学び!と歴史

学び!と歴史

16世紀という時代 ―開かれた世界への眼―(3)
2017.03.31
学び!と歴史 <Vol.109>
16世紀という時代 ―開かれた世界への眼―(3)
大濱 徹也(おおはま・てつや)

承前

 イエズス会は、ルターの批判に向き合い、ローマ教会を信仰の覚醒で蘇生させ、全世界への宣教をめざしました。その信仰的熱心は、1549年のザビエル来日にはじまる日本布教より30余年、1583年(天正10)に長崎を中心とする「下」・「豊後」、畿内の「都」からなる3布教区に200教会、25万の信徒を擁するまでの教団を生み出したのです。ここに16世紀日本は、キリシタンの時代といわれるように、時代の人心が大きく揺れ動いた転換期とみなすことができます。この時代を記録した宣教師の一人がルイス・フロイスです。フロイスの「日欧文化比較」については先に28号29号で紹介しましたが、今回は日本にどのように信仰が伝えられたかを読み解くこととします。この課題は、昨今話題となっている映画『沈黙』、遠藤周作の作品をめぐる日本人の心の在りかた、信仰信心を考えたいためでもあります。
 フロイスは、1532年にリスボンで生まれ、王室付き秘書となり、48年にイエズス会入会、ゴアのパウロ学院に学び、62年に日本へ派遣、63年に大村純忠所領横瀬浦入港。平戸から65年にミヤコ、74年に豊後臼杵、79年に来日した巡察師ヴァリニャーノの通辞として随行、信長との会見に同席するなど、16世紀日本の政治社会事情を報じる同時代史ともいうべき『日本史』を遺しています。87年の秀吉によるキリシタン禁教令の下でも伝道に励み、90年に来日したヴァリニャーノを支援、97年に長崎で歿しました。

信長はどのようにみられているか

 フロイスは、信長が覇者への道を歩む時代と同伴し、信長という人間に強い共鳴盤をいだいていました。その意味では秩序解体期ともいうべき16世紀の空気を一身に浴びた宣教師であったといえましょう。信長の相貌は次のよう紹介されています。わたしは、「多少憂欝な影があったが、困難な企にかかると大胆不敵で恐れるところなく」とのフロイスの信長像に、織田信長という人間の本質があると思うのですがいかがでしょうか。

信長は尾張国三分の二の殿(織田信秀)の二男であった。彼が天下を支配し始めた時は、37歳くらいと思われた。彼は中背痩躯で、髭は少なく、声は甚だ快調で、きわめて戦を好み、武技の修業に専念し、名誉心強く、義に厳しかった。他人から加えられた侮辱に対しては、これを処罰せずにはおかなかった。或る事柄では愛想よさや慈悲を示した。眠ること少なく、甚だ早起きであった。貪欲ならず、決断を秘してあらわさず、戦略においてはきわめて狡猾で、気性激しく、癇癪もちであったが、それも、平素そうであったというわけではなかった。彼は部下の進言に左右されることはほとんどなく、全然ないと言ってもよいくらいで、皆から極度に恐れられ、尊敬されていた。彼は酒を飲まず、食事も適度で、彼の行動は何物にも拘束を受けず、その見解は尊大不遜であった。日本の王侯を悉く軽蔑し、彼等に対してまるで自分の下にいる家来たちに対するように見下した態度で口をきき、人びとは絶対君主に対するように彼に服従していた。戦運が彼に反するような場合、彼は度量が大きく、辛抱強かった。彼はすぐれた理解力と明晰な判断力とをそなえた人であり、神仏の祭祀や礼拝はどんなことでも軽んじ、異教の卜占や迷信的な慣習はすべて軽蔑した。名義的には、最初いかにも法華宗に属しているような観をいだかせたが、顕位についてからは、誇らし気にすべての偶像よりも自分を優れたものとし、霊魂の不滅などということはなく、来世における賞罰もないと考えていた。彼は家居ではきわめて清潔を好み、諸事の指図にたいそう几帳面に気をくばっていた。人が彼と話をする時には、だらだら長びいたり、長たらしい前置きを嫌い、ごく卑賤な、軽蔑されていた僕とも打解けて話した。彼が特に好んだものは、茶の湯の有名な器、良馬、刀、及び鷹狩りで、また、貴賤の別なく自分の前で裸で相撲をとるのを見るのがたいそう好きであった。何人も武器を携えて彼のところへはいることは許されなかった。彼は多少憂欝な影があったが、困難な企にかかると大胆不敵で恐れるところなく、人びとは何事でも彼の命に従った。
我等今までに報告した日本の諸宗派の中で最も不遜、傲慢、放恣なのは、釈迦を拝む法華宗である。彼等の間では僧侶が第一等の地位を占めていて、彼等はデウスの教えの最悪の敵であり、敵対者である。その中でも特に六条という寺院(本圀寺)は年収も豊かで、悪習に耽って甚だ放埓であった。(1569年)

