学び!と歴史

学び!と歴史

自治を担う器として
2016.07.27
学び!と歴史 <Vol.100>
自治を担う器として
「主權者」が主權者になるということ 4
大濱 徹也(おおはま・てつや)

承前

 前田は、住民が自治を担うということ、政治の主体となるとはどういうことかを東京市助役時代の事例で具体的に説き明かします。

地方自治制といふものは政治の内でも極めて大切な地位を占むべきものと思ふが、まだ世間からさほど重視されて居らぬのである。その癖自治制の取扱ふ仕事は一番吾人の日常生活に縁の近いもの、一日荒廃され々ば身に迫つて困却を痛切に感ずるもの多い。
先般も東京市に電車の罷業(ストライキ)が起りかけたが、一日市内交通機関が止まれば、眼に見えて市民は困るのであり、塵芥や不浄物の掃除、水道の供給、下水の始末、瓦斯問題、道路、伝染病院、それよりも尚ほ大切な学校の施設といひ、それぞれ日常生活に直接関係することを取扱ふのが自治体の仕事であるが、米の飯は毎日食ふために左程美味いとも思はぬ如く、この吾人に最も近い政治に対して割合に世人は無関心である。

市政改善への眼

 前田は、東京市助役としての実務をふまえ、道路、橋梁の施設をはじめ、公園、下水の類から、さらに病院、学校、各種の社会事業、図書館、墓地の類は「行政的事業」として「施設」「経営」されるべきであり、電車・電灯・瓦斯・水道のような住民の生活に必需なものも「公企業」として「自治体」の経営に移したほうがよいと説きます。いわば、「自治体の特色は、支配権をもつて住民を威圧するにあらず、奉仕をもつて共同生活に後見するに在る」のであり、ここに「新しき、また広き意味における隣保相佑」が「完成」すると。
 自治体は住民の日常生活に奉仕するものであり、住民たる「吾々」が主体なのだとの認識です。お互い知らぬ他人は、このような協同して営んでいけるような形をとおして、自治の当事者としての連帯をなす公民となりうるのだと。
 「市政改善の一歩として予算決算等の積極的公開を望む」(1928年)は、市民こそが主人であるとして、市政を改善するために予算決算の積極的公開が望まれると提言しています。ここには、行政の執行権限が強い政治の在り方に対し、予算執行を公開し、東京市民が一人の市民として監視していくことができるシステムが要る。まさに前田には、市民こそが「真の主人」であり、市民の監視、了解、承認、協力後援があってこそ自治が実現できるとの強き信念がありました。

今日の市政に於いて、市会は市政の主人である。然し彼等が主人たる市民の委任あるが為の御蔭であつて、自分自身固有の力に依てでは無い。市民こそは真の主人である事言ふ迄もないのである。市民の監視、市民の了解、市民の承認、市民の協力後援、是が凡百の問題に働いて茲に初めて自治政府の成功がある。

政治に求められること

 ここでめざされた政治は、「人が善い道を歩み善い水を飲み善い教育を受けるために、サービスを尽くすことが、それが政治である。」(「地方議会と婦人」1931年)という世界でした。このような政治の実現には、civicsの担い手として、公民たる市民の責務が問われます。普通選挙における「一票の力」はその実現に向けた第一歩になるものにほかなりません。「一票の力」は「国民の公事に対する熱意関心」そのものが問われることです。そこには「どんな善政の姿を取つても、それが民衆の意思と連絡のない時は、長きに亘つて正しい政治は行はれるものではない」という確信がありました。

もっと大切なのは、国民が公事に対する熱意関心である。(略)「公事に対する関心」には、上下の関係の外に、横への繋りがあるのを忘れてはならない。それは国民として、市民として、お互ひの公共生活を共同処理しやうとする一面である。これが欠けるなら、市町村の自治などは全然成り立たなくなる。

 前田は、「上下の関係」がもたらす「公事」への「熱意関心」のみが強調されていた時代のなかで、「横への繋り」がもたらす社会性を問いかけ、お互いが共同生活を共同処理することの自覚をうながしたのです。昭和初頭から、公民の在り方が地方自治の要にあるとなし、普通選挙を実のあるものにするためにも、衆愚なる民衆が賢い統治の支配者になるためには、社会的価値判断力を身につけた秩序形成能力のある公民たるべく、civicsを身に付けなければならないと説き、そのための実践をしました。まさに政治は、垂直的な上下の関係で成り立つのではなく、横への連帯、社会的広がりで営まれるものにほかなりません。いわばここに提示された公民像は、臣民という概念とは異なるもので、横の目線、横の連帯を広げながら、新たに下から政治を変えていく、下から変えていくためには地方から変わらなければならないし、地方自治は公民が担うことで変えられるものだと説き聞かせたのです。