社会科教室
(小・中学校 社会)

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“あたりまえ”を疑い、「自由」と「権利」を考える
2011.01.31
社会科教室(小・中学校 社会) <Vol.56>
“あたりまえ”を疑い、「自由」と「権利」を考える
町田市立自由民権資料館 Backyardより
学芸員 松崎稔

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若い活動家の熱気あふれる場所に

 町田市立自由民権資料館が開館したのは、1986年。少し前に自由民権100年を記念する集会が全国各地で開かれ、横浜・東京で全国集会が開かれたその余韻が残っていた時期だ。町田にも「武相民権運動百年記念実行委員会」(「武相」とは現在の東京都多摩地区のほとんどを含む当時の神奈川県域をさす)の事務局が置かれ、熱心に学習会・シンポジウムなどの集会や巡検といったイベントが何度となく企画された。そのイベントに参加されていた民権家村野常右衛門のご子孫から、自由民権運動の歴史的意義を後世に伝えるために使ってほしい、と土地寄贈の申し出があり、それを受けて町田市が設立したのが当館である。当館の建った場所は、若手民権家を育成するために村野常右衛門が建てた文武道場「凌霜館」の跡地で、民権ゆかりの地でもある。若い活動家たちの熱気あふれた場所に当館は建っているといえよう。

地域指導層からみる自由民権運動

 「自由民権」を冠する施設は当館の他に2か所、高知市立自由民権記念館・三春町自由民権記念館がある。高知は板垣退助・中江兆民・植木枝盛ら、三春町は河野広中らの民権家を生んだ場所で、運動の主体となったのは、それぞれ土佐藩・三春藩出身の士族だ。
 それに対し、当館が対象とする武相地域の運動の担い手の多くは、豪農と呼ばれる富裕な農民層といえる。彼らは、江戸時代から代々村役人などを勤めてきた家の生まれで、地域の指導層・知識人層でもある。
 武相地域の豪農層は、政治の中心地である江戸・東京、開港場となる横浜という幕末・維新期に激変した場所からの影響を多分に受けている。身近で体験した黒船来航などの影響もあって、彼らにはナショナリズムも芽生えている。幕末に、近藤勇は尊皇攘夷を謳いながら新選組を結成するが、それも武相地域にナショナリズムが芽生えていた傍証といえよう。そのような激変する環境で、地域の動揺と混乱を治め、安定をはかることを責務としたのが、村役人などを勤めてきた地域指導層だった。彼らは、地域秩序の再編を国家的課題と重ね合わせ、文明開化の風潮と呼応しながら進めていこうと模索する。その過程で、彼らは「天賦人権論」や「自主」「自由」「自治」などの西洋思想に触れ、惹かれていく。
 自由民権運動は、学校教育では「士族民権→豪農民権→農民民権」と段階的に説明されたりする。しかし、「士族民権」は民権運動の初期だけで、豪農層・一般農民層が取って代わったということではない。一部の士族の提唱した運動が豪農層にまで広がり、豪農層にとどまらないさらなる広がりを「農民民権」と称したと判断すべきだろう。
 とすると、上記のような経過で民権運動を説明するだけでは、自由民権運動の本質は十分に理解できない。士族・豪農・農民には、それぞれどのような課題があって、その課題の克服に役立つと判断された自由民権運動とは、どのようなものだったのか。それを考えることが重要だろう。
 このような問題意識から、豪農(地域指導層)にとっての民権運動とはどのようなものだったのか、を解き明かし、紹介するのが、当館の最大のテーマだ。これにより、世間的に定着している反政府運動とは多少異なる自由民権運動像が見えてくるのではないかと考えている。

現在の行政区分にとらわれない活動

 現在、地域の歴史研究は、一般的に博物館施設や市史編さん事業等のように、地方公共団体を単位として進められている。しかし、現在の行政区分のほとんどは、近代・現代の産物だろう。だとすれば、現在の行政区分とは異なる領域設定をしなければ、本当の意味での地域史を描くことは困難だといえる。
 当館は、文字通り町田市立であるが、「武相地域」(=民権期の神奈川県域)という広範囲を展示や調査分析の対象としている(古文書類の収集・保管は原則市域に限っている)。これは、現在の東京都多摩地域と神奈川県全域となるので、県域よりも広く、その分労力はかかる。それでも、民権期の行政区分である「武相地域」を研究や展示の対象とすることで見えてくることは多い。市域の民権家の活動も、この地域設定によって理解を深めることが可能となる。
 このような問題意識から、2007年には総頁数約2600頁となる『武相自由民権史料集』(全6巻)を刊行した。

