学び!と歴史

学び!と歴史

国家に強要された死とどのように向き合いますか
2016.03.16
学び!と歴史 <Vol.96>
国家に強要された死とどのように向き合いますか
大濱 徹也(おおはま・てつや)

戦跡への鎮魂慰霊の様式

 天皇明仁・皇后美智子による慰霊の旅、行幸啓は、日本人戦没者に向けられたもので、「大東亜戦争」の戦没将兵、現地で亡くなった日本人への追悼であり、慰霊鎮魂です。そこでは、日本軍の犠牲となった現地住民、戦争の犠牲者を慰霊することはありません。今回のフィリピンであれば、1945年米軍の進攻を前にした日本軍がマニラで10万人を殺したといわれる「マニラ大虐殺」の記念碑“MEMORARE MANILA―1945”(google Map)ico_linkを訪問、「日本国天皇」として献花し、頭を下げ、謝罪と哀悼の意を表することはプログラムにありませんでした。
 東南アジアには、このような「虐殺」記念碑として、シンガポールの「華人大検証」なる名目による「華人掃討令」で5万人ともいわれる華人、中国系の住民が「虐殺」されたとの悼み、「血債の塔」が建立されています。戦後の日本は、このような日本の戦争がもたらした各地の「惨劇」をどれだけ直視してきたでしょうか。ここには慰霊鎮魂の旅がもつ偏頗な構造がうかがえましょう。
 いわば天皇皇后による慰霊の旅は、国民に刻みこまれている国家が強要した死の痛みを慰霊することで、国家の責任を無化しようとの想いが託されているのではないでしょうか。ここには、日本軍が他国民に強要した死の重さを思い見る眼がありません。たしかに天皇明仁には、ハワイ訪問の際に真珠湾奇襲で撃沈され、乗員1,177名のうち1,102名が戦死した戦艦アリゾナがアリゾナ記念館“USS Arizong Memorial”というオアフ島にある戦没者の記念館を訪れ、献花をする意向があったようですが、内閣の意向で中止されたとのこと。
 日本は、海外における戦死者追悼行事において、日本人の鎮魂慰霊に心よせますものの、現地の戦争犠牲者に眼を寄せていきませんでした。現地の人びととともに追悼行事を営み、「平和」を祈念したのは立正佼成会の「青年の船」が初めてではないでしょうか。ここには、「大東亜戦争」アジア太平洋の戦争に向き合う日本国民の閉ざされた眼があるのではないでしょうか。この眼こそは、「平和国家」日本を喧伝し、アジア諸国に多大な資金援助をするものの、どこか白眼視さている要因といえましょう。
 行幸啓はこのような構造で営まれてきたものです。惟うに今回のフィリピン訪問で「マニラ大虐殺」の記念碑“MEMORARE MANILA―1945”に明仁・美智子が献花し、額ずくならば日本に向ける眼が大きく開かれることでしょう。しかし、このような作法は期待できないのが現実です。「国民の天皇」とは、あくまで内向きで、閉ざされた国民の眼に寄りそうものでしかないのです。

「死」を意味付ける器とは

 この閉ざされた眼は、国家に求められた死をして、いかに一国民として受けとめたかということにかかわることです。このことは、日本が近代国家をどのようなものとして形成したかということにほかなりません。
 日本が国民国家を造形する上での課題を、プロイセンの国法学者グナイストは伏見宮貞愛(ふしみのみたさだなる)親王に1885年の講義でつぎのように説いています。国家をひとつに結付けるには、人心を一致協力させる精神の器がいる。そのためには、「人々互ニ相愛シ相保ツノ道ヲ教ヘ以テ人心ヲ一致結合」に導く「宗教」が必要である。「宗教」こそは、「自由ノ人民ニ其ノ善ク適当とすべきものを可成丈ケ保護シ、民心ヲ誘導シ、寺院ヲ起シ、神戒ヲ説教シ、深ク宗旨ヲ人心ニ入ラシムルニ非レバ、真ニ鞏固ナル国を成ス」もので、「兵ノ死ヲ顧ミズシテ国ノ為メニ身ヲ犠牲ニ供スルモ亦只此義ニ外ナラ」ないものなのだと。
 このような教示を受けとめた伊藤博文は、日本には宗教なるものの力が微弱であるとして、「我國にあって機軸とすべきは独り皇室あるのみ」と判断しました。かくて国民を一つにまとめる神の不在こそは、記紀神話に描かれている天皇を潤色して「神の裔」とみなす「大きな物語」を造型し、神格化していくことで国民の心に天皇崇拝を鋳造していくこととなります。この造形は、大日本帝国憲法が第1条「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」、第3条「天皇は神聖にして侵すへからす」、第4条「天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依りて之を行ふ」と規定し、権力の行使を公的に天皇が保障するシステムとしての日本型君主制、後の1930年代に登場してくる「天皇制」なる言説で説き語られる世界となります。
 ここに天皇は、幕末維新期に来日した外国人の眼に「精神上の皇帝」「教皇」と写っていた存在から、国家権力の要となり、福沢諭吉にいわせれば皇室は政治権力の外に立つことで仲保者となり、「万機を統るもの」で、「人心収攬の中心」たる使命を担う存在となっていきます。

死者と伴走する天皇

 国家は、戦争において、天皇の名で国民に死を強要します。天皇は、己が強要した死に向き合い、「戦死者」の死を抱え込むことで、「死」を意味付けます。その国民的磁場が靖国神社です。かつ死に伴走する天皇の営みは私的な生活空間である吹上御苑に建設された御府に読みとることが出来ましょう。天皇は、靖国神社に詣でる「御親拝」で「靖国の神」となった死者を慰霊し、鎮魂の祈りをささげます。
 この営みは、1945年の敗戦占領下で中断、1956年の対日平和条約後52年7月に明治神宮に参拝し、「敗戦」の責を謝罪し、10月の靖国神社に参拝となります。しかし1978年東条英機ら「A級戦犯」14名が合祀されて以後、天皇は靖国神社を訪れていません。
 このことは、明仁天皇・美智子皇后をして、高齢をもかえりみず、海外の戦跡に足を向けさせ、慰霊と鎮魂をなさしめるのだといえましょう。このような作法は、日本国民の眼に天皇の御稜威を感じさせましょうが、無残な死を負わされた者の救済、鎮魂になるのでしょうか。
 死は、一己固有のものであり、何人も容喙できるものではありません。この原点こそは、記念碑等に国家が密閉した死者を解き放ち、国家に対峙する己の場を持つことを可能にするのではないでしょうか。日本の近代国家が密閉した世界に潜む闇を問い質し作業として、天皇が営む慰藉、慰霊、鎮魂等の作法を考えたいものです。

 

※御府は、戦死将兵の名簿、遺品、戦利品を納めるために皇居吹上御苑内に建設された振天府(日清戦争)、懐遠府(北清事変)、建安府(日露戦争)、淳明府(西伯利出兵)、顕忠府(済南・満洲・上海事変)のこと。

参考文献

  • 大濱『天皇と日本の近代』(同成社 2010)
  • 大濱『天皇の軍隊』(講談社学術文庫 2015年)