪し。捜索隊を出し或は討ち或は切り敵は武器を捨て逃るのみ。之れを討ち或は切る故実に愉快極まりなし。此の時我軍の砲兵は後方にありて天皇陛下万歳を三呼す。(略)其夜は戸併に桶等を打ち破し以て火を燃き其の夜を明かしたり。夜明けて水を求めんとし見るに死人のみにて実に水を飲む如き清水なし。此の時酒或は砂糖菓子等を分捕り亦皮を分取り首に巻き將校中には虎の皮等を分捕せしもの沢山あり。昨夜よりの寒気実に厳しく吾等も皮のため寒を凌げり。兵卒中には酒を沢山飲み大酔し寒を知らざるものもあり。此の戦後日の調に依れば婦人40余人を殺したりよ云ふ。是日暮れて後見分の付かざるなり且つ我軍双台溝の戦敵のため残酷の殺しを設か奮怒の至りに出来事なり。此の時吾れ戦友と共に裏町に入り見れば5人医書一所に死し中に大なる犬一匹之を守り居るあり。是れ其家の主人ならん。(11月21日)
神国の兵は僅の兵を以て1日に之れを攻め落したり。其の敵は嚢の中の鼠の如し皆殺しにして逃ぐるは甚だ僅なり(11月22日)

従軍画家浅井忠が描いた世界

 ここに記述されている旅順の様相は、占領後に旅順に入った東京青梅の御嶽神社に奉仕する御師片柳鯉之助(1866年生)、日清開戦で充員召集で第1師団野戦砲兵第1連隊に入営、2等軍曹、第2小隊長として従軍した人物の記録です。

此日旅順の市街及附近を見るに、敵兵の死体極めて多く、毎戸必ず三四以上あり。道路海岸至る所屍を以て埋む。其状鈍筆の能く及ぶ所にあらず。午後6時舎営に帰る。今や各所は悉く日旗の金風に翻るのみ。(片柳「遠征日誌」11月25日)

 このような旅順の光景は、従軍画家浅井忠が描いた「旅順最後の捜索」(東京国立博物館蔵)ico_linkによって、現在も想起することができます。この旅順占領が現出した世界は、紛争地となっている各地に、現在も展開しているのです。

 

参考文献

  • 大濱『近代民衆の記録 兵士』新人物往来社 1978年
  • 大濱『天皇の軍隊』講談社学術文庫 2015年