学び!と歴史

学び!と歴史

新しい大地で生きるということ
2012.06.18
学び!と歴史 <Vol.56>
新しい大地で生きるということ
-協同性の場とは何か-
大濱 徹也(おおはま・てつや)

 東日本大震災で海岸地域から高台への移転を余儀なくされた人々には、生活再生に向けての経済的問題のみならず、移住者の協同一致を生み育てる精神的活力を引き出せる場をいかに構築しうるかが問われているのではないでしょうか。そこで維新革命で誕生した新国家が営んだ最大の国家事業である北海道開拓では、日本列島の各地から移住入植した人々にとり、何が問題であったかを検証してみることとします。そこには、安積開拓における開成山大神宮の設立を官が主導したのと異なり、新しい天地で生きようとする入植移住者が己の場を求めた営みがありました。それは日本人の原初的な心の軌跡ともいえるものです。このような心の営みをみつめることなく、大震災で生きる場を失った人々が協同性の場を取もどし、生きて在る場を確立することは困難なのではないでしょうか。

移住者の想い

 北海道への移住者を勧誘する移民募集の担当者がその困難さを次のように証言しています。この証言は、北海道開拓地で奉仕している田舎神主が北海道神職会の会議でその見聞を報告したものですが、故地を捨てた移住者にとり、新天地での協同一致を育む器の有無が大きな関心ごとであったことをうかがわせます。

移民募集員と称する人と汽車に同乗せることありて、移民募集の易々たる事業にあらざることを聞けるが、中に第一神社のなき土地又は其設立準備なきけ所には応募困難なることを力説致し居り候、中秋の候新開の山間僻地を通過する際、粗造の草屋点々たる一方に普通民家に用ゐる神棚などを木の切株に安置し、割合大なる黒木に鳥居を建て老幼男女四十人或は五六十人芝生に団欒し嬉々として宴飲放歌し或は競馬角力等の催をなすを数次実見せる事候き、やがて両三年を経過して視ればこの神棚の一小祠宇となり、この点々たる草屋の普通住宅と改る頃にはこの一小祠宇は更に殿堂となり、然して附近の天然林は伐採せられて只この社地に於てのみ蓊鬱たる浄地を残し、やがてこの部落の公園と成り申候、これらの実例は山手方面皆皆然る事に候、遠く古国を離し猛獣怪鳥の声より外に音なき山間に入りて開拓に従事するもの、如何にしても我運命を依託するものなくてはこれあるまじく候、殊に終日耕耘にのみ従事するもの一定の慰安日を要求するは人間の通有性に候、前者は即ち無願神社となり後者は即ち祭典と相成る事に候、然してこの切株神社の無願神社は移住民に安定を与へ其祭典は一致協力の機会を授け拓殖上軽々に付すべからざる神徳を認めらるるのみならず自然其の敬神崇祖の観念を涵養する枢機に触れつつある事と信じ候

切株神社の世界

多寄神社

 開拓移住者は、入植した原生林を開き、火をかけ、腰丈の根が残された大地に種を蒔き、収穫します。収穫後には、残されていた見栄えのする切株(きりかぶ)や棒杭(ぼうぐい)に故地から持参した神棚や母村などの鎮守社から下された神札などを安置し、収穫祭を営みました。この切株・棒杭をめぐる空間は、切株・棒杭神社といわれる聖なる場とみなされ、開拓村の祭りが営まれ、移住者の心の器となっていきます。その場には、時を経て開拓が進むなかで、小祠と鳥居が備えられ、やがて社殿が建立され、神社としての様相がととのえられていきます。いわば移住者は、故国を偲ぶ神祀りを執り行うことで生活の場における「一致協力」を確かめ、明日を生きるための生活をささえるハレの営みをなし、明日への祈りをささげたのです。この作法には日本人の神祀りの原初的形態が読みとれましょう。
 このような神祀りは、移住者が負うてきた歴史を凝縮したもので、その記憶を確かめる営みにほかなりません。そのため移住地の神祀りは移住者の故地に規定されていたため、北海道の神社の祭神には、故地の神が先ず祀られました。ちなみに江別市の野幌神社は、新潟県から団体移住である北越殖民社が「降神之処」神標を建てた棒杭神社にはじまります。秩父別町の集落では京都の伏見稲荷の神霊を大木の切株に安置して祀っています。このようにして成立した神社は、移住者が勝手に祀ったものとみなされ、国家に神社たる願書を届け出て認可された神祠でないがために「無願神祠」と位置づけられ、時とともに国家の厳しい統制を受けることとなります。
 しかし旧藩主が主導した入植移移住地や華族農場では様相が異なっております。旧亘理伊達藩が入植した伊達市は鹿島天足和気神社を、加賀藩士による前田村(現札幌市手稲前田)は藩祖前田利家を祀る前田神社を、長州藩士の大江村(現仁木町大江)は藩祖毛利敬親と毛利の祖大江広元を祀る大江神社を祀り、藩士の結集をはかっております。また華族農場では、松平農場(現鷹栖町)が出雲神社と松江神社を勧請するとともに、出雲松平家の始祖松平直政を祭神とする社を、加藤泰秋子爵の留寿都農場(現留寿都町)が旧領の伊予国大洲藩の久米村八幡神社の分霊で留寿都神社を建立していますように、農場主にゆかりの祭神が祀られたのです。

国家神との相克

 このような開拓地の神祀りは、無願神祠への統制が展開するなかで、雨龍開拓の中心となった蜂須賀農場の国瑞彦(くにたまひこ)神社が村社雨龍神社となっていくように、近隣集落の開拓時の祭祀が統合されていきます。国瑞彦神社は、農場主である蜂須賀家中興の祖蜂須賀家政を祭神となし、国瑞彦神社の分霊を勧請したものです。その創建前に、徳島県阿野村出身の小作人が故地の鎮守二ノ宮八幡宮を祀っていました。また戸田農場では、富山県新川郡内山村の出身者が内山八幡宮を、兵庫県淡路島出身者が三原郡の広田八幡宮を追分八幡神社にしておりました。追分八幡神社は、移住者の「淋しさを慰すべく、又不祥事をさくるため」に、「大木の切株の上に割板をもつて屋根を拵へ小さき祠を設置」した切株神社でした。
 これらの祭祀は、切株・棒杭神社に代表される無願神祠(無願神社)から村社雨龍神社として国家神の末端にとりこまれることで、その存在の場を見出したのです。雨龍神社は、主神を天照大神となし、蜂須賀家政、戸田農場主戸田家中興の祖松平康長、各集落の八幡神を応神天皇として祭神となし、各入植地の祭祀を取り込むことで雨龍の総鎮守たる村社の場を確保できたのです。いわば入植地の切株・棒杭神社は、農場主の祭祀下に組み込まれ、やがて国家神たる天照大神を頂点とする国家の祭祀体系に位置づけられていきます。しかし切株や棒杭に託した民の想いは、国家の祭祀体系を逸脱し、故地の神に連なる世界にありました。
 想うに日本の神信仰は、世に喧伝される「国家神道」なる言説でなく、切株・棒杭的世界にこそ民たる者がよせた精神の器がありました。現在問われているのは、移住者が日々の暮らしの場で心をよせうる器とは何かを、それぞれの記憶に眠る世界をみつめることで手にしていくことではないでしょうか。


参考文献

  • 大濱徹也「大地の祈り」(『年報 新人文学』第4号 2007年12月 北海学園大学大学院文学研究科)
  • 村田文江「開拓村と切株・棒杭神社」(『悠久』第119号 2010年10月 おうふう)