学び!と歴史

学び!と歴史

「国民の天皇」になるということ
2016.02.29
学び!と歴史 <Vol.95>
「国民の天皇」になるということ
大濱 徹也(おおはま・てつや)

慰霊鎮魂の旅とは

 天皇明仁と皇后美智子は、今年2016年1月26日から30日にかけてフィリピンを訪問、27日に国立英雄墓地で供花し、フィリッピン側の戦没者を慰霊、29日にマニラの南約70キロのラグナ州にある日本が建立した「比島戦没者の碑」に供花、戦没者の遺族代表と懇談されるそうです。この旅は、沖縄、硫黄島、サイパン、ペリリュー島等の戦地訪問につらなるもので、戦後70年を前にした2014年に沖縄・長崎・広島を、2015年という70年の年には太平洋の激戦地であったパラオに、その後関東大震災・東京大空襲の遺骨を納める東京都慰霊堂、観音崎の戦没・殉難船員追悼式に出席、パラオから引き揚げてきた入植者が開拓した山形県蔵王の北原尾地区を訪問しています。
 この戦後入植者への眼は、満洲移民が引揚げ後に入植した栃木県那須の千振開拓地、長野県軽井沢の大日向開拓地への訪問としてすでに実施されてきたことです。パラオ慰霊に重ねての「日本のパラオ」と喧伝された北原尾訪問という演出の見事さに脱帽するのみです。
 現天皇は、とくに「先の大戦」と呼称される「大東亜戦争」、アジア太平洋戦争における激戦地への慰霊に皇后ともども強くこだわってきました。この想いは、沖縄戦終結の6月23日「沖縄県の慰霊の日」、広島に原爆が投下された8月6日、長崎に原爆が投下された8月9日、降伏「終戦」を告げた8月15日の四つを大切な「祈りの日」となし、皇太子らにその日に何処にいようと祈りを捧げるように教えたなかにも読みとれます。
 2014年の沖縄、長崎、広島訪問は、2015年が戦後70年で戦後政治の「争点」として日本の戦争が問い質される渦を避け、かつ政治の争点となっている普天間基地の辺野古移設問題にとりこまれないための政治的配慮であったとも言えましょう。このように行幸啓という営みは、時代の政治的争点に配慮しながら、時代によせる天皇の想いを吐露したものと言えましょう。

水俣の地で

 このような行幸啓に2013年10月27日の熊本県水俣訪問があります。この訪問は、熊本県での「全国豊かな海づくり大会」に出席した際、明仁・美智子が強く希望したものです。二人は、水俣病患者を見舞い、水俣病資料館で患者の声に耳傾け、慰霊、慰藉することに時間をさきました。その日の思いは翌2014年の歌会始に読まれています。

慰霊碑の先に広がる水俣の海青くして静かなりけり

 水銀汚染の海を埋め立てた親水公園に建立された「水俣病慰霊の碑」には、この歌とともに、訪問での感慨を詠った「あまたなる人の患ひのもととなりし海にむかひて魚放ちけり」が大きく書かれ、「患ひの元知れずして病みをりしひとらの苦しみいかばかりなりし」との3首が刻まれています。
 この天皇の歌には、水俣病によって亡くなった人々、いまだ苦しむ人びとによせる天皇の想い、鎮魂の念が託されているのではないでしょうか。さらに2015年には、富山県での「全国豊かな海づくり大会」に行幸啓した際、イタイタイ病資料館に立寄り、「どういふことでこの病が発生したのか」「どうしてすぐにはわからなかったのだらうか」(河相周夫侍従長談)等と天皇が問われた由。ここには、日本の高度成長が産み出した公害病の被害者に寄りそうことで、己の存在の場を示そうとする姿がうかがえます。
 近くは、東北大震災、関東東北豪雨等による被災地をいち早く訪れ、見舞います。そこでは、「天皇」という上からの目線ではなく、被害者の目線に近づいて、言葉を交わす姿がみられます。この様子は、TVで広く報じられることで、国民の眼にふれ、天皇の「恩愛」と「仁慈」を広く国民の心に刻みこまれ、「国民」によりそう天皇像を増幅させ、「国民の天皇」という言説を広く流布していくこととなります。

「配電盤」のごとき営み

 このような天皇の在り方―皇室像は、日本国憲法第1条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と規定された天皇像を具現したものとみなされましょう。しかし、この営みは、日本国憲法によって創出されたものであるというより、明治維新で誕生してきた「天皇の国」像の底部に流れていた君主像のひとつでもあったのです。
 福沢諭吉は、1882年(明治15)に「帝室論」を著わし、天皇の立位置が果すべき役割につき、「帝室は政治社外のもの」「帝室は万機を統るものなり、万機に当るものに非ず」として、「帝室は人心収攬の中心と為りて国民政治論の軋轢を緩和し、陸海軍人の精神を制して其向ふ所を知らしめ其向ふ所を知らしめ、孝子節婦有功の者を賞して全国の徳風を篤くし」、と述べています。ここに提示された世界こそは、現在にいたるまで、天皇が担わねばならない天皇像なのです。
 現天皇明仁は、皇太子時代に「東宮御所教育常時参与」小泉信三から「帝王教育」を受けました。小泉は、父信吉亡き後、幼少期を福沢諭吉の下で一時育てられました。それだけに小泉には、皇太子教育において、諭吉の「帝室論」を範とすべきもとみなしたのです。まさに「象徴天皇」という在り方は、何も戦後に突然あらわれたのではなく、明治以来の「帝室」の課題を引継ぎ、天皇が時代に同伴するなかで、その時々に表す相貌にほかなりません。現天皇の営みは、鎮魂・慰霊・慰藉という語りかけを表出することで、最も表情豊かに己を提示しているのではないでしょうか。ここには、天皇という存在が時代に合わせた働きによって、あたかも配電盤のごとく、時代状況を体現して歩んでいく姿がうかがえます。「天皇制」なる言説で語られる世界は、このような時代像に重ねて、読み解かねばならないのではないでしょうか。

 

参考文献

  • 伊藤 晃『「国民の天皇」論の系譜』社会評論社 2015年
  • 高山文彦『ふたり 皇后美智子と石牟礼道子』講談社 2015年