学び!と歴史

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姓がない王 ― 天皇
2009.10.15
学び!と歴史 <Vol.31>
姓がない王 ― 天皇
天皇は姓は何というのだろう
大濱 徹也(おおはま・てつや)

姓が無い存在

 天皇はなんという姓・名字なのかと問われたことがありませんか。
 思うに明治天皇が睦仁(むつひと)、大正天皇が嘉仁(よしひと)、昭和天皇が裕仁(ひろひと)、現天皇が明仁(あきひと)、皇太子が徳仁(なるひと)と名乗るものの、姓はありません。日本の王たる天皇は、諸外国の王室が姓を持つのに対し、姓がないことをその特質としています。その存在は、姓が特定されないまま天皇という称号が根づいていくことで、世界で類をみない姓を持たない王としての現在があり、「万世一系」という王朝神話を潤色しつづけているといえましょう。

戸籍の編成と姓

 ヤマトの王権は、三世紀後半ごろから現在の日本列島を倭国(日本)として統合していく過程で、三輪氏、葛城氏、蘇我氏、出雲氏などと地名を名乗る家と、朝廷の軍事力を担う大伴氏、物部氏、神事・祭事を司る中臣氏のように職務分担を姓としたものからなり、それらの呼称が後の姓となる名称となっていきました。その名称は、670(天智9)年につくられた戸籍である庚午年籍で中央と地方の豪族の姓が定立されることで、確立していきます。
 戸籍は、律令で6年に一度の作成となり、古い戸籍を30年で廃棄しました。しかし庚午年籍だけは氏姓の根本台帳として永久保存されることになっています。この戸籍制度が整備されていくことで、天皇と奴婢を除き、民は姓をもつこととなりました。やがて奴婢身分がなくなり、天皇以外の人々は姓をもつことになったのです。

「倭五王」という名乗り

 5世紀、いまだ倭国の王権が世襲されていない時代に、中国王朝を後ろ盾に国内制覇をめざした倭の五王と呼ばれた讃・珍・済・興・武という倭国の王の存在が『晋書』『宋書』『南晋書』『梁書』などの史書に描かれています。その王は、『日本書紀』などの天皇系譜と対比し、「讃」が履中(りちゅう)天皇、「珍」が反正(はんぜい)天皇、「済」が允恭(いんぎょう)天皇、「興」が安康(あんこう)天皇、「武」が雄略(ゆうりゃく)天皇に比定されています。ただし、「讃」と「珍」については、「讃」を応神(おうじん)天皇、「珍」を仁徳(にんとく)天皇に、また「讃」が仁徳天皇で「珍」が反正天皇とみなす説などもあります。
 各王は、中国王朝に朝献し、「安東大将軍」(讃)、「安東将軍倭国王」(珍)、「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍」(済)、「安東将軍倭国王」(興)、「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」「鎮東大将軍」「征東大将軍」(武)などの称号を授与され、倭国による列島支配の確立をしていきます。
 この倭王の「倭」は、『宋書倭国伝』などの史書で「倭讃」とあることより、中国王朝が姓とみなしていたのではないでしょうか。ちなみに同時期に通交していた朝鮮半島の高句麗や百済、やや遅れた新羅などの朝鮮の王朝は高句麗が「高某」、百済が「余某」、新羅が「金某」を名乗り、「高」「余」「金」が各王室の姓となっていきます。なお「余」は百済王が扶余族出身であったことによりましょう。こうした君主の姓は、皇帝も姓を名乗る中国王朝と朝貢関係を確立していくうえで、王の名乗りに必要なものとみなされていたのです。それだけに中国王朝は日本の王の姓を「倭」と認識していたといえましょう。
 しかし倭国日本は、「倭王武」が「大王」として国内統治を確立していくなかで、中国王朝に臣下の礼を取る秩序から離脱し、独自の世界をめざそうとします。しかも478年に「征東大将軍」「倭王武」が朝貢したのを最後に、隋が中国を統一する581年までの一世紀余も中国王朝と交渉しなかったことで、中国風の漢字一文字の「倭」を姓とすることを求められなかったのではないでしょうか。

姓が無いということ

 600年に派遣された第1回の遣隋使は、『隋書』が「倭王で姓が阿毎(あめ)、字(あざな)が多利思比孤(たりしひこ)、号を阿輩?弥(おほきみ)というものが使者を派遣してきた」と記しています。ここで倭王が称した「あめたりしひこおほきみ」は、中国風にすれば、「おほきみあめたりしひこ」となるわけで、「おほきみ」が大王、「あめたりしひこ」が「天降られておかた」の意味で天孫降臨のイデオロギーが投影された倭王の称号にほかならず、倭国として姓名を名乗ったわけでありません。
 しかし隋帝国は、皇帝への儀礼として、姓名を名乗り臣属を求めてきたのだと受け止めました。思うに日本は、倭国として中国王朝との外交関係において、国王の姓を名乗ることがなかったのです。ここには、中華帝国の枠組みに対し、ある一定の距離感をとることで冊封関係が求める儀礼に無知を装った倭国日本の姿がうかがえます。
この営みこそは、結果として、姓を持たない日本の王室を生み出し、やがて無姓であることが世界に冠たる日本の天皇という存在を主張せしめることとなっていったのです。