病人・貧者への目―聖遺物・聖水によせる想い

 イエズス会は、国取り物語ともいうべき戦国の世にあって、信長の位置取りに期待する政治的遊泳術で布教戦略を展開しております。そこで説かれた信仰は、大友氏をはじめとする戦国大名の庇護を期待するなかで、病者や貧民への働きに証をもとめたものでした。その一端はすでに1549年の薩摩の宣教にみることができます。

ぱあでれメステレ・フランシスコがそこから出発するに先だって、この土地には医者も薬もないから、それが同時に肉体上の病気を癒すのにも役だつような記念品を何か残して行ってほしいと、ミゲルはぱあでれに願った。ぱあでれは、これは霊魂のための薬です、皆さんマリヤ様を尊敬して、マリヤ様が世の救い主である御子ゼズス・キリシトからあなた方の罪の赦しをいただいてくださるようにお願いなさいと言って、一枚の小さな聖母の画像をミゲルに残した。また、ぱあでれは、「わが子ミゲルよお信じなさい。これは肉体のための薬です。キリシタンでも異教徒でも、誰か熱病に罹ったときは、あなたが病人の上にゼズスとマリヤとの聖い御名を呼び求めている間に、この鞭でその病人を軽く五つお打たせなさい。そうすれば、その人たちは健康になるでしょう」と言って、自分の鞭をミゲルに残した。この善良なミゲルの信仰は、彼がその後なお十四、五年生存していたので、多数の病人が方々から彼のところに集まって来たほどであり、彼等はデウスの御力によって健康を得た。誰かが熱心のあまり鞭で打つ数をふやしたり、もっと強く打ちたがったりすると、ミゲルは鞭がいたまないように、これを許さなかった。このようにして、彼は聖遺物のようにこれを頸にかけていた。

ポロシモへの愛の業

 信仰は、聖母と聖遺物信仰として、日本人キリシタンに受けとめられていることが読みとれます。宣教師は、日本キリシタンが聖遺物をほしがるがために、これらのロザリオ等々を送るように書簡に認めています。かつ宣教師は、病人と貧困者に奉仕し、「ポロシモ」隣人への愛の業に励み、戦乱の巷にとり遺された人々に、「キリシタンたちはそこにいた貧しい人たち皆に一席食事を与え」(1552年 山口)、その心をささえたのです。その営みは、各地でイエズス会の期待となり、信仰への道を用意しました。豊後では、大友氏の庇護を受け、病院がもうけられていました。

救貧病院には、毎日方々からそこに集まって来る人たち以外に、百人以上の人たちがいた。我等の御主は惜しみなく与えたもう大度を彼等に示すことを嘉したもうて、病気の重さのためにその期望を全くもっていなかった大勢の人びとに完全な健康を与えたもうた。その大多数の人びとは瘻症傷痍があって、これにはもう手の施しようがなかった。それで、彼等は現地の医者たちに絶望してやって来て、デウスの恩寵によって期待以上の短期間で健康になった。このことは日本人たちに大驚異を喚び起こし、彼等にとっては聖い福音に近づく動機となった。しかし、我等の仲間は、どう考えてみてもそれだけの効力は殆んどないのに、薬がその病人たちに現わした効果を見て、不思議に思わずにいられなかった。そうして、皆は身体の健康と同時に霊魂の健康をも得た。なぜならば、彼等は説教を聴いてキリシタンになったからである。その人びとの中には、今年は、僧侶やごく名望ある人びとが少数あった。(1562年 豊後)

 宣教師の働きは、「奇跡」の業とみなされ、その説く教えに心を開かせたのです。このような働きは、イエズス会の信仰をして、「乞食」「病人」の信仰とみなされる一因ともなりました。このことは、日本宣教をめぐり、宣教団に亀裂をもたらしました。この亀裂は日本評価をめぐるものですが、ポロシモへの愛の実践こそは過酷な弾圧の時代を信仰によって生き抜く力となった原動力にほかなりません。