学び!と歴史

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落書の世界 ―二条河原落書が問いかけた世界― 2
2016.11.02
学び!と歴史 <Vol.104>
落書の世界 ―二条河原落書が問いかけた世界― 2
大濱 徹也(おおはま・てつや)

承前

 後嵯峨天皇の眼には、「天子二言アリ 院中念仏アリ 当世両院アリ ソヽロニ御幸アリ」と、民の営みなど眼中にありませんでした。正元元年(1259)11月には、後嵯峨上皇が後深草天皇の皇位を弟恒仁親王に譲位させ、亀山天皇となり、上皇が後嵯峨、後深草の2人となりましたが、後嵯峨が父権によって権力をにぎっていました。この後嵯峨上皇は、熊野・八幡・賀茂・高野等への御幸が繰り返しており、亀山は皇位を後深草に返さず、己の子を皇位につけ(後宇多天皇)、後深草と対立、幕府の介入で皇位を後深草の持明院統と・亀山の大覚寺統の交互にするという迭立の方式となりました。ここに皇統が二流となり、この方式が後醍醐による「建武中興」で破綻、南北朝争乱となります。その意味では、この「院落書」にみられる「当世両院アリ」は南北朝の争乱への讖言にほかなりません。

後嵯峨(1242年)から後醍醐へ

 後嵯峨から後醍醐への皇統の流れは右図のようなものです。このような迭立の時代は、前号で紹介しましたように鎌倉大地震、諸国暴風雨、飢饉疫病流行、諸国飢饉の時代であり、戒壇設立をめぐる山門、寺門の抗争が渦巻いておりました。幕の御家人体制は、大陸に成立した元の脅威にさらされ、文永・弘安の役となり、「悪党」といわれた非御家人台頭し、亀裂がはじまってきます。日蓮は、こうした時代が迎える危機を説き、文応元年(1960)に『立正安国論』で世に警告、流罪に処せられます。両統迭立という方策は、御家人体制が揺らぐなかで、鎌倉幕府が朝廷を懐柔操作する方策として活用されたのです。後醍醐の登場は、北条執権体制を担う得宗執権体制に異をいだく御家人にくさびを打ち込み、畿内西国の非御家人を結集する場を提供し、鎌倉幕府を亡ぼすこととなります。この変革は、天皇親政に道を開いたとして、「皇国」日本の「国史」上で「建武中興」なる名称で説かれることとなります。

建武新政の虚実―二条河原落書(建武年間記)は何を問いかけているか

口遊。去年八月二条河原落書云々。元年歟。
此比都ニハヤル物。夜討強盗謀綸旨。
召人早馬虚騒動。生頸還俗自由出家。
俄大名迷者。安堵恩賞虚軍。
本領ハナルヽ訴訟人。文書入タル細葛。
追従讒人禅律僧。下克上スル成出者。
器用ノ堪否沙汰モナク。モルヽ人ナキ决断所。
キツケヌ冠上ノキヌ。持モナラハヌ笏持テ。
内裏マジハリ珍シヤ。賢者ガホナル伝奏ハ。
我モ々々トミユレドモ。巧ナリケル詐ハ。
ヲロカナルニヤヲレルラン。為中美物ニアキミチテ。
マナ板烏帽子ユガメツヽ。気色メキタル京侍。
タソガレ時ニ成タレバ。ウカレテアリク色好。
イクソバクゾヤ数不知。内裏ヲガミト名付タル。
人ノ妻鞆ノウカレメハ。ヨソノミルメモ心地アシ。
尾羽ヲレユガムヱセ小鷹。手ゴトニ誰モスエタレド。
鳥トル事ハ更ニナシ。鉛作ノオホ刀ガタナ。
太刀ヨリ大ニコシラヘテ。前サガリニゾ指ホラス。
バサラ扇ノ五骨。ヒロコシヤセ馬薄小袖。
日銭ノ質ノ古具足。関東武士ノカゴ出仕。
下衆上臈ノキハモナク。大口ニキル美精好。
鎧直垂猶不捨。弓モ引エズ犬逐物。
落馬矢数ニマサリタリ。誰ヲ師匠トナケレドモ。
遍ハヤル小笠懸。事新キ風情ナク。
京鎌倉ヲコキマゼデ。一座ソロバヌヱセ連哥。
在々所々ノ歌連歌。点者ニナラヌ人ゾナキ。
譜第非成ノ差別ナク。自由狼藉世界也。
犬田楽ハ関東ノ。ホロブル物ト云ナガラ。
田楽ハナヲハヤルナリ。茶香十炷ノ寄合モ。
鎌倉釣ニ有鹿ト。都ハイトヾ倍増ス。
ゴトニ立篝屋ハ。荒涼五間板三枚。
幕引マハス役所鞆。其数シラズ満ニタリ。
諸人ノ敷地不定。半作ノ家是多シ。
去年火災ノ空地共。クワ福ニコソナリニケレ。
適ノコル家々ハ。点定セラレテ置去ヌ。
非職ノ兵杖ハヤリツヽ。路次ノ礼儀辻々ハナシ。
花山桃林サビシクテ。牛馬華洛ニ遍満ス。
四夷ヲシヅメシ鎌倉ノ。右大将家ノ掟ヨリ。
只品有シ武士モミナ。ナメンダウニゾ今ハナル。
朝ニ牛馬ヲ飼ナガラ。タニ変アル功臣ハ。
左右ニオヨバヌ事ゾカシ。サセル忠功ナケレドモ。
過分ノ昇進スルモアリ。定テ損ゾアルヲント。
仰デ信ヲトルバカリ。天下一統メヅヲシヤ。
御代ニ生デテサマ々々ノ。事ヲミキクゾ不思義トモ。
京童ノロズサミ。十分一ヲモラスナリ。

