学び!と歴史

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平安時代、皇位継承の闇
2010.11.15
学び!と歴史 <Vol.42>
平安時代、皇位継承の闇
政争の果てに
大濱 徹也(おおはま・てつや)

桓武天皇の治世

 平安京に新たな王朝を築いた桓武天皇の治世は、

「宸極に登りてより、心を政治に励まし、内に興作(新都造営)をこととし、外に夷狄を攘(はら)う。当年の費といえども、後世の頼みなり」

と、『日本後紀』が位置づけています。その営みは、平安京の造都と蝦夷征討、造作と軍事が多大な費用であったが、後世の基礎を築いたものだと評価されたのです。
 軍事は、志波(現盛岡市付近)をふくむ胆沢(現水沢市付近)地方を天皇の国家に取り込み、征夷大将軍坂上田村麻呂が802年から胆沢城を、翌803年に志波城を造営しました。投降した蝦夷の指導者アテルイは、陸奥に帰すべきとする田村麻呂の意見を無視して、見せしめとして処刑されました。現在その顕彰碑は田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺に建立されています。
 ちなみに征討軍10万は、当時の人口約600万人、うち兵役を負担する正丁(せいてい[律令制で二十一歳以上六〇歳以下の健康な公民男子])が約110万人とすれば、一度の軍事行動に全正丁の一割が動員されたことになります。これらの軍勢は坂東諸国からの徴兵と物資の徴発であったため、その疲弊は国家をおびやかしました。かつ長岡京と平安京の二度にわたる造都で諸国の正税の三割が費やされたと三善清行は指摘しています(意見封事一二箇条[914年に醍醐天皇に提出した政治意見書])。
 桓武天皇は、その重病が早良親王(追号[死後に生前の功績をたたえて贈る称号]して崇道天皇)の怨霊によるものとして苦悩し、心血をそそいだ造作と軍事を続行するか否かを、805(延暦24)年に渡来人の血を引く菅野真道と光仁天皇の即位に功績のあった藤原百川の子緒嗣に問い、中止を説いた藤原緒嗣の意見をいれて、蝦夷征討と平安京造営を中止しました(徳政相論[天下の徳政はいかにあるべきかを議論させること])。桓武は、この徳政論争の3ヶ月後、806(大同元)年3月に70年の生涯を閉じました。桓武の王朝は、天武王朝に代わり、平安京に新しい歴史を切り拓いたのです。

平城と嵯峨の確執

 桓武の子、安殿(あて)親王が即位し、第51代平城(へいぜい)天皇となります。平城は、同母弟の神野親王(のちの嵯峨天皇)を皇太弟にたてました。平城には、阿保親王や高丘親王がいましたが、母の身分が低いために皇太子に立てられなかったことによります。807年、伊予親王(桓武と南家藤原是公(これきみ)の娘、藤原吉子の子)が謀叛の罪で幽閉されて自殺しました。
 平城は、藤原種継暗殺に連座したとして自害した早良親王の怨霊に悩み、ここに伊予親王の自殺もあり、治世4年にして809年に弟の神野親王に譲位、上皇となります。嵯峨天皇は平城の子高丘親王を皇太子とします。
 譲位した平城は、藤原薬子をつれて平城京に行き、遷都をはかろうとします。ここで嵯峨は、薬子と兄藤原仲成を死に追いこみ、平城の企図を断ちます(薬子の変)。これは、『日本後紀』が「二所朝庭」と記したように、天皇と上皇が同等の権力をもっていたがためにおこったことです。このような問題は、孝謙・淳仁の対立による孝謙が重祚して称徳となったように、起こりうることでした。

