学び!と歴史

学び!と歴史

「北方領土」といわれる世界 1
2010.12.10
学び!と歴史 <Vol.43>
「北方領土」といわれる世界 1
行政組織の移り変わり
大濱 徹也(おおはま・てつや)

 ロシア大統領の国後島訪問で北方領土問題は、竹島や尖閣諸島をめぐる韓国や中国の紛糾とも相まって日本の国民感情を逆なでし、強権的な民族主義の昂揚をうながす趣きをもった論調で語られています。それだけに、こうした危機感に右往左往することなく、まずは立ち止まって、北方領土と言われる世界を自分の眼でとらえるための基礎作業が必要でないでしょうか。

松前とカラフト・千島の交易

 海禁政策(領民の海上利用を規制する政策)をとる徳川将軍家が統治する日本は、「鎖国」下で世界への窓口として長崎口(オランダ・清国)、対馬口(朝鮮)、薩摩‐琉球口(東南アジア)とエゾ松前口(蝦夷地・ロシア)という四つの窓をもっていました。松前藩や幕府は、18世紀半ばまで、カラフト・千島を交易船の派遣されないエゾの奥地とみなしていました。松前からの交易船は、1739(元文4)年頃の「蝦夷商賈聞書(えぞしょうこききがき)」によれば、北がソウヤ(現稚内市)、東がクナシリ(国後島)であり、カラフト・現北海道のオホーツク沿岸から千島列島へ及んでいません。カラフトは、南半分が主にカラフトアイヌ、北半分がウルタイや二ヴヒの居住地でした。
 千島列島は、北千島・中千島が主に千島アイヌ、南千島が北海道アイヌの居住域でした。ソウヤは、このような状況下で、現北海道のオホーツク沿岸のアイヌや「唐物」をもたらす「カラプトノ蝦夷」が参集し、クナシリにはそれより「奥」のアイヌが「荷物」を運んで来ました。
 いわばカラフト・千島のアイヌは、松前からの交易船の限界地において、和人との交易を行っていたわけです。千島アイヌは、ラッコなどの豊富な海獣資源を活かし、ラッコ皮などを生産し、カムチャツカ方面に南下してきたロシア商人や北海道アイヌと松前からの交易船によって日本との交易を営んでいました。その営みは、18世紀になると南下して来るロシアの影響が強まり、ロシア国教である東方教会に連なるハリストス正教を受容し、ヤサーク(毛皮税)を貢納するようになり、ロシアの統治下にくみこまれていきます。その一方では、道東の北海道アイヌとも通婚しており、ロシアと日本との重層的関係をもっていました。

幕府の対応

平成18~23年度用「中学生の社会科 地理 世界と日本の国土」より

平成18~23年度用「中学生の社会科 地理 世界と日本の国土」より

 クナシリは、安永年間から飛騨屋久兵衛が経営していましたが、アイヌを脅迫し強制的に使役して鮭・鱒の〆粕生産をしたために、1789(寛政元)年にアイヌが蜂起しました(クナシリ・メナシの戦い)。1792年にはロシア使節ラクスマンが漂流民大黒屋光太夫を伴い日本に通好を求めて根室に来航、1797年にはイギリス艦が蝦夷地に来航するなど、ロシアの南下をはじめ蝦夷地近海が騒がしくなります。ここに幕府は、同年に目付渡辺糺を蝦夷地巡視に派遣、1799年に近藤重蔵(じゅうぞう)をエトロフに派遣し、ロシアの南下に備えました。近藤は、ロシアに対処すべく、アイヌの和人化をはかります。かつ幕府は、1802(享和2)年に東蝦夷地を直轄領となし、エトロフのアイヌがウルップ(得撫島)以北に行くことを禁止し、北のアイヌがウルップ以南に来ることを禁止して、アイヌの千島交易ルートを遮断することで、ロシアの南下に対応していきます。こうして千島アイヌのアッケシ来航、クナシリアイヌのウルップ出稼ぎが不可能となり、千島アイヌはロシアとの交易のみで生活を営むこととなったのです。いわば日本は、エトロフ以南を支配し、北部・中部千島に眼を閉ざしたのです。

