学び!と歴史

学び!と歴史

古事記・日本書紀にみる天皇
2009.11.30
学び!と歴史 <Vol.32>
古事記・日本書紀にみる天皇
天皇は国家なり-歴史の古層への眼
大濱 徹也(おおはま・てつや)

『古事記』での「天皇」

 天皇の意思を述べた詔勅には、御名御璽(ぎょめいぎょじ)と称されていますように、天皇の名前、明治天皇なら「睦仁(むつひと)」を記し天皇の印が押されます。姓を称さない王であることは、他国に類をみない日本の王室の特色として、天皇が存在してきた日本の歴史の固有性の証と認識され、「万世一系」の皇統神話を支えてきました。
日本の史書は「天皇」をどのように描いているのでしょうか。「天皇」という漢語は、日本の王朝誕生から国家の成立を描いた歴史書に登場しますが、どのように訓(よ)まれたのでしょうか。

葛城一言主神社 奈良県御所市

葛城一言主神社 奈良県御所市

 壬申の乱に勝利した天武天皇の王権が、正統なことを証する史書として編纂されたのが『古事記』と『日本書紀』です。『古事記』には、天皇・皇位が神聖なものであることを問い語るものが多くあり、第21代雄略天皇が葛城山で一言主大神(ひとことぬしおおかみ)と出会う物語があります。その神は服装・行列・言葉・態度のすべてが天皇とおなじであるため、天皇が怒り、あわや戦いになろうとします。天皇が「たがいに名を告げて矢を放とう」と言います。そこで「吾は悪事も一言、善事も一言で言い放つ神、葛城之一言主之大神」と申したのを聞き、天皇が恐縮し、拝みたてまつります。

読み下し本文

天皇葛城山(かづらきやま)に登り幸でましし時、百官(もものつかさ)の人等(ひとたち)、悉(ことごと)に紅き紐著(つ)けたる青摺(あをずり)の衣(きぬ)を給はりて服(き)たりき。彼(そ)の時、其の向へる山の尾より山の上に登る人有り。既に天皇の鹵簿(みゆきのつら)に等しく、亦(また)其の装束(よそひ)の状(さま)、及(また)人衆(ひとども)も相似て傾(かたよ)らざりき。爾(ここ)に天皇望(みさ)けまして、問はしめて曰(の)りたまはく、「茲(こ)の倭国(やまとのくに)に吾(わ)を除(お)きて亦王(おほきみ)は無きを、今誰(た)が人ぞ如此(かく)て行く」とのりたまへば、即ち答へて曰(い)ふ状(さま)も亦天皇の命(みこと)の如し。是(ここ)に天皇大(いた)く忿(いか)りて矢刺したまひ、百官の人等悉に矢刺しき。爾に其の人等(ども)も亦皆矢刺しき。故、天皇亦問ひて曰りたまはく、「其の名を告(の)れ。爾(すなは)ち各(おのおのも)名を告りて矢を弾たむ」とのりたまひき。是に答へて曰(まを)さく、「吾(あれ)先に問はえたれば、吾先に名告り為(せ)む。吾(あ)は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城一言主之大神ぞ」とまをしき。天皇、是に惶(おそ)れ畏みて白したまはく、「恐(かしこ)し。我が大神、うつしおみ有(な)らむとは、覚(さと)らざりき」と白して、大御刀(おほみたち)及(また)弓矢を始めて、百官の人等の服(け)せる衣服(きぬ)を脱がしめて拝(をろが)み献(たてまつ)りたまひき。爾に其の一言主大神、手打ちて其の奉物(たてまつりもの)を受けたまひき。

口語訳

天皇が葛城山にお登りになった時、お供の大ぜいの官人たちは、すべて紅い紐をつけた青摺の衣服を頂戴して着ていた。その時、その向かいの山の尾根伝いに山上めがけて登っていく人があった。その行列は全く天皇の行幸にそっくりで、またその人たちの服装の様子も、随行の人たちも天皇の一行とよく似て同等のものであった。それで天皇はその光景をはるかにながめられて、従者を遣(つか)わしてお尋ねになり、「この大和の国には私をおいてはほかに二人と大君はないのに、今誰が私と同じような行列をつくって行くのか」と仰せられると、向こうから答えてくることばのさまもまた、天皇がお咎めになったおことばと同じようなものであった。これを聞いて、天皇はひどくお怒りになって矢を弓につがえられ、大ぜいの官人たちもことごとく弓に矢をつがえた。すると向こうの人たちもまたみな矢を弓につがえた。そこで天皇はまたお尋ねになり、「そちらの名を名のれ。そして互いに名を名のってから矢を放とう」と仰せられた。向こうの人はこれに答えて、「私は先に問われたので、私のほうから先に名のりをしよう。私は凶事も一言、吉事も一言で解決する神、葛城一言主大神であるぞ」と申した。天皇は、このことばを聞いて恐れ畏まって、「恐れ多いことです。わが大神よ、あなたさまが現実のお方であろうとは気がつきませんでした」と申して、ご自身のお太刀や弓矢をはじめとして、大ぜいの官人たちが着ている衣服をも脱がせて、拝礼して献上なされた。すると、その一言主大神はお礼の拍手をして、天皇からの献上の物をお受け取りになった。

 この「一言主」と言う名は、「天皇」の文字を「一、大、白、王」の四つに分け、「一、言、主」の三字に合成した神名で、天皇が現人神であることを物語ろうとしたものです。

『日本書紀』での「国家」と「天皇」

 日本書紀は、天皇の統治と皇位継承を描くことで、律令国家の理念を提示したもので、「国家」という文字が多く使用されています。その訓(よみ)は、「コッカ」でなく、「アメノシタ」か「ミカド」です。ここには古代の律令官人の国家によせた思いが読みとれます。

