読み物プラス

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ドイツの教育を垣間見て
2010.07.05
読み物プラス <学び!トピックス Vol.23>
ドイツの教育を垣間見て
10年経って新規採用、ドイツ体験記
東京都杉並区立桃井第二小学校教諭 シュティーベリング育子

 東京の公立中学校の教師がドイツに渡り、2000年9月から2010年3月までの10年を、大学院生、美術館アトリエ講師、市民大学講座講師、日本語補習授業校講師、日本人学校講師として過ごした。そして帰国、昨年8月に再び東京都教員採用試験を経て、この春より小学校の先生に。
 日本で、ドイツで、そしてまた日本で…。ドイツと日本の教育、子どもたちの様子をさまざまな視点で体験された一女性教師のレポートをお読みいただきます。

1.自己責任

 ドイツの小学校には、「sich melden」といって、子どもが授業中に発表する姿勢を評価するシステムがある。(*ドイツの小学校は4年間通学)つまり、毎回ペーパーテストで満点だとしても、授業中に自分の意見を発表しなければ、成績は良くないことになる。この小学校の成績で5年生からの進学先が決まるので、子どもたちは発表を積極的にするようになる。

クラス修学旅行を引率する、私の親戚の小学校女性教諭Uschi Kalbfkeisch氏と引率者として彼女の姉のHanni Rose
クラス修学旅行を引率する、私の親戚の小学校女性教諭Uschi Kalbfkeisch氏と引率者として彼女の姉のHanni Rose

 もちろん、ただ「言う」だけでは人間的な信頼を得ない。他の意見を認めつつ進展性のある意見を出し、かつ実行していく。こうして、その姿勢は全体で9年生頃までに完成されていく。これは、周囲が「言いっぱなし」を許さないからである。自分がもし失敗しても他人のせいにしない。また、周囲も失敗した人をとやかく言わない。その結果、最終的に「自己責任」が確立するのである。
 しかしこれは「孤独」でもある。同調者を求めても、孤立無援の場合が起きたりする。とかくドイツ人は、自分以外に興味がない人種と言われ、何をしようとも個人の勝手だったりする。反対に、責任はその個人にあるので、自分の責任をもって物事をやり通した者を周囲は「認める」のだ。無責任な者に対しては、周囲から責任を追求する声は辛辣にもなる。こういった関係が、子ども社会からすでに始まっているのである。

2.甘え

 土居健郎著の『甘えの構造』の「甘え」とは、周りの人に好かれて依存できるようにしたいという、日本人特有の感情だと定義している。私が、昭和48年刊行のこの文献を取り上げたのは、日本を離れてドイツ人だけの社会に住んでみて、日本人の「自己責任」感の低さと「甘え」が、実は密接な関係にあると実感したからだ。それには、第二次世界大戦直後、アメリカのマッカーサー総督が「日本人は子どもの精神年齢を持っている」と言った言葉も呼応している。日本を離れてみると、特に自分自身そうなのだが、日本人の「自己責任」感の低さと「甘え」をよくよく知ることができた。

 日本でよく聞く「みんなが持っているからアレ買って!」という子どものおねだりを、ドイツでは聞いたことがない。ドイツにおいては、それは「欲しい理由」には当たらないので却下されるのだ。つまり「みんな」を理由にするのは、「自分はなぜ欲しいのか」という意思表明に値しないからである。

クラス修学旅行を引率する,私の親戚の小学校女性教諭Uschi Kalbfkeisch氏と引率者として彼女の姉のHanni Roseの食事指導
クラス修学旅行を引率する,私の親戚の小学校女性教諭Uschi Kalbfkeisch氏と引率者として彼女の姉のHanni Roseの食事指導

 また、欲しい理由がはっきりしていても、それを買えない家庭ならば、親は子どもに「ウチは買う余裕がない」とはっきりと言う。ドイツの子どもは、この一言で親にきちんと理解を示すのだ。
 日本ではこんなことも耳にする。たとえば、自分の頭の悪さや見かけの悪さを、血筋のせいにする。離婚した理由をどちらか一方のせいにする。自分が不真面目になった理由を、家庭のせいにする。会社は新入社員の能力の低さや躾の悪さを大学のせいにし、大学はそれを高校のせいにし、高校はそれを中学校のせいにし、中学校はそれを小学校のせいにし、小学校はそれを幼稚園や保育園のせいにし,幼稚園等はそれを…。 「他のせい」にする「甘え」や「自己責任」のなさは日本ではキリがないのではないかと。

3.親が自主参加の校外学習

まなびとトピックスvol27-03

あるギムナジウムのスキー旅行

「自己責任」を当たり前にしているドイツでは,こんなところにもそれが発揮される。
 ドイツの学校にも「校外学習」や「修学旅行」というものがあるが、日本と違って学年全体ではなく、なんとクラス単位で遠足先や旅行先および時期が計画される。当然、引率教員は不足になる。(ドイツでは校外学習の場合、生徒8人に引率者1人を必要とする。日本では生徒15人に引率教員1人が必要である。)
 そこでクラス担任は引率者を保護者から数名募るのである。保護者の旅費は、それまでに積み立てた「クラスの旅行金」で賄われる。自分が勤める会社を休んでクラスの校外学習に参加する保護者もいれば、「旅行代金は自腹で出す」と言って参加する保護者もいる。事故に対する責任の所在がはっきりとしているのだ。万が一、クラスの子どもに事故があった場合、総責任はクラス担任や学校長にある。……しかし日本の場合、責任の所在が明確でも、修学旅行等に参加する親が果たしてどのくらい存在するだろうか?
 なぜ保護者が参加することに躊躇がないのかというと、最初に述べた「自己責任」だからである。参加した保護者は自分の与えられた役割をこなせばそれで良い、それ以上に「責任」を感じる必要はない(責任を明確にして、自分は必要以上のことはしないのも自己責任)。子どもたちは、参加した保護者の子どもを特別に見ることはしない。保護者とその子どもは、別の人格であると考えているのだ。つまり、保護者とその子どもを同一の人間としては考えていないのだ。引率した子どもの躾上の問題は、その子どもの親の責任であるので、たとえば叱った後は、その子どもの保護者に伝えることができるという、ドイツでは、学習は学校、躾は家庭という極めて明確に分離している感覚があるのだ。

4.空気を読め?

 ドイツでの10年が経ち、再び日本の教育現場に戻ることになった。かれこれ3ヶ月が経過。以前は中学校勤務だったが、予期せぬ小学校という初体験の職場に立った。浦島太郎ではないゾ、ドイツでも現役で教育現場にいたゾ、と自負していたが、やはり10年間の「日本の教育現場不在」という壁は、「空気を読めない私」という人間には厚かった。

 この「空気を読め」という文句は、私はある会で帰国して初めて聞いた言葉だ。つい自己を表現してしまう私にとって、辛い試練だった。要するにこの言葉の真意は「周囲に合わせろ、反対をするな。」「同意することで協調しろ。」なのだ。あるいは「10年間不在のおマエに何がわかるのだ、だまっていろ!」なのだろうか。
 日本は、今も昔も自己表現が許されない国なのだろうか。