学び!と歴史

学び!と歴史

「北方領土」といわれる世界 2
2010.12.28
学び!と歴史 <Vol.44>
「北方領土」といわれる世界 2
昭和14年の調査報告にみる島々の現況から
大濱 徹也(おおはま・てつや)

 北海道庁は、昭和14年2月に千島調査実施案の作成と開発計画案を審議するために、道庁内に千島調査準備委員会を設置し、4月23日に紗那郡(しゃなぐん)紗那村に北海道庁千島調査所を設置、25日に千島開発委員会を発足させ、28日午前に第1回千島調査準備委員会を、午後に千島開発委員会で3カ年にわたる千島の総合的調査を承認しました。この調査報告書は、「千島調査資料 昭和14年度」としてまとめられています。この調査に従事した学務部社寺兵事課勤務の中村貞吉は、国後島・択捉島・色丹等の現況を次のように指摘し、人心結集が急務であると問いかけています。

 今や時局下諸般産業の資源開発と新天地開拓により生産拡充の要切なる秋に当り南千島は海陸無限に包蔵せる資源を開拓すべき処女地として取残されたるが為目下これが開発を計画されつつあり。而して開発は人によらざるべからず。即ち精神力発揮に最も密接なる神社宗教を盛んならしむるは本島開発の為に最も緊要なりと痛感す。

 住民が「困苦欠乏に耐へ」開発事業に従事するには不退転の精神を以て猛進せねばならず、この「不退転の精神」は宗教によって培養されると説きます。開発は物心両面よりなされてこそ、はじめて可能となることを力説してやみません。調査時の国後島と択捉島は次のような世界でした。

国後島の現況

学び!と歴史vol44_01 島の地勢は細長く、中心となるべき役場所在地は一方に偏しており、唯一の交通機関たる道路は悪く馬を主とし、海路には客船もない。そのためある地方では、死亡者の診断書を得るために屍体を運ばねばならず、数日を費して漸くこれを得る有様で、しかも僧侶がいないまま葬儀を営むこともあるように、何から何まで不完全不充分な暮らしであったそうです。
 そのために開発の為に第一にしなければならないことは、「交通の関係と村治の中心点を変更して村の支配をより敏速にしより完全になさしむるを急務と信ずるものなり、斯くして開発の目的達せられ生産力の拡充は行はるべし、開発は生産力の拡充にのみ重点を置くことは不可なり、宜しく物心両方面より為さざるべからず。」と、国後島の状況を報告しています。島の面積は97方里、人口8,184人。

択捉島の現況

 択捉島は、面積203方里余、国後島の97方里に比べて遥かに大きいが、戸数が812戸余で国後島の1,400余戸より少ない。海岸線が長く、人口が希薄で1方里当り僅かに4戸に過ぎない。しかも人家は海岸にのみ点在しており、まとまった集落を形成することが困難であるため、役場所在地の戸数も100戸内外である。海岸にはいたるところに鮭、鱒などの漁場があり、漁期中には多の漁夫が入るためにいずれも番屋があり、缶詰工場を有する大きな番屋がみられたそうです。
 1875年に戸長役場が置かれた蘂取村は、択捉島の東端で、日本の行政区画の最も東に位置し、択捉島で交通が最も不便で、恵まれない地形です。その地形は、拳のように西南より東北に突出し、西北にオホーツク海、東南に太平洋に臨み、東15浬を隔てて得撫島に対し、西南牛首の所で隣村の沙那村を境界とする面積48方里610。中央に山脈が走り、諸方に山岳があるが、傾斜の緩やかな西海岸に交通が開け、漁場が相接して展開して水産業が発達している。しかし東海岸は、巖壁屹立(がんぺききつりつ)して交通が不便で、波浪の高い太平洋岸のために産業が振るわなかったそうです。
 これらの漁場経営者は函館などに本拠を置く資本家であるため、利潤は他所に流出してしまう。そのため雇用関係は季節雇いで、漁期が終われば皆帰国する。農業は気候の関係で「殆んど絶望的」で、鉱業・植林事業の見込みがなく、放牧業も振るわないという。小学校は蘂取(しべとろ)市街にあるのみで、村医1人で、産婆もいないという極めて不便な地域です。
 紗那村は、択捉島の東西両海岸に跨る二級町村で、島のほぼ中央に位置しており、西南より東北は山岳で囲まれ、散布岳に接し、西北はオホーツク海に臨み、土地の起伏が多く、紗那川が村の中央を流れており、面積62方里2、東西14里南北13里で蘂取村より広い村落です。比較的に人口の多いい集落は、紗那市街652、内岡259、有萌83、別飛403、シヤマンベ52人で、総人口1,448人で1方里当り23,2人。この統計は海岸部の漁場人口を含めたもので、蘂取村と同様に漁業が中心の村ですが、島の統治の中心として官公衙が多い地域です。
 留別村は、択捉島の南部に位置し、東北より西南にわたり、長さ34里、幅が狭い所で4里、面積92,7方里で島の総面積の約2分の1弱を領し、北はオホーツク海、東は太平洋に面し、西は国後水道で国後島と相対しています。戸数450余戸、人口2,600人余。

色丹島の現況

 島の総面積は16,514平方里、25,700余町歩の内114,000町歩が国有林野となっていますが、林帯のない草原で、農耕適地5,000町歩も大部分が国有林野で、この外放牧適地が100町余あるものの、農畜林業等にはみるべきものもなく、水産業のみ盛んであったそうです。
 地勢は、山岳丘陵起伏多く、所々に小平野を形成し、沿岸は到る所厳しくそびえ立つ断崖が多く、海岸線が出入りしているため、船を入れるたる港湾が20あり、人家は海岸にのみ点在しており、総戸数177世帯、人口1,300人余。

 国後・択捉・色丹の島々は、総力戦体制下での資源開発をめざすなかで、眠れる富が注目されました。しかし島民のくらしは、その富が外部資本に奪われるだけで、島民の暮らしに還元されることなき内国植民地としての様相を呈しています。この地で生きた住民は、国策に翻弄されながら、漁業を足場に生活を切り拓き、過酷な状況下で己が暮らしを築いたことがうかがえます。それだけに島を追われた島民の想いは、遠く故郷の島を望見するにつけ、激しく望郷の念を募らせることでしょう。千島調査報告が問い語る世界と併走することで、島民の想いを考えてみたいものです。