読み下し本文

(景行天皇)五十一年の春正月の壬午(じんご)の朔(つきたち)にして戊子(ぼし)に、群学び!と歴史vol32_03旧字_卿(まへつきみたち)を招(を)きて、宴(とよのあかり)きこしめすこと数日(ひかず)へたり。時に皇子稚児彦尊(わかたらしひこのみこと)・武内宿学び!と歴史vol32_04旧字_禰(たけうちのすくね)、宴庭に参赴(ま学び!と歴史vol32_05旧字_いこ)ず。天皇召して、其の故を問ひたまふ。因りて奏(まを)して曰(まを)さく、「其の宴楽(とよのあかり)の日には、群学び!と歴史vol32_03旧字_卿・百寮(もものつかさ)、必ず情(こころ)は戯遊(あそび)に在りて国家(あめのした)に存(あ)らず。若(けだ)し狂生(くるへるひと)有りて墻閣(しやうかく)の隙(ひま)を伺はむか。故(かれ)、門下に侍(さぶら)ひて非常に備へたり」とまをす。時に天皇、謂(かた)りて曰(のたま)はく、「灼然(いやちこ)なり。灼然、此(ここ)には以椰知挙(いやちこ)と云ふ」とのたまひ、則ち異(こと)に寵(めぐ)みたまふ。

口語訳

(景行天皇)五十一年春正月の壬午朔(ついたち)の戊子(七日)に、群学び!と歴史vol32_03旧字_卿を招いて饗宴を催されることが数日に及んだ。その時、皇子の稚足彦尊・武内宿学び!と歴史vol32_04旧字_禰は、宴の庭に参上しなかった。天皇は召して、その理由をお尋ねになった。そこで奏上して、「その宴楽の日には、群学び!と歴史vol32_03旧字_卿・百官は、必ず心が遊楽に奪われて、国家の事を忘れております。もしかすると狂った者があって、宮城の垣の隙をうかがうことがあるのではないか。それで、門下に控えて、非常事態に備えておりました。」と申しあげた。そこで天皇は、「至極立派なことだ〔「灼然」はここではイヤチコという〕」と仰せられて、格別に寵愛された。

 天皇が、正月7日の白馬節会に皇子と宿学び!と歴史vol32_04旧字_禰が参加しないために問うたところ、「酒宴に気をとらて国家に思いいたすものもいない。もし狂人がことを起こしたら大変ですので外で非常に備えているのです」、と答えたところ天皇が大変喜ばれ、二人をことのほか寵愛されます。この物語は稚児彦尊の立太子と武内宿学び!と歴史vol32_04旧字_禰を棟梁之臣(大臣)に任命する伏線です。
 ここにある「国家に存かず」の訓は「ミカド」か「アメノシタ」で微妙な違いがでてきます。日本古典文学体系本は「アメノシタ」ですが、いかがなものでしょうか。ここでは「ミカドのことなぞ全く気づかっていない」とした方が、人間らしい情誼(じょうぎ)をふまえた天皇の寵愛が位置づけられるのではないでしょうか。
 国家と天皇に寄せる思いは、「国家」に「ミカド」「アメノシタ」の両訓があたえられたことに、表明されています。仏教伝来を伝える欽明天皇13年10月の記事にある「帝国に伝へ奉りて」「我が国家の天下に王とまします」の「帝国」「国家」は「ミカド」としか訓めません。そこで「アメノシタ」「ミカド」の用例を整理してみます。

天皇即国家という観念

アメノシタの訓

宇宙(神代紀4 神出生章) 六合(同) 区宇(神武紀) 八紘(同) 海内(同) 普天卒土(雄略紀) 校廟(顕宗紀)

ミカド

皇(成務紀) 天朝(神功紀) 中国(雄略紀) 朝(清寧紀) 人主(顕宗紀) 大倭(孝徳紀) 天子(済明紀)

 「アメノシタ」はある空間概念をもつ組織体を意味する言葉であり、「ミカド」は「皇」「人主」「天子」が示すようにある特定の個人たる天皇に対する訓のようです。しかも「ミカド」には、「国家」「中国」「帝国」「大倭」のように、「アメノシタ」と同義の文字も使用されています。このことはミカドたる天皇に寄せる意識が投影されていることを意味しており、国家と天皇を同一なるものと認識していたことをうかがわせます。この天皇と国家との意識こそは、国家の災害を天皇が一身で負うべき責務とみなさしめたのです。
このような意識は、養老4年から5年の災害に元正天皇が詔で、「朕が心狂懼すること日夜休まず」と述べて己を譴責(けんせき)してその存在を問い質さしめます。また律令官人は、「死に生も君がまにまと思ひつつ」と歌うように、天皇との関係においてでしか己の距離をはかれない存在であり、神格化されていく天皇の血脈への忠誠心を信仰にまで高めていきます。
 この天皇即国家という観念こそは、歴史の古層に渦巻き、培養増幅されていくことで、昭和維新の奔流に潜む「天皇一元化が皇国の完成にして、ここに至る道程が修養すなわち維新なり」(杉本五郎『大義』)といわしめた心情をうながしたように、日本人の心性に鋳込まれた棘にほかなりません。

 こうした心性構造の在りかたを己の眼で撃つとき、はじめて歴史の闇が読み解けるのではないでしょうか。


引用

  • 『古事記 上代歌謡(日本古典文学全集 1)』(発行:小学館 1973年)
  • 『日本書記①<全二冊> (新編 日本古典文学全集2)』(発行:小学館 1994年)