常設展「武相の自由/町田の民権」

 常設展は、タイトルにもあるように、このような視点を貫いた構成をめざし、2010年4月にリニューアルした。コーナータイトルを拾うと以下のようになる。
 (1)「自由」と「民権」、(2)黒船来航、(3)村にとっての文明開化、(4)県会での活動、(5)結社の時代、(6)国会と憲法の要求、(7)自由党への参加、(8)盛り上がる演説会、(9)新聞・雑誌、(10)幕末の民衆運動と地域、(11)民権期の民衆運動と地域、(12)激化する民権運動、(13)国会開設を視野に、(14)初期議会期の地域政治、(15)三多摩移管、(16)明治20年代の青年、(17)石阪昌孝の子どもたち、(18)民権家のさまざまな活動、(19)民権家の蔵書、(20)記憶と記録、(21)部落・民権・キリスト教、(22)町田の民権家たち。
 以上、22コーナーに分けて展示している。このような時期スパンには、幕末の黒船来航から明治20年代の政治運動までを概観することで、明治10年代の武相地域の自由民権運動を相対的に考えよう、というねらいがある。
 企画展は、基本的に年2回開催している。そのうち1回は民権運動や明治期についての展示、もう1回が市域の歴史に関わる展示となる。2010年度は、第1回「絵図で見る町田-Part1-」、第2回「明治の学び舎」を開催した。2011年度は、町田出身の民権家村野常右衛門を取り上げた企画展「村野常右衛門とその時代」(仮題)を、前期・後期に分けて開催する予定だ。

“あたりまえ”を疑う

 当館の刊行物に、『わたしとわたしたち―人権と民権を考える―』という本がある。内容は「今を見つめて―現状編―」「過去をふりかえって―歴史編―」の2部構成で、人の権利について歴史的な経緯をふまえて考える機会としてもらおう、と意図した。もちろん、自由民権運動を現代的な関心、身の回りの問題と結びつけながら読んでもらおうという意図もある。タイトルからは意図が理解しにくいかもしれないが、社会の様々な問題を、「わたし」と「あなた」(他者)ではなく、「わたし」と「わたしたち」の問題として考えてみよう、積極的に自分の問題として受け止めてみよう、というねらいがこの本にはある。
 そして、全体を貫いているのは、“あたりまえをうたがう”という姿勢だ。私たちは、人に権利があることを“あたりまえ”と思いがちだ。そうでありながら、それとは違う社会通念としての“あたりまえ”が人の権利を脅かしている面もある。この複雑に絡まっている“あたりまえ”について考えるには、それぞれの“あたりまえ”がどのように考えられ、形成されてきたのか、歴史的経緯から見ていくことが有効だろう。

自由民権運動から見えるもの

 では、自由民権運動とは何だったのか。社会に何を残したのだろうか。いくつか指摘して終わりにしたい。
 第一に、「天賦人権論」を社会に広めたということだ。義務と権利との関係を論理的に位置づけたことも、これと関わってくる。文明開化期から啓蒙思想家により指摘されたこの考えは、自由民権運動によって急速に社会に広まったといってよいだろう。
 第二に、「自由」「自主」「自治」「進取」といった自らの主体性、言い換えれば、社会の抱える課題を自らの問題として主体的に向き合う姿勢を重視したことだ。彼らの熱心な活動ぶりは、この主体性の自覚に裏付けられたものだったといえるだろう。
 第三に、憲法草案の起草、国会開設の要求により、政府とは異なる国家構想を主体的に提示しようとしたことだ。その背景には、国家と政府を分けて考える発想があった。板垣退助が組織した「愛国公党」は在野組織だが、あえて「公」という一字を入れた。これは、幕末からはじまる「公儀輿論」「公論」からつながる発想といえるだろう。
 第四に、現代までつながる様々な文化的影響があげられる。新聞、演説・講演、討論、演歌などは自由民権運動により社会に定着した文化といってよいだろう。
 第五に、社会の秩序形成を責務として自覚し、その責任を果たそうとしたことがあげられる。これは、特に地域社会に目を向けてきた地域指導層出身の民権家に顕著に見られる。幕末以来の地域社会の混乱と向き合い続けた彼らは、都市で言論活動を中心に活躍する民権家には経験できない社会の現実に幾度となく直面し、苦闘と模索を繰り返したといえる。
 当館では、以上のようなところに重点を置きながら、常設展・企画展・図書刊行を行っている。また、来館してくれたり、手紙で質問してくれたりする児童・生徒にも、教科書では伝えきれない、民権運動の中身を少しでも伝えることができれば、と考えながら対応している。

町田市立自由民権資料館Webページ(町田市Webサイト内)ico_link