学び!と歴史

学び!と歴史

新渡戸稲造が問いかけている世界
2012.12.28
学び!と歴史 <Vol.59>
新渡戸稲造が問いかけている世界
垂直的な思考をする目で読む
大濱 徹也(おおはま・てつや)
新渡戸稲造<国立国会図書館蔵>

新渡戸稲造<国立国会図書館ホームページより転載>

 今年は、明治天皇没後100年ということもあり、乃木希典殉死と重ね、明治という時代に想いをはせ、日本という国の容(かたち)を考え、この国の在り方を問い質そうとの言説が多くみられました。このような周年行事に託しての企画は、歴史を想起することで、現在(いま)ある私の場を確かめ、明日を生き抜く糧を手にしようとの試みにほかなりません。そのような想いで時空を旅してみたとき、今年2012年は新渡戸稲造生誕の1862年(文久2)から150年にあたります。その記念行事は、新渡戸ゆかりの地で行われたようで、「太平洋にかける橋」たろうとした新渡戸の志がその「武士道」に重ねて想起されたなかにうかがえます。新渡戸という存在は、このようにして語られてきた世界にあるのでしょうか。
 新渡戸稲造という存在の大きさは、日露戦争後の日本にとり、世界の「一等国」、大日本となったと思いあがっている日本の青年に如何に生きるかを問いかけ、第一高等中学校の選ばれた青年のみならず、実業青年に己の生きて在る場をみつめることから、明日への想いを問いかけたことです。その問いかけは、大日本にふさわしい国民に求められる品格、人間としてどのように生きるかを、相手に応じて語りかけたなかにうかがえます。

「修養」に託した思い

 新渡戸は、第一高等中学校校長でありながら、雑誌『実業之日本』に「修養」を連載したがため、学の内外から批判されました。この「修養」談は、江湖の青年、上級学校への進学を断念して実業に就かざるをえない青年の心を激しく揺さぶり、発奮せしめました。実業青年は、新渡戸が説く人生談に、生きて在る己の場を確かめさせる声を聞いたのです。
 この連載は、明治44年8月に一書となり、年内で14版を重ね、大正2年末までに28版、大正3年に縮刷版となり4年末に46版、5年3月に48版が刊行されるという大ベストセラーとなります。縮刷版は、天金装丁で、縦長の聖書のような装丁となっています。まさに『修養』は、人生の生き方を説いた実用書である以上に、「若し本書にして、一人にても二人にても、迷うものの為に指導者となり、落胆せんとする者に力を添え、泣くものの涙を拭い、不満の者の心をなだめ得るなら、これぞ著者望外の幸」と「序」に認めていますように、己の心を見つめる世界が語りかけた精神の書でありました。
 序で「修養とは何を意味する」かを問い、「修養とは修身養心ということ」、「身と心との健全なる発達を図るのが其目的」で、難しく考えるのではなく、「平凡な務」こそが大切で、「人はややもすれば、職業だとか或は言語だとかを見て、非凡と平凡とを区別するが、併し実際は平生の心掛と品性とを標準として決するが至当」となし、平生からの心掛けと品性の大切なことを説いています。この言は、向上心をもちながらも日々の仕事に追われる青年にとり、己の仕事を勤めることで世界が開けてくるとの思いをいだかせたのです。
 私が出会った日露戦争後世代の老人は、新渡戸の「修養」を読むことで、どれほど世の中が明るくなり、仕事をすることに希望をもてたかを目を輝かして話してくれました。このような新渡戸の魅力、その根にある世界とは何でしょうか。昨今、「品格」を語り、「国家の品格」なる言説が氾濫しているようです。それだけに新渡戸が問いかけた世界にある根に目を向けたく思います。新渡戸は、修養を問い語ることで、青年が世に出る、己の志を立てる、理想に向かって生きる上で何が大切かにつき、「人間は縦の空気をも呼吸せよ」と、説き聞かせています。

社会に生きる人間に何が問われているか

 新渡戸は、社会で生きていく上で、人間同士の横の関係だけではなく、人間以上のあるものとの垂直の関係に目を向け、「人間は縦の空気をも呼吸せよ」と説いてやみません。ここには社会関係を読み解く目が提示されています。

人生は社会のホリゾンタル(水平線)的関係のみにて活るものでないことを考えたい。ホリゾンタル―多数凡衆の社会的関係を組織して居るその水平線―に立つて居れば、多数の間に其頭角を抜き、其名利を恣にし、又指導することも出来るであろうが、併し一歩を進めて人は人間と人間とのみならず、人間以上のものと関係がる、ヴァーチカル―垂直線的に関係のあることを自覚したい。我々はただに横の空気を呼吸するのみで、活きるものでなく、縦の空気をも吸うものであることを知って貰いたいのである。人間と人間との関係以上というと、何だか耶蘇教の神らしいことになる、併し僕は必らずしも神と限るのではない。仏教の世尊でも、阿弥陀でもよい、神道の八百万の神でも差しつかえない。僕は何の宗教ということを、ここで彼れ是れいうことを好まぬ。只人間以上のあるものがある。そのあるものと関係を結ぶことを考えれば、それで可いのである。此縦の関係を結び得た人にして、始めて根本的に自己の方針を定めることが出来る。

 この問いかけは、横の人間関係に翻弄されて己の場を見失うのではなく、人間ならざる大いなる者に目を向けることで、社会を相対化し、己の場を確認することこそ明日への活力となるとのメッセージにほかなりません。ここには、水平的思考ではなく、垂直的思考こそが社会を読み切る目に問われていることを示唆しております。
 新渡戸が修養談に託して説いた世界は、日露戦争後の「大国」日本で水平的な横の関係で他者との距離をはかり、己を位置づけ、優勝劣敗に心騒がせる在り方への鋭い批判でありました。しかし日本社会は、垂直型の思惟への目を身につけることなく、他国、他者を秤として己の位置を確かめ、己を失ってきたのではないでしょうか。新渡戸稲造生誕150年にあたり、明治末年の日本に問いかけたメッセージに耳を傾け、垂直的な目、見えざるものの声に耳を傾けたいものです。


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『修養』
新渡戸稲造
2002年 たちばな出版 刊