学び!と歴史

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落書の世界 ―正元二年院落書が問いかけた世界― 1
2016.09.23
学び!と歴史 <Vol.103>
落書の世界 ―正元二年院落書が問いかけた世界― 1
大濱 徹也(おおはま・てつや)

 時代の転換期は、権力の恣意的運用を批判した落書によって、社会の澱みを読みとることができます。これらの落書には、当代の人心と智慧が結集しており、時代の闇が的確に抉り出されたものが多くみられます。その意味では、メール等の発達で、多様な情報網が独り歩きしている現在、密かに怨念を託して生まれる落書のような世界が飛散したのかもしれません。否、無記名なメールを拡散することで、気になる存在を貶め、抹殺していくことに何等の痛痒を感じない社会の到来で、練り上げられた落書という芸術的業(わざ)に己の存在を託す営みが忘失されたといえないでしょうか。このことは、権力の在り方を根元的に問い質し、傷を負わせる落書という作法そのものが多様な情報手段の発展によって粗悪な中傷行為に転落していったことに外なりません。それら言説には、時代を投影した落書の世界にくらべてみれば、時代の闇に蠢く人間の情念を突き詰める眼がうかがえません。そこで落書の世界がみせる闇の深みを、13世紀中頃の正元2年(1260)院落書で読み解くこととします。
 正元元年院落書は、南北朝への讖言ともいえるもので、昨今話題となっている現天皇の生前退位問題にもかかわる話題につながる世界であるかもしれません。まずはいかなる落書かを読むこととします。

年始凶事アリ 国土災難アリ
京中武士アリ 政ニ僻事アリ
朝議偏頗アリ 諸国饑饉アリ
天子二言アリ 院中念仏アリ
当世両院アリ ソヽロニ御幸アリ
女院常御産アリ 社頭回禄アリ
内裏焼亡アリ 河原白骨アリ
安嘉門白拍子アリ 持明院牛アリ
将軍親王アリ 諸門跡宮アリ
摂政二心アリ 前摂政追従アリ
左府官運アリ 右府ニ果報アリ
内府ニシヽアリ 花山ニ出家ノ後悔アリ
四条権威アマリアリ 按察使(あぜち)ニカシラアリ
大弁ニ院宣定アリ 除目僧事(じもくそうじ)ニ非拠アリ
嵯峨殿ニハケ物アリ 祇園神輿アリ
五条殿ニ天狗アリ 園城寺ニ戒壇アリ
山訴訟ニ道理アリ 寺法師ニ方人(かたうど)アリ
前座主冥加アリ 当座治山ニ勝事(しようじ)アリ
高橋宮ニ嘉寿アリ 綾小路ニシソクアリ
大僧正ニ月蝕(がつしよく)アリ 正僧正察会アリ
円満院乱僧アリ 桜井ニ酒宴アリ
聖護院ニ穏便アリ 東寺ニ行遍アリ
南都ニ専修アリ 大乗院馬アリ
学生ニ宗源俊範アリ 武家過差(かさ)アリ
聖運ステニスヱニアリ
 正元二年庚申正月十七日院御所落書云々

 この落書は正元2年正月17日に後嵯峨上皇の仙洞御所に記されていたものです。冒頭の「年始凶事アリ 国土災難アリ 京中武士アリ 政ニ僻事アリ 朝議偏頗アリ 諸国饑饉アリ」は、園城寺が正嘉元年(1257)に戒壇設立の勅許を求めたことにはじまる園城寺と延暦寺の争いを諷刺し、迷走する朝廷の姿を批判したものです。朝廷は、幕府が正元元年に延暦寺を威圧するために数100名の武士を鎌倉から上洛させた力を背景に、2年正月4日に園城寺が戒壇設立の代案として出していた三摩耶戒を許可する官宣旨を園城寺に与えました。ここに延暦寺は、翌々6日に日吉・祇園・北野社の神與を擁して入洛、放置して去るという嗷訴をします。朝廷がこの嗷訴に怯えて勅許を取り消した事件を述べたものです。この落書は、「政ニ僻事アリ 朝議偏頗アリ」「天子二言アリ」「園城寺ニ戒壇アリ 山訴訟ニ道理アリ」と状況をみなしていることよりみて、叡山側、延暦寺に味方する立場から認められたものといえましょう。
 かつ時代は、「国土災難アリ」「諸国饑饉アリ」「河原白骨アリ」と描かれていますように、正嘉2年8月諸国暴風雨による田畠の被害甚大で、10月に鎌倉が豪雨洪水となり、翌年春より飢饉・疫病が諸国に蔓延、死骸が河原に充ち溢れる惨状を呈し(正嘉の大飢饉)、3月26日に正元と改元したものの、この年も翌正元2年も諸国の飢饉は続きました。そこで正元2年4月13日を文応に改元します。このうち続く災害飢饉は、「社頭回禄アリ 内裏焼亡アリ」と火災の頻発にもかかわらず、朝廷の恣意的統治がもたらしたとものとみなし、その怒りを院と天皇の在り方を論難する落書を認めて院に掲示せしめたのです。
 思うに自然災害は時代へのある警告を秘めた声です。日蓮は、かかる危機の時代に向き合うことで改元された文応元年(1260)7月に「立正安国論」を執権時頼に上書します。この「落書」は、まさに日蓮の声に呼応するもので、一つの時代転換期を体現したものといえましょう。そこにみられる「当世両院アリ」と指弾された世界は、統治の正統性をゆるがせ、皇位をめぐる確執がもたらす騒乱の世への讖言ほかなりません。

 

参考文献

  • 『中世政治社会思想』下 日本思想大系22 岩波書店 1981年