学び!と歴史

学び!と歴史

20世紀初頭の東北像
2011.08.11
学び!と歴史 <Vol.49>
20世紀初頭の東北像
― 『将来之東北』が思い描いた世界 ―
大濱 徹也(おおはま・てつや)

時の敗者東北

 『将来之東北』は、第1章「総論」で、まず戊辰の敗北で旧藩以来の諸産業が衰亡したと「明治維新と東北」で論じ、国家が東北を敵対者とみなす「国家と東北」の関係を問い、「東京と東北」で地方産業を取りこむ大阪に対して政治的消費都市にすぎない東京が東北の市場でない現状を告発し、「横浜と東北」で海外市場の活躍する横浜に東北の産物への保護奨励を期待し、さらに北海道、満洲・韓国から北米へと東北の活路を広げるべしと「北海道と東北」「満韓と東北」「北米と東北」で論じます。ここには、東北の産業を育成し、日本から世界へと飛翔していくことで、東北振興の活路を見いだしたいとの思いが読みとれます。しかし、その東北の現状は、戊辰敗残により、「衰退より滅亡」へと歩んでいると、第2章「現在の東北」で厳しく糾弾されます。

東北の現状

 東北は、「気候の寒冷」にもかかわらず、「農は主として暖国地方より輸入せる作物」にたより、中央山脈の分断で「地理の不統一」、地形による「陸上交通の不便」「東北人は海を視て地獄と為」すがために「海上交通の不便」であるがため、「自から蒔き自から刈り、自から織り自から衣る、是れ東北人の生活法」と、「自給自足」がもたらした「東北社会の単純」を説き、その社会を厳しく論難してやみません。
 産業経済の弱さは、「東北に産物あれども商品なし」「東北の商人は輸入商のみ」「東北は行商の蹂躙する所となれり」「東北には通商発達せず」「東北の事物は摸倣的なり」と、慨嘆されます。敗残の意識は、「家屋の構造は西南に倣へり」「衣服の制も西南に倣へり」「履物の制も西南に倣へり」「食物の制も亦西南に倣へり」「東北人は西南に学んで西南に抑制せらる」「神も仏も西南にあらざれば尊ばず」「名所古跡亦西南にあらざれば賞美せず」と、「西南」日本への劣等感が糾弾されています。その暮らしは、「東北人は火を濫用せり」と火事の多さの告発となり、「東北人は薪炭料の為めに半歳を費す」「東北の自然物は一も利用せられず」となし、「東北の貯蓄は消極的にして物品貯蓄なり」と。
 東北人の性格は、旅行で知見を広めることもない様を「東北人の旅行は徒労なり」とされ、己の小天地にこだわるので「東北人は内に争ふて外の争はず」、「勝者」の位置に立つことのない「東北の歴史は徹頭徹尾失敗の歴史」と位置づけ、敗者のために「東北人は内弁慶にして外味噌なり」で、その現実を直視しないがために「東北人自から其生活の困難なるを知らず」、自給自足的社会の下で「東北人は信用の重んずべきを知らず」、人格の観念乏しく「東北人は人格概して低し」とみなされています。かつ「東北の言語は交際語にあらず」となし、大地主の制圧で「東北にては富者貧者を利害を異にす」「東北人は共同の利益を知らず」、ために「東北人は公共の為めに尽せし人を表彰せず」、「屈辱の文字のみを日本史に留むるは、実に東北の一大恨事」とみなし、「東北には東北の歴史なし」との思いが「東北人心の振はざる」一因だと。
 東北振興に取り組んできた思いが強い半谷は、笛吹けど踊らぬ人心をして、この激しい東北と東北人への糾弾をすることで、東北覚醒をはかろうとしたのです。この言は、現在聞くと、東北差別とみなすものもありましょうが、「白川以北一山三文」とうそぶいた岩手県出身の総理、「平民宰相」原敬の心意にも通じるものでした。ちなみに原は、半谷の求めに応じ、「労働者はなまけ放題、資本家は濡手で粟主義,斯る実況で東北の社会が進歩し発達しやう筈はあるまい」、との厳しい「談話」をよせています。

明日の東北への思い

 ここに半谷は、このような東北の現状を打開すべく、「将来の東北」像を思い描きます。その第1は、「東北は東北の特性を発達せざるべからず」と、「天然の差異あるを知らず」に「南方に学び、南人に倣ひ、唯南方を摸倣」してきたが、今日求められるのは「東北は東北の特色は如何の点に存するかを研究してその特色を発揮する」「東北は東北自然の大法に則りて進歩発達する所以の道を講せざるべからず」と、「東北自身を研究調査し、其の天然の特色を発揮し特性を発揚」し、「国家富強の主要部分」となる方策を問います。その提言は、稲藁の活用、酒造米となりうる米質をさらに改良し、良酒のみならず、菓子となすなどの工業原料への道を講じ、養蚕の拡張、造林業、牧畜業、果樹栽培、鉱業などの振興を力説しております。その営みは、米作、牧畜、果樹などにみられるように、現在も東北の主要な産業となっています。
 かつ水力、雪、寒気の利用に言及し、東北の自然環境の活用に言及します。空気の乾燥と夏期の清涼は、衛生的にもすぐれており、温泉施設とあわせれば、最適のリゾート地になりうる。しかも山野海岸に自生する「野生植物」は、東北人の自給自足をささえてきたが、これを活用すれば新しい産業を可能とすると力説しております。
 ここに半谷は、「東北の衰頽を回挽界して新生面を開かんと欲せば須らく先ず東北の短所長所は何れの点にあるかを明らかし更に進んで其の本領如何を解釈する」、東北研究のための「東北会」の組織を提言します。この「東北会」は、「東北人自からの任ずべき」もので、東北出身の「思想家経験家等を網羅」したもので組織されねばなりません。この思いは、東北人の手で、東北振興をとの強き志を吐露したものです。
 しかし、このような「東北会」への思いは、1913(大正2)年7月の原敬日記をみれば、渋沢栄一・益田孝・岩崎久弥らの財界人による東北振興会へと変質していきます。東北振興会は、会員を実業家に限定し、産業振興と福利増進を目的となし、まず東京で計画を立て、それから地方の賛同をえるというものでした。それは、東北人による東北振興策を説いた半谷の主張とは異なるものですが、「後進地」東北の振興なくして、国力の充実はありえないとみなす東京の大ブルジョアジーの危機感の表明にほかなりません。
 19世紀初頭の東北論は、現在読みなおしたとき、何を問いかけているでしょうか。いまだ復旧すらままならず、復興への道程すらも提示できない状況下、半谷の厳しい東北論を見つめ直し、新生東北論を提起したいものです。そこでは、東北の声から明日の東北像を提起すべく、東北を場とする歴史の読みなおしが求められましょう。そのためには、国家の目ではなく、東北という大地から明日を思い描く精神の活力たりうるものを己の内なる世界に見い出せるか否かが問われているのではないでしょうか。


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『将来之東北』復刻版
半谷清寿 著
1977年 モノグラフ社 刊
(1906年9月7日 初刊)

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『講談日本通史』
大濱徹也 著
2005年 同成社 刊