嵯峨・淳和の下で

 嵯峨は、薬子の変で皇太子高岳親王を廃し、嵯峨天皇の異母弟大友親王(のちの淳和天皇)を皇太子とします。これは嵯峨に子がいなかったことによりますが、やがて正良(まさよし)親王(のちの仁明天皇)が生まれます。嵯峨は823年(弘仁14)に譲位し、大伴皇子が即位(淳和天皇)。淳和の後は嵯峨の子正良が仁明天皇となります。
 仁明(にんみょう)天皇は、淳和天皇が嵯峨上皇の娘正子内親王を母とする恒貞親王を皇太子とします。皇位の継承は、父子の関係でなく、伯父と甥の関係で展開していきます。
 こうした皇位継承は、嵯峨と淳和、淳和と仁明がお互いに牽制しあい、微妙な権力のバランスの上で営まれていました。ここには、薬子の変のような事態をさけ、権力の安泰をはかりたいとの思惑があったのではないでしょうか。こうした兄弟の相関図は、840年(承和7)に淳和上皇が、ついで842年に嵯峨上皇が亡くなったことで、崩れていきます。
 仁明天皇は藤原冬嗣の娘順子との間に道康親王(のちの文徳天皇)をもうけており、道康は皇太子恒貞より二歳年下でした。恒貞は、皇太子の座が父淳和の力によるものだけに、父上皇の死で皇太子たる場がゆらぎます。道康親王の母順子の兄藤原良房が権力をもつなかで、恒貞は孤立していきます。ここに伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)が恒貞を擁立し、東国で叛乱を企図しているとの謀叛が発覚します(842年 承和の変)。伴と橘らは逮捕され、その自白をもとに恒貞親王は皇太子の地位をうばわれ、道康親王が皇太子となります。事件後、藤原良房は大納言に、源信は中納言となります。さらに866年には、応天門が放火され、左大臣源信が犯人として訴えられます。しかし犯人は伴善男の子中庸(なかつね)が放火犯として告発され、善男父子が配流され、名門の伴氏は没落します(応天門の変)。事件後に源信は出仕しなくなります。事件は藤原良房の仕掛けた謀略ともいわれましたように、その権勢は大きなものとなりました。

父子の継承への道

 850年(嘉祥3)、仁明天皇が亡くなり、皇太子道康親王が即位(文徳天皇)。即位直後、良房の娘明子を母とする文徳の第四皇子惟仁親王が誕生します。皇太子は、第一皇子惟喬親王(母は紀名虎の娘静子)がなるべきを、良房によって惟仁とされました。858年(天安2)文徳の死で、惟仁が9歳で即位(清和天皇)します。ここに仁明・文徳・清和と父子の皇位が継承され、兄弟相続がもたらす皇位継承の抗争が回避されることとなります。かつ、父子継承は幼帝の即位をもたらし、外祖父藤原氏による摂関政治への道を開いたのです。
 このような王権を強化するには、桓武天皇が天壇の祭祀で固有の王権を主張したように、唐の皇帝になぞらえる措置がもとめられたのです。それはやがて天皇の服装を唐風にしていく作法となります。天皇は、聖武天皇が神にならう白い服をまとい中国風の冠をかぶり、儀式を営みました。この様式は、820年(弘仁11)以後、神事において今までと同じに白でしたが、元日の朝賀で中国皇帝にならい龍の模様がある服と冠をまとい、定例の朝儀や外交儀礼では櫨と紅花で染めた黄色に少し赤みのある黄櫨染(こうろせん)という皇帝にのみ許された色の服を着ております。いわば神事には神として臨み、中国皇帝の衣冠で政事を営んだのです。政治の唐風化により、王権を粉飾し、天皇の存在を輝かせていきます。そこには、天皇位をめぐる骨肉の争い、血ぬられた王権を唐様の帳で覆うことで、父子による継承の安定をはかろうと想いがあったのではないでしょうか。血まみれた王権の抗争は、政治的敗者の怨霊を跋扈(ばっこ[のさばり、はびこること])させ、御霊会(ごりょうえ[思いがけない死を迎えた者の御霊による祟りを防ぐための、鎮魂のための儀礼。御霊祭])を営ませることとなります。


参考文献

  • 川尻秋生『揺れ動く貴族社会』小学館 2008年
  • 吉川真司編『平安京』吉川弘文館 2002年