学び!と歴史

学び!と歴史

16世紀という時代 ―開かれた世界への眼―(1)
2017.01.31
学び!と歴史 <Vol.107>
16世紀という時代 ―開かれた世界への眼―(1)
大濱 徹也(おおはま・てつや)

 今年2017年は、ルターがヴィッテンベルグ城教会の扉に「95箇条提題」を掲げてローマ教会の在り方を告発し、宗教改革の狼煙をあげてから500年ということで、プロテスタントの諸教会が「宗教改革500年」の記念行事を各種企画しているようです。ルターが信仰の覚醒を説いた16世紀は、すでに1509年にエラスムスの『愚神礼賛』、1516年にトマス・モアが『ユートピア』を提示しているように、人間の精神が神の帳から解き放たれようとしていた時代の夜明けでした。このことは、日本においても1497年に蓮如が石山本願寺を創建、1501年に細川政元が日蓮・浄土の宗論を行わせたのをはじめ、1506年に北陸で一向一揆が長尾能景を敗死させたように、多様な宗教運動が民衆の心をとらえていく時代でした。
 ルターの告発は、このような時代の空気を揺り動かす精神の糧となることで、時代を震撼させたのです。その波動は、日本に到達し、蓮如に象徴される仏教諸派の信仰運動に連動することで閉ざされた民心を開いていくこととなります。
 イグナテイウス・デ・ロヨラを指導者にフランシスコ・ザビエルらは、ルターの叫びに応じ、ローマの教会―カトリックの信仰覚醒をめざし、1534年にイエズス会を結成、40年にローマ法王より認可され、全世界へ宣教をめざします。かくてザビエルの日本宣教は「キリシタンの時代」ともいわれることとなる16世紀をもたらしたのです。この時代については、すでに、「ルイス・フロイスがみた日本」(Vol.28Vol.29)、「キリシタンの時代」(Vol.68)、「日本、日本人とは」(Vol.69)等々でいくつかの事績を紹介しました。ここにあらためてザビエルの日本への眼差しをみるのは、昨今話題となっているマーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙SILENCE』、遠藤周作の『沈黙』が原作ですが、の問いかけている世界とは何かを現在の場から考えてみたいと想ったがためです。

ザビエルの旅

 ザビエルは、1506年4月7日にナバラ王国のザビエル城で生まれ、1534年8月ロヨラを指導者に同志7人とモンマルトンの丘で誓願(28歳)。この年は、ルターの聖書のドイツ語全訳、ヘンリー8世がイギリス国教会首長となった年でもありました。イエズス会がローマ法王パウロ3世より認可されたのを受け、42年インドのゴア着、49年4月、日本に渡航(43歳)、8月に鹿児島に上陸。すでに43年、ポルトガル船が種子島に漂着、日本に鉄砲が伝来していました。50年にキリスト教信仰の原理を述べた『公教要理』『使徒信教の説明書』を日本語に訳すとともに、鹿児島から山口を経て51年に堺からミヤコに入り、11日間滞在、11月に豊後沖の浜を出帆、中国広東の山川島(サンチュアン)で52年12月3日に亡くなります。
 ザビエルはこの旅のなかでインドなどとはことなる日本への夢を描き、日本宣教の可能性に明日を思い描いていたのです。

日本への憧れ

 ザビエルは、コーチよりローマのイグナチオ・デ・ロヨラ神父宛の1549年1月12日の書簡で、日本への熱い思いを認めています。ここには、「知識欲に燃える日本人」への強い期待が吐露されております。

 この地方(インド)でポルトガル人は、海上と海岸を支配しているだけです。すなわち、本土をすべて支配しているわけではなく、ポルトガル人が住んでいる部分だけを支配していることをあなたにお知らせします。(略)ポルトガル人がこの地方の未信者をもっと大切にしてくれれば、多くの人が信者になるでしょう。でも異教徒たちは信者になった人たちがこれほどまでに圧迫され、迫害されているのを見ていますから、それで信者になりたがらないのです。
 以上あげた理由によって、その他にも数えればさまざまな理由がありますが、日本についてたくさんの情報を入手したのが主な理由で日本へ行こうと思います。日本はシナの近くにある島です。そこではすべての人が異教徒で、イスラム教徒もユダヤ人もおりません。人びとは非常に知識を求め、神のことについても、その他自然現象についても新しい知識を得ることを切に望んでいるそうです。私は内心の深い喜びをもって、日本へ行くことを決心しました。このような知識欲に燃える日本人のあいだに私たちイエズス会員が生きているうちに霊的な成果を挙げておけば、彼らは自分たち自身の力でイエズス会の生命を持続してゆけるだろうと思います。
 ゴアの聖信学院には、私が帰って来た時に、1548年にマラッカから来た若い日本人が3人います。彼らは日本について重要な情報を提供してくれます。また彼らはよい習慣を身につけ、才能豊かで、とくにパウロは優れ、(略)8か月でポルトガル語を読み、書き、話すことを覚えました。今黙想中で大いに進歩し、信仰のことをたいへんよく受け入れております。日本で沢山の人びとを信者にしなければならないと、私は主なる神において大きな希望に燃えています。私を助けてくださる主なるイエズス・キリストにおける大きな希望を持って、まず国王のいるミヤコへ行き、次に学問が行われている所大学へ行く決意です。
 パウロが言うには、彼らが信奉している教えは、天竺(チエンジコ)と呼ぶ地からシナを過ぎ、タタールを経て伝えられたものだそうです。パウロの話では、日本から天竺へ行き、また日本へ帰るのは、3年の道のりだとのことです。

 この日本像こそは、日本宣教に赴くイエズス会の宣教師をとらえてのもので、その心に刻印された世界でした。日本宣教は、この日本像をめぐる確執、蹉跌であり、深い沼地たる日本という大地にのみこまれていく『沈黙』が問いかけた課題ともなるものです。『沈黙』が投げかけた問い、「なぜ神は我々にこんなにも苦しい試練を与えながら、沈黙したままなのか―?」に応じる前に、日本宣教への眼を確かめておきます。