学び!と歴史

学び!と歴史

晩年の明治天皇
2012.07.26
学び!と歴史 <Vol.57>
晩年の明治天皇
大濱 徹也(おおはま・てつや)

明治天皇没後100年ということ

明治天皇『天皇四代の肖像』(毎日新聞社)より

明治天皇『天皇四代の肖像』(毎日新聞社)より

 今年2012年は、712年に太安万侶が編集した古事記が献上されてより1300年、1872年の湊川神社創立より140年、1912年の明治天皇崩御より100年、1972年の沖縄返還より40年という年にあたります。神社界では、古事記1300年、明治天皇崩御100年を記念することで、日本の国のかたちに想いをはせ、いかなる国家をめざすべきかを問うています。ここに楠正成を祀る湊川神社140年を重ねれば、国家創成の物語に維新復古革命をうながした精神的道統をふまえた明治天皇の国造り在り方が読みとれましょう。かつ、沖縄返還40年は、基地沖縄を己のこととして見つめるか否かで、どのような国家を思い描くかが異なってきましょう。それだけに、このような節目の年に日本とは何かを考えたいものです。
 しかし日本という国はいかなるかたちなのかが問い質されないまま現在があるがゆえに、現在何をなすかが見えておりません。ここに戦後日本の混迷があり、明日の日本を思い描かない苛立ちのみを募らせているのではないでしょうか。かといって古事記が提示した世界に「美しい日本」の原像を求め、明治日本の国造りに範を求めていけばよいのでしょうか。否、国のかたちが視えない現在ほど己の眼で歴史を問い質すことが問われているのではないでしょうか。そこで明治日本を造型した明治天皇という存在に接近するために、その日常の営みを窺うこととします。
 明治天皇に統治された近代日本という国のかたちは、天皇の強き個性に彩られ、その言動が「臣民」と位置づけられた国民の規範となっておりました。しかし生身の天皇の姿は、時代とともに神秘の帷帳の覆い隠され、神格化されていきます。その死は、教育勅語不敬事件で日本国中に身を置く場を失った内村鑑三ですら、「天皇陛下の崩御は哀悼に耐へません、自分の父を喪ひし如くに感じます、明治時代は其終りに来りつつあります、昼と呼ばれる中に働かうではありませんか」「天地が覆へりしやうに感じます」と認めているように、悲痛な思いを国民にあたえております。この天皇は、死を眼前にし、いかなる相貌を呈していたのでしょうか。

天皇の老い

 明治天皇の侍従であった日野西資搏は、明治天皇紀編纂のために応じた談話で、日常身近に接した天皇の日常を問い語っています(『明治天皇の御日常―臨時帝室編集局に於ける談話速記―』)。日露戦争後の天皇は、伊藤博文が暗殺されたこともあり、心身の衰弱が進んだようです。

全体日露戦争後、伊藤公の遭難がございました。その時には特に御力落しでございましたが、その事がありまして御段が御つきあそばされたやうに御老境に入らせられたかのやうに、御側の者には拝察致したのであります。四十三年の岡山の大演習の時に御統監中、御野立でたびたび御小水に成らせられました。どうも御小水がいつものやうに御快通がございませぬ。それにもかかはらず三十分経つか経たぬかに御小水に御出であそばしたい御気味があつても御出にならなかつたのであると思ふ。
また大本営還御後も、非常に御疲れの御様子でございまして、いつもでございますればそのまま御椅子にでも御掛けになるのでありますが、その時は直ぐに御召更所(めしかえじょ)へならせられまして、なかなか御出ましにならぬ。御独りで御坐りになつて御膝や御腰を撫でて御ゐでになる、といふことがたびたびございまして(略)
その時分から、御表では決して仰しやいませぬが、御奥では「どうもわしが死んだら世の中はどうなるであらう。もうわしは死にたい」といふことを能く御沙汰になつた。

 ここには老いにさらされた老人の姿がうかがえます。天皇は医者嫌いで、皇太子(大正天皇)の生母である二位の局柳原愛子が「皇太子殿下も洵に御病弱の御身体であるし、もし玉体に万一のことがありましては、日本国中の者が非常に心配を致しますから」と、医者の診断を受け、養生をされるように「直諫」すると、「御腹立ちで、脇へ往つておしまひになる」有様であったという。そこで、忠臣蔵の「大石良雄が主人に薬を勧める蓄音器の譜、そういふものを上げまして、それとなく薬でも召上るやうにと」と、さまざまな苦心を重ねた由。天皇は、風邪にかかれば、「生姜の砂糖湯とか橙湯(だいだいゆ)」ですませたという。ここには、大元帥陛下として軍服をまとった天皇像の底に、西洋医学を嫌悪する夷狄感がひそんでいることをうかがわせます。しかし嗜好品では、シャンペンやベルモット等々を愛飲していたとのこと。

酒の好み

 天皇は、甘いものに目がなく、「牡丹餅で酒を飲むやうな者でなければ本当の酒飲みではない」と話していたように、大の酒好きでした。

日本酒・葡萄酒・「シャンペン」・「ベルモツト」、あるひは保命酒・霰酒のようなものが御好きで、保命酒・霰酒は奈良・岡山に出張しまする時には特に御沙汰で御買上げになる。そうしてそれは御自身の御手近に御置きになつて時々ちよいちよい召上る。平素は主に葡萄酒ばかりでございました。日本酒も召上ることがありますが、雉酒とか鶏酒とか鴨酒とかいふやうな、日本酒にその肉を入れて御吸物のやうにしてさし上げますので、御盃で日本酒を召上るやうなことは、何か御祝ででもないとめつたになかつた(略)ともかくも御酒は御好きでございましたから、注いでさし上げれば、それこそ何杯でも召上る(略)「シャンペン」が最も御好きでございまして、ある時などは、二本も召上つたことも

 このために「御足を御取られになる」ので、なるべくシャンペンは差し控えた由。また、「お酒を少し召上りますと、ちよつと御話が縺れて」「御口が少し横に歪みます。そうなると少し召上り過ぎたのであります」と。なお、黒田清隆のような、「臣下の中で先に酔い潰れる者」が出ると、天皇は警戒して酔わなかったと。「御上の方が先に御酔ひなるとちよつと始末に困」つたとのこと。この風景は、天皇と臣下の交わりというより、昨今でも宴会でみられる上司と部下の関係ではないでしょうか。天皇制といわれる日本の君主制をこのような日常卑近な世界から読みなをしていくことで、骨の髄までからめとられた天皇制の呪縛を解き放す作業をこころみ、己の眼で日本という国のかたちをたしかめたいものです。


参考文献

  • 大濱徹也『天皇と日本の近代』(同成社 2010年)