学び!と歴史

学び!と歴史

16世紀という時代 ―開かれた世界への眼―(4)
2017.04.28
学び!と歴史 <Vol.110>
16世紀という時代 ―開かれた世界への眼―(4)
大濱 徹也(おおはま・てつや)

「貴族」フランシスコ・カブラルの日本像

 宣教師が向き合った日本とはどのような世界だったのでしょうか。1533年生のポルトガル出身の「貴族」フランシスコ・カブラルは、日本布教長として、1570年6月に天草志岐上陸、日本宣教にあたりました。その方策は、ザビエルが提示した日本順応への戦略ではなく、イエズス会の信仰を直截に原理的に説くことでした。カブラルは、ザビエルやフロイスの日本人に向ける評価を否定し、「異教徒」日本に厳しい言葉を浴びせています。

私は日本人ほど傲慢、貪欲、不安定で偽装的な国民を見たことがない。彼等が共同の、そして従順な生活ができるとすれば、それは他になんらの生活手段がない場合においてでのみである。ひとたび生計が成立つようになると、たちまち彼等はまるで主人のように振舞うに至る。日本人のもとでは、誰にも、胸中を打ち開けず読みとられぬようにすることは、名誉なこと賢明なこととみなされている。彼等は子供の時からそのように奨励され、打ち開けず、偽善的であるように教育されるのである。彼等は土着民であり、彼らには血族的な繋りがあるが、日本におけるヨーロッパ人には、一人の親族があるわけでもない。彼等はラテン語の知識もなしに私達の指示に基づいて異教徒に説教する資格を獲得しているが、これがために我等を見下げたことは一再に留まらない。日本人修道士は、研学を終えてヨーロッパ人と同じ知識を持つようになると、何をするであろうか。日本では、仏僧でさえも20年もその弟子に秘義を明かさぬではないか。彼等はひとたび教義を深く知るならば、上長や教師を眼中に置くことなく独立するのである。日本人は悪徳に耽っており、かつまたそのように育てられているので、それから守るためには、主なる神の御恩寵に頼るほかはない。日本で修道会に入って来る物は、通常世間では生計が立たぬ者であり、生計が立つ者が修道士になることは考えられない。日本人は同宿として用いるべきである。彼等は私達と同じ家に住み、説教の助けをしたり、通訳をしたり修道院での用事をする。彼等は修道士よりも多く働き、司祭を見下げるということもなく、イエズス会員ではないから、私達は余り激昂することもない。

 「傲慢、貪欲、不安定で偽装的な国民」との日本人像は、カブラルのみならず、現在でも耳にする日本像です。カブラルの宣教は、己の信仰的優越性を場に、「無知なる異教徒」への布教論でありました。その作法は、己が身につけている文化の場を絶対視したもので、日本人修道士の在りかたに「小賢しい性」を読み取ったのです。このような目、「ヨーロッパ人と同じ知識を持つようになると、何をするであろうか」、「封建君主に優る宣教師はいない」は、組織のなかで上役に弱い日本人像に読み取れましょう。いわば日本人は、異質な存在に同化を強要し、群としては「強者」となり得るものの、他者性を認識出来ない問題がカブラルの指摘にあるのだといえましょう。

「農民の息子」オルガンティーノ・ソルドの目

 イタリア人オルガンティーノは、1532年生れで「農民の息子」を自称、1576年都地方長として活躍、南蛮寺を建立した「ウルガン」伴天連として、京童に親しまれ、人気のあった宣教師。彼は、カブラルとともに来日、京都を中心に畿内で働き、多くの信者を育てました。その宣教論は、カブラルと対立し、ザビエルの日本像につらなるものでした。

日本人は全世界でもっとも賢明な国民に属しており、彼等は喜んで理性に従うので、我等一同よりはるかに優っている。我等の主なる神が何を人類に伝え給うたかを見たいと思う者は、日本に来さえすればよい。彼等と交際する方法を知っている者は、彼等を己の欲するように動かすことができる。それに反し、彼等を正しく把握する方法が解らぬ者は大いに困惑するのである。
私達が多数の宣教師を持つならば、10年以内に全日本人はキリスト教徒となるであろう。四旬節以来6ヵ月間に、8千以上の成人に洗礼が授けられた。この国民は野蛮ではないことを御記憶下さい。なぜなら信仰のことは別として、私達は互いに賢明に見えるが、彼等と比較するとはなはだ野蛮であると思う。私は真実のところ、毎日、日本人から教えられることを白状する。私には全世界でこれほど天賦の才能を持つ国民はないと思われる。(1577年)

 このような日本への目は、日本人に好ましいだけに、「ウルガン」さまと慕われました。しかしオルガンティーノは、日本に順応する道を歩むほどに、あらゆるものに神々が宿る日本の空気に怯えたのではないでしょうか。芥川龍之介は、オルガンテイーノの心の揺れ動きを「神神の微笑」として描いています。まさに『神神の微笑』は、日本人の心性に切り込んだ作品で、日本人の神観念を抉剔したものです。キリスト教は、プロテスタントもそうですが、この「神観」にどれだけ向き合ってきたのでしょうか。映画「沈黙」はこの問いにせまっているでしょうか。神と神神がつきつける問題を考えたいものです。『神神の微笑』を読んでみて下さい。あわせて遠藤周作が『沈黙』で問いかけようとした世界を芥川の想いと重ねて読み解きたいものです。ここに日本思想史の課題があるのではないでしょうか。教室で話題としてみませんか。