日本の行政区として

 1855(安政元)年の日露和親条約は、こうした状況をもとに、エトロフとウルップの間を日露の境界としました。ついで明治新政府は、1875(明治8)年の千島樺太交換条約により、全千島を領有します。そこで1884年に北千島のアイヌ97人を色丹島に移したため、シュムシュ島からウルップ島までがほとんど無人状態となりました。
 ここに国後島・択捉島は、1869年の国郡制で千島国となり、国後島は国後郡として開拓使の直轄としますが、1871年まで久保田藩の分領支配に置かれていました。択捉島には4郡がおかれ、択捉郡(彦根藩)・振別郡(ふれべつぐん・佐賀藩、のち仙台藩)・紗那郡(しゃなぐん・仙台藩)・蘂取郡(しべとろぐん・高知藩、のち仙台藩)のそれぞれ分領支配地となりましたが、72年に開拓使根室支庁の直轄となります。色丹島は根室国花咲郡に組み込まれました。
 1875年の千島樺太交換条約で得撫島までが日本領となったことで、76年に得撫郡・新知郡(しむしるぐん)・占守郡(しゅむしゅぐん)を千島国に編入し、開拓使札幌本府直轄としたが、78年に根室支庁の管轄となり、85年に根室国花咲郡から分離した色丹郡が成立。
 千島国は、1876年の北海道大小区制で第26大区となりますが、その廃止により79年に振別・択捉・紗那・蘂取の四郡役所が振別に置かれ、国後・得撫・新知・占守の四郡は根室に置かれた根室外八郡役所に属しました。85年に振別・択捉・紗那・蘂取の四郡役所が振別から紗那に移転し、国後・得撫・新知・占守の四郡は色丹郡とともに根室外九郡役所の所管となります。千島国は、82年の廃使置県で根室県に属し、86年の廃県置庁で北海道庁の管轄となりました。さらに97年の郡役所廃止で紗那・振別・択捉・蘂取の四郡は紗那支庁、国後・得撫・新知・占守・色丹の五郡は根室支庁の管轄となります。
 色丹島は、町村制で87年に斜古丹村戸長役場、1923(大正12)年の二級町村斜古丹村に、1933(昭和8)年に色丹村と改称。国後島のトマリ・ヘトカ・トウブツ・チフカルベツの各村は、1875年頃までに泊・来戸賀・東沸(とうふつ)・秩苅別(ちぷかりべつ)となり、80年に留夜別(るよべつ)の五村となり、戸長役場を泊村に設置。95年には、留夜別村に秩苅別村から分かれた大滝村とで留夜別外1ヶ村戸長役場、泊・来戸賀・東沸・秩苅別の四村が泊外三ヶ村戸長役場を設置します。さらに1923年には、泊・来戸賀・東沸・秩苅別の四村、留夜別と大滝の二村がそれぞれ合併して二級町村の泊村と留夜別村となります。
 択捉島南西部のルベツ・フウレベツ・ヲイト・ナイボ・タンネモイの各村は75年に留別・振別・老門(おいと)・内保(ないほ)・丹根萌(たんねもえ)となり、85年に振別外4ヶ村戸長役場が置かれ、翌86年に留別外4ヶ村戸長役場となりましたが、87年に内保村と丹根萌村が分かれて内保外1ヶ村戸長役場を設置。1923年には、沙那郡留別村・振別郡振別村・老門村・択捉郡内保村・丹根萌村が合併し二級町村留別村が成立します。
 択捉島中部のシャナ・アリモイの各村は1875年に沙那・有萌・別飛となり、75年に沙那外2ヶ村戸長役場が置かれ、1923年に紗那郡有萌村・別飛村・沙那村が合併して二級町村紗那村が成立します。
 択捉島北東部のシベトル・ヲトイマウシの各村は、1875年に蘂取・乙今牛となり、84年に蘂取村に戸長役場を設置、1923年に両村が合併して二級町村蘂取村が成立します。
 ここには、千島を領有した日本が新天地の開拓をめざす移住者の定住にともない、行政組織が整備されていく様相がうかがえます。「北方領土」といわれる世界は、江戸幕府が蝦夷地に向けた眼差しをふまえ、近代日本国家が北の島々を内国植民地として経営すべく、統治組織をどのように確立していったかを問い質すとき、はじめて視えることができるのではないでしょうか。そこで次回は北の島々の住民の相貌をうかがうこととします。