学び!と歴史

学び!と歴史

岩戸山古墳が問い語る世界
2010.02.15
学び!と歴史 <Vol.35>
岩戸山古墳が問い語る世界
大濱 徹也(おおはま・てつや)

vol35_012 岩戸山古墳は、『筑後国風土記』によれば筑紫君磐井の墓と云われており、筑後平野南部の八女丘陵の中ほどにあります。八女丘陵には、石人山(せきじんざん)古墳、弘化谷古墳など、多くの古墳群が所在します。石人山古墳は、磐井の祖父か曾祖父の墓といわれている地域でいちばん古い前方後円墳で、5世紀前半に造られたものです。その後円部には家形石棺が祀られており、その前を石の武人が守護しております。その隣にある弘化谷古墳は、磐井の縁者のものかとみなされており、円墳の装飾古墳です。こうした筑紫君磐井をめぐる古墳群は、機内のヤマト王権に対峙する政治勢力として、筑紫を拠点とした九州王権の存在を示唆しております。磐井が継体天皇21年(527)に叛乱したという物語は、ヤマト王権の在り方をめぐり、九州の王権がどのような存在であったかをうかがわせる語りにほかなりません。
 この物語は、『古事記』と『日本書紀』で、語りの構造に大きな落差があります。『古事記』は、「この御代に、筑紫君石井(いわい)が、天皇の命に従わず、秩序に背くことが多かった。それで物部荒甲之大連(もののべのあらかいのおおむらじ)・大伴之金村連(おおとものかなむらのむらじ)の二人を派遣して、石井を殺した」と、さらりと書き流しています。しかし『日本書紀』は、新羅をめぐる朝鮮半島の状況に対応し、磐井がヤマトに反旗を翻し、やがて鎮圧されるまでを詳細に述べています。

 近江の毛野臣(けなのおみ)が軍衆6万人を率いて任那に行き、新羅に奪われた朝鮮半島南部の南加羅(ありひしのから、洛東江下流域の金海の金官国)・喙己呑(とくことん、現慶尚北道慶山)回復に出兵しました。そこで新羅は、筑紫君磐井に「賄賂」を届け、毛野臣の侵攻を阻止しようとします。磐井は、火(肥前・肥後)・豊(豊前・豊後)に勢力を伸ばし、ヤマトの軍勢を邪魔し、海路を封鎖して高麗・百済などの朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、毛野臣に「今でこそ使者となっているが、昔は同じ仲間として、肩を並べ肘を触れ合せて、一つ器で共に食べたものだ。使者になった途端に、私をお前に従わせることなど、どうしてできようか」と言い、毛野臣軍と交戦しました。天皇は、毛野臣軍が阻止されたため、「筑紫の磐井は反逆して西戎の領地を占領した。今、誰を将軍にしたらよかろう」と、大伴金村・物部麁鹿火(もののべにあらかい)・許勢男人(こせのおひと)らに将軍の人選を聞いたところ、物部麁鹿火が推挙されました。そこで天皇は、8月1日に物部麁鹿火を将軍に任命し、「お前が行って征伐せよ」といわれた。物部麁鹿火は、「磐井は西戎の狡猾な輩です。川の阻みを頼みにして朝廷に従わず、山の険しさを利用して叛乱をおこしました。徳を破り道に背き、驕慢であり、自惚れております。帝を助けて戦い、民を苦しみから救って来ました。昔も今も変わりません。謹んで征伐しましょう」と申しあげた。天皇は、「良将の戦とは、厚く恩恵を施し、慈悲をもって人を治め、攻撃は川の決壊のように激しく、戦法は風のように早いものだ」と仰せられ、重ねて「国家の存亡はここにある。力を尽せ、謹んで天罰を加えよ」と。そして自ら斧と銊(まさかり)とを麁鹿火に授け、「長門以東は私が統御しよう。筑紫以西はお前が統御せよ。もっぱら賞罰を実施せよ。頻繁に奏上する必要はない」と、磐井鎮圧に関する天皇の統帥権を与えたのです。

 物部麁鹿火は、528年11月11日に筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)で磐井軍と交戦、激戦の後、磐井軍を敗北させ、磐井を斬りました。12月に磐井の子、筑紫君葛子は、父の罪に連座して誅殺されることを恐れ、糟屋屯倉(現福岡県糟屋郡付近)を献上して、死罪を免除されます。

 『筑紫国風土記』逸文は、麁鹿火の軍勢が急に攻めてきたので、勝ち目がないと覚った磐井が豊前国に逃れて山中で死んだと、述べています。そこでヤマトの兵は、怒りにまかせ、磐井が生前に造っていた墓の石人の手を折り、石馬の首を断ち斬ったのだと。
 こうした記述にうかがえる磐井の憤死や朝鮮半島との交流は、岩戸山歴史資料館に展示されている首を切られた石人とともに、朝鮮半島製の金製垂飾付耳飾(きんせいすいしょくつきみみかざり)などに確認することができます。また隣接した別区と称されている50メートル四方の広場には、首のない石馬や手のない石人のレプリカが並べられており、磐井の世界を想起させてくれます。
 この叛乱は、磐井に代表される九州王権がヤマト王権に対し、ある一定の独立性をもっていたことをうかがわせます。かつ北九州の地は、ヤマト王権が拠点とした機内よりも、出土品にみられますように朝鮮半島との一体感を強く意識していたといえましょう。それだけに朝鮮出兵等の負担は反撥をよび、文化的につながる朝鮮と結んでのヤマト王権への叛乱となったのではないでしょうか。
 ここには、ヤマト王権の朝鮮経営が512年の任那4県を百済に割譲するなど、失敗の一途をたどるなかで、継体王朝が地方支配を強化し、越前(現福井県)から皇位をついだ天皇として、自己の王権を確立していく姿が読み取れましょう。
 継体天皇は、武烈天皇に後継ぎがいないため、応神天皇の5世子孫という遠い血筋の男大迹王(おほどのおおきみ)を越前三国から迎えられて皇位を継承したために、武烈天皇の姉(妹との説も)手白香皇女(てしらかのひめみこ)を皇后とすることで皇位の正統性を保証しようとしました。河内の樟葉(現大阪府枚方市楠葉)で即位し樟葉宮に4年、山背の筒城(つつき 現京都府綴喜郡)に7年、弟国(おとくに 山城国乙訓郡、現京都府長岡京市・大山崎町)に8年の後、磐余(いわれ 現奈良県桜井市中西部から橿原市東部にかけての地)を都とし、即位後20年をかけて大和に入れたわけです。この年数には疑問がありますが、即位してから天皇の故地たる大和に入るまで、多この年月が必要でした。ここには、継体天皇の正統性をめぐり、強い反発が大和にあったことをものがたっています。そのため継体王朝期には、後の南北朝のように、二王朝が並立していたとの学説がだされたこともあります。まさに継体の王権は、大和を基盤とするよりも、近江をはじめ畿外の勢力にささえられていたのです。なお現天皇家はこの継体に始まる王朝です。
 ヤマト王権が列島を統一していく過程を九州や吉備(現岡山県)・出雲(現島根県)をはじめ、東国の蝦夷らの「謀反」と称される事件を読み解き、頭に詰め込まれた「国史」的歴史とは異なる大陸に連なる列島の相貌を問い質し、一人ひとりが己の歴史像を身につけたく想うのですが、如何でしょうか。

 『古事記』『日本書紀』の読解には、新編日本古典文学全集が本文とともに、現代語訳をしており、注釈・解説が丁寧で、参考になります。