学び!と道徳

学び!と道徳

アクティブ・ラーニング、それは「議論する」道徳授業!?
2016.11.04
学び!と道徳 <Vol.03>
アクティブ・ラーニング、それは「議論する」道徳授業!?
大原 龍一(おおはら・りゅういち)

 「学び!と道徳」第3号をお送りいたします。
 先月号で紹介いたしました松山市での「全国小学校道徳教育研究大会」(全小道研全国大会)では、会場校の一つであります「松山市立潮見小学校」で「道徳の時間」における定番資料「手品師」を扱った授業が公開されます。
 有名な資料(教材)なので何度か授業を拝見する機会に恵まれますが、難しいので授業者もそれなりに苦労されているようです。私も何度か挑戦してきましたが、なかなか「うまくいった!」という感触を得るには至りません。授業をするたびに悩んでしまいます。
 先日もこの資料を扱った授業研究会にお邪魔しました。びっくりしたのは、資料を途中で切ってしまったことです。授業者は「分割(中には、分断という人もいる)」と言っていましたが、「まだこんなことやっているんだ!」というのが私の率直な感想でした。(「まだ」と言ったのは以前このような授業が盛んに行われていました。しかし、最近もこのような授業事例が再び見られるようになり、「またか!」というニュアンスかもしれません)

1.資料(教材)を途中で「切って」しまうこと

 先の「手品師」の授業では、手品師が「大劇場に出演しないか?」との友達の電話に迷ってしまう場面でいったん資料提示を終えてしまいます。そして、「もし、みなさんがこの手品師だったらどうしますか」と発問するのです。なぜそのようなことをするのか尋ねたところ、結論がわかっていないので話し合いが活発になり、道徳の授業が活性化するからだと言われました。確かに、「大劇場に出る」「男の子との約束を守る」と二手に分かれて子どもたちは盛んに話し合っていました。しかし、結論の一致点は当然見られません。
 議論が一段落したところ、なんと授業者は「この問題(状況)を解決するにはどうしたらよいでしょう。また、その理由を考えましょう」という中心発問を発しました。いわゆる、問題解決的授業の実践だそうです。「どうしたらよいでしょう?」と問われたものですから、子どもたちは具体的な解決方法を必死に考え始めます。「どのようにするか」といった方法論に陥った議論が始まります。男の子に連絡を取って謝る、後日その子を呼んで手品を披露する、その子を見つけ出して一緒に大劇場に連れていくなど様々な解決方法を発表していました。さんざん議論した後、教材の後半部分を提示します。
 「なあんだ、結局大劇場にはいかなかったんだ」「その方(大劇場に行かない)が道徳的だもんな」「本当は行きたかったんじゃない?」 という子どもたちの声が聞かれます。そして、先生は「それでは、たった一人の男の子の前で手品を演じている手品師に手紙を書きましょう」と展開後段の学習活動を促します。
 はっきり言って、これって道徳の授業?と思います。ねらいとする道徳的価値は「誠実」であったはずです。先生の授業運び自体が誠実ではありません。なぜならば、二手に分かれてさんざん子どもたちに議論させておいて、あらかじめ分かっている結論を後から提示するのですから。「正しいのはこれだよ」というように。相手にも自分にも「誠実でありたい」というこの授業のねらいはどうなってしまうのでしょう。
 一つ気になること。話の顛末を隠すことによって活発に話し合いをさせたいと教師は願っていますが、子どもたちは教室備え付けの道徳副読本を結構読んでいるものです。特に、お話し好きの子どもはしょっちゅう読んでいます。「この後こうなるよ」と話している声も聞きます。本当の意味で全員の子どもたちが初めて資料に出会うとは言い切れない現状もあるということです。
 さらにもう一つ気になること。「もし、みなさんがこの手品師だったら」の発問です。「もし~~だったら」という仮定において、子どもたちは本当に手品師の状況に立てるものでしょうか。私は立てないと考えます。立てないのに立ったことにして考えさせ、それを発表し、みんなで話し合わせることに疑問を感じます。自分の身に火の粉が降りかからないことを重々承知の上で危機的状況における身の処し方を問うていることと同じです。それよりもその場面における登場人物の気持ちについてじっくりと語り合うほうがよっぽど道徳の時間としての価値があると考えます。

2.編集の段階で資料(教材)が切られている!

 ある日、これも使用頻度の高い「ロレンゾの友達」という資料を調べていたときです。恥ずかしながら、私はこの資料で授業をやった経験がなかったのでよく知りませんでした。ある会社の副読本に掲載されているものを読んでみると、何となく尻切れトンボです。途中で話が切れています。「変だな」と思って他の会社の資料を調べてみると、なんとほぼ半分のところで切れています。後半が全く掲載されていないのです。「これで作者はよく了解したなあ!」と思います。改めて送られてきた学習指導案を見ました。一言で言うと国語科の「話し合い」の授業です。厳密に言ったら国語科としての授業でもないかもしれませんが。しかし、明らかに道徳の授業ではありません。「困ったな」と思っていろいろと実践事例を検索してみると、ほぼ同じような学習展開(道徳の授業になりえない)です。副読本の指導書を見ても同様です。そして、この資料が活用されている頻度が高いということ、道徳の授業になりえない学習展開が全国で展開されていることを知り、改めてびっくりしました。
 罪を犯したとされるロレンゾが故郷に帰ってくるにあたり三人の友達は再会を楽しみにする一方、どのように友に対応するか悩んでしまう。かしの木の下でそれぞれの主張は述べるが結論は出ない。結局その話は間違いだったということになり、旧知の四人はあらん限りの力で抱きしめ合い友情を確かめ合う。しかし、その帰り道、三人の友達はかしの木の下で話し合ったことは口にしなかった。
 前出の副読本では、三人の主張が述べられているところで終わってしまいます。そして、「みなさんは、どの登場人物の考えと同じですか? また、そのわけを考えましょう」と問います。「もし、みなさんだったらどの人の立場をとりますか?」と発問した授業も見たことがあります。そして、ネームカードなどを張りながらそれぞれの立場や考えを述べ合います。いわゆる、議論し合います。活発に議論します。授業者は満足気です。いい加減議論がなされたところで、「考えが変わった人はネームカードを張り替えましょう」と促し、張り替えた子どもにどうして変えたのかその理由を述べさせます。その理由を他の子どもたちと共有します。最後に「本当の友達とは、どのような友達を言うのだろう?」と問いかけワークシートにまとめさせます。やはり、国語科の「話し合い」の授業としか思えません。
 確かに、子どもたちは「友情・信頼」についてよく考え議論し合います。ワークシートにもよくまとめます。しかし、「自己の生き方についての考えを深める」授業になっていたかと問われるとなっていません。「批評、評論し、頭の中で概念を子どもなりにまとめた」という授業になってしまわないか不安です。私は、最後の「三人とも口にしなかった」が中心発問になると思いますが・・・・。