学び!と歴史

学び!と歴史

2011年から時空を旅すれば
2011.02.04
学び!と歴史 <Vol.45>
2011年から時空を旅すれば
50年ごとの世界
大濱 徹也(おおはま・てつや)
大濱徹也

大濱徹也

 2011年は、2010年の政権交代が新しい時代の幕開けの予告とはなりませんでした。沖縄の基地撤去をめぐる日米関係の問い質しへの視点は失われ、北方領土をめぐる日露交渉もままならず、「平成の開国」なる言説が空虚に響いています。そんな中、日米、日露、日中関係だけではなく、国家が強く閉塞感にとらわれるなかでの幕開けのようです。
 そこで今回は、新年に際し2011年という年から、50年、100年、150年、200年と時代をさかのぼってどんな世界が展開しているかを読み取る作業をなし、歴史のミューズであるクレイオの相貌をかいま見ることで、歴史の闇や歴史が問いかける非情なる罠を、自分自身の眼で確認する旅をしてみませんか。

ロシアへの怯え―恐露病という世界 (200年、150年前)

 海に広く開かれていた日本は、中華帝国の枠組みに規定されるなかで己の位置をたしかめてきました。しかし18世紀以後の日本は、1873年に工藤平助が『赤蝦夷風説考』で描いたように、ロシア帝国がシベリアへ目をむけ、欧亜にまたがる大帝国への道を歩み始めるのと遭遇し、その力に怯え、恐露病といわれる病にとりつかれていきます。近代日本の外交はロシアとどのように距離をとるかで時に迷走していきます。まさに現在の政権はその迷路に佇んでいるかのようです。
 そこでまず200年前の世界から旅をして行くこととします。

 1811年5月26日千島諸島と満州沿岸測量の命を受けた海将ゴロヴニンは、ディアナ号で薪水・食糧補給のためラショアアイヌのオロキセの案内でクナシリ島トマリ沖に到来、6月4日にトマリ上陸、クナシリ会所で調役奈佐瀬左衛門と会見中に逃走、捕縛されます。7月2日ゴロヴニンら8人が南部藩士に護送されて箱館(現・函館市)に到着します。その後8月25日に福山へ到着します。
 ゴロヴニンは、1813年にロシアに戻ることができますが、幽閉中にロシア語を教え、その間の見聞を『日本幽囚記(にほんゆうしゅうき)』に認めています。そこでは、日本社会の様相や役人の気風などが紹介されており、表情のない婦人を死者の顔とも称しています。この言は、感情を現すことを未熟とみなす儒教の倫理がもたらした世界を、特に女性の厚化粧と口紅が「笹色紅」といわれるものであったことを端的に表現したものです。
 ちなみに1811年の箱館市中と付属村々6場所の戸口は、計2419軒・10622人。松前・江差と、同付属村々が計5263軒・19708人。東蝦夷地クナシリ・エトロフ共が12753人。西蝦夷地カラフト共が11014人、総計7682軒・54097人(「丙辰剰綴」「丙辰雑綴」)の由。
 1861年2月3日、ロシア艦ポサドニックが海軍根拠地設置を目的に対馬に来航し、停泊の許可を対馬藩に求めます(対馬事件)。6月3日、艦長ビリフレは芋崎付近の土地租借など12か条の要請書を対馬藩に提出しますが、藩はこれを拒絶します。7月9日、イギリス公使オールコックと英国東インドシナ艦隊司令長官ホープは、老中安藤信行と会談し、英国の力でロシア艦を退去させる旨を伝えます。同23日、ホープはイギリス艦2隻を率いて対馬に行き、ロシア艦に退去を要求します。同26日にロシア艦オプリニックが来航します。8月15日にはロシア艦ポサドニック、同25日にオプリニチックが対馬を去り、ひとまずことなきを得ました。この間、5月28日には、江戸東禪寺の英国公使館が水戸浪士の襲撃をうけています。
 北方の地では、3月に箱館奉行村垣範がロシア人の北蝦夷地南下で雑居のおそれがあるとして、国境画定が急がれると建議します。8月20日にロシア艦隊司令官リカチョフと領事ゴスケヴィッチは箱館奉行村垣範正と北蝦夷地国境画定を商議し、村垣はその急務を幕府に建言します。10月に幕府は、遣欧使節竹内保徳にカラフト国境を北緯50度として交渉するようにと訓令します。まさにロシアとの関係は、イギリスの軍事力に援護されながら、薄氷を踏むが如き歩みといえましょう。この対馬事件をはじめとする日露関係には、尖閣諸島への領有権を主張する中国への対応をめぐり、右往左往する現政府のうろたえぶりをどこか想起させる世界がうかがえるのではないでしょうか。
 なお、ロシア領事館付き司祭としてニコライが6月2日に来航します。ニコライは、後に戊辰内乱で敗残者となった東北諸藩士の心をとらえ、東北日本にロシアの国教であるハリストス正教を広げます。やがて東京のお茶ノ水に聖堂(ニコライ堂)を建て、全国に布教を展開します。

日本の内と外(100年、50年前)

 1911年2月21日日米新通商航海条約・付属議定書が調印され、念願であった関税自主権を確立します。7月13日、第3回日英同盟協約は米国を対象から除きます。ここには、日露戦争の勝利で世界の大国たる地位を手にした日本が、太平洋の覇権をめぐり、米国と対立していく兆しが読みとれます。
 韓国を併合して朝鮮とした天皇は、10月24日に朝鮮総督府へ教育勅語を下付し、教育を天皇の下におきました。総督府は、翌12年1月19日に謄本を管内学校に頒布する旨の訓令を出して日本の教育を徹底し、朝鮮人を良き臣民とする道に邁進していきます。
 中国では、1911年10月10日に清朝の打倒を目指す辛亥革命が始まりました。12月25日に上海に帰着した孫文が、29日に中華民国臨時大総統に選出されます。ここに中国は新しい歴史の渦に身を投じ、日本はその奔流に抗いながら流されていくこととなります。
 日本国内では、3月29日に初の労働立法である工場法が成立しましたが、資本家の抵抗で1916年9月1日まで施行されませんでした。大日本帝国は、国民に過酷な労働を強いることで、一等国の体面を取り繕いながらアジアの覇者たる道を歩み、アジアの怨嗟に曝されていきます。まさに100年前の1911年は、日露戦争の勝利を背に韓国を併合しました。そして、関税自主権を回復した日本は、名実ともに欧米的帝国として自立した道を走りだした年であっといえましょう。

 50年前の1961年は、所得倍増を掲げた池田内閣の下で、6月12日に農業生産の選択的拡大・生産性の向上・構造改革・流通合理化を掲げた農業基本法が制定されました。そして農村が資本の渦にまきこまれ、旧き農村が大きく変質していく道を歩み始めた年でもあります。こうして現在の農村は、再生への方策も提示されることなく、「平成の開国」なる国際化の波涛に翻弄され、漂流していくのです。
 2011年の年頭に立ち、時空の旅でみえてきた世界は、200年、150年、100年、50年前の世界を輪切りにした時、そこから想起できる世界が現在にみられることに気づかされませんか。
 まさに歴史をどう読み解くかは一人ひとりに問われているのです。