 この有名な落書は教科書の定番です。「建武」の世とは下記の年表に読み解くことができます。時代の人心は、政治の動乱に天変地異を重ね想いみたとき、はじめと歴史として把握できます。歴史は想起し創造することで描ける世界です。この想いを秘め、一人の歴史家として、年表が問いかけている時空間の世界を旅してみませんか。なお、落書が掲示された場所は、後醍醐天皇の政庁が所在した二条富小路に近い二条河原で、無縁地で公権力が介入できない公界の場でした。

1325年(正中2)10月 正中地震 M6.5‐7
1331年(元弘元)7月 元弘地震 3日紀伊 7日東海 M7以上(東海地震か)
1333年(正慶2、元弘3)閏2月 後醍醐天皇、隠岐脱出 5月 六波羅、鎌倉陥落 6月 後醍醐天皇、京都に還る 8月 足利高氏に尊氏を賜う
1334年(建武元)5月 記録所、雑訴決断所、武者所の設置 8月 二条河原落書
1335年7月 中先代の乱、護良親王歿 11月 尊氏、鎌倉で叛 12月 赤松則村の叛
1336年(延元元、建武3)5月 楠木正成、湊川で敗死 6月 尊氏、光厳院を奉じて入京 11月 尊氏、建武式目17条制定 12月 後醍醐天皇、吉野潜行(南北両朝分裂)
●卜部兼好「徒然草」
1337年12月 北畠顕家、鎌倉攻略
1338年(延元3、歴応元)5月 顕家、和泉石津で敗死 7月 新田義貞、越前で敗死 8月 尊氏、征夷大将軍
1339年8月 後醍醐天皇歿(52)、秋、北畠親房「神皇正統記」
1342年(興国3、康永元)4月 五山十刹の制
1353年(正平8、文和2)8月 尊氏、後光厳院を奉じて入京
1354年4月 北畠親房歿(62) 12月 直冬が京都侵攻、尊氏、光厳院と近江へ逃れる
1358年(正平13、延文3)4月 足利尊氏(54)歿

内憂外患の世

 室町の世は、幕府にみる主従制的支配原理も天皇による統治権的支配原理も揺れ動くなかで、列島をささえてきた秩序のありかたに亀裂が奔って行く時代です。まさに時代は、年表に列記された時代相にみられますように、自然災害によって大きくゆるがされ、大転換の時に曝されていきます。

1360年(正平15)10月 紀伊摂津(東南海地震か)M7.5-8 死者多数、津波
1361年6月 正平地震 M8-8.5 死者多数、摂津・阿波・土佐で津波被害大
1407年(応永14)12月 応永地震 京都M7-8 紀伊・伊勢で地震、熊野本宮の温泉停止
1408年5月 義満歿(51)11月 諸国関所の制
1413年8月 段銭・棟別銭を諸国に課す
1418年 近江大津の馬借、京都に侵攻
1419年 朝鮮の兵、対馬襲来(応永の外寇) 京都・関東に地震・風水害
1420年 全国各地、凶作飢饉
1421年1月 倭寇、明辺境を侵攻。●飢饉・疫病流行
1427年5月 京都大水害
1428年(正長元)8月 畿内近国で土民蜂起、徳政要求(正長の土一揆)「亡国の基」
1429年(永享元)1月 播磨国に土一揆
1433年(永享5)9月 相模地震 M7以上 死者多数、津波で利根川逆流
1449年(文安6)4月 山城・大和地震 M6.5 死者多数
1454年(亨徳3)11月 亨徳地震 会津強震、奥州海岸の大津波 12月 鎌倉で大地震
1474-75年(文明6)冬 京都大地震
1467年(応仁元)10月 細川勝元(東軍)・山名持豊(西軍)激戦(―77年11月)
1495年(明応4)8月 津波で鎌倉大仏破壊
1498年(明応7)6月 日向地震 M7.5 死者多数、畿内でも地震(南海地震か) 8月 明応地震 M8.2-8.4 使者3―4万人以上 伊勢・駿河津波被害大、浜名湖が海に繋がる
1502年(文亀元)12月 越後地震 M6.5-7.0 死者多数

 応仁の乱は、南北朝の抗争にはじまる列島の歴史構造にくさびを打ち込み、新しい秩序の誕生へと向かわせます。おもうに皇統の在り方、その統治権的支配原理の混迷は、日本の統治構造をめぐる歴史に大きな翳をおとしており、現在の「象徴」なる言説にみられる日本の支配原理をも揺るがす要因を秘めていることに想いをいたしたいものです。