学び!と歴史

学び!と歴史

「西郷どん」とは何者か 4 ―西郷隆盛に向ける明治天皇の眼―
2018.07.27
学び!と歴史 <Vol.125>
「西郷どん」とは何者か 4 ―西郷隆盛に向ける明治天皇の眼―
大濱 徹也(おおはま・てつや)

承前

 西郷軍団を率いた西郷隆盛の決起は、戦火に逃げ惑う民に怨嗟の声があがる一方で、「政府問責」の声に国家覚醒の夢を託し、西郷の一挙手一投足に明日の日本への想いを馳せた人々もいました。西郷隆盛という存在は、時代の闇に谺する声に呼応することで、世に潜む怨恨を問い質す器ともなりえた。明治天皇にとり西郷隆盛とは何であったのでしょうか。

反乱の秋

肥後熊本暴徒記<国立国会図書館ウェブサイトから転載>

 薩長を主体とした新政府は、旧武士の諸特権を否定することで、文明国家の体面をととのえていきます。征韓論で分裂した政府は、大久保利通・木戸孝允が中心となり、1874年(明治7年)2月に征韓論に敗れて下野した江藤新平らの佐賀の乱を制圧、首謀者を斬首し、叛乱勢力へのみせしめとしました。一方で政府は、国内に充満している反政府の気分に対処すべく、4月の台湾出兵で不平士族のガス抜きを図るとともに、土佐で立志社を創立した板垣退助らの政府批判の言論には75年に讒謗律・新聞紙条例を制定して取締りを強化します。
 このような強権的な政府への叛乱は1876年10月24日神風連の乱(熊本)、27日秋月の乱(福岡)、28日萩の乱(山口)、29日には萩の乱に東京で呼応しようとした永岡久茂らの旧会津藩士による思案橋(※1)事件等々が相次ぎますが、分散挙兵に終わり、個別に制圧されました。政府は、不穏な鹿児島の西郷隆盛の動向を見守るなかで、77年1月に地租改正に反発する伊勢暴動などの農民一揆に対処すべく地租軽減・歳出節減の詔を出して農民を慰撫しております。
 西郷隆盛は、このような状況下、77年1月30日に挙兵。福岡県士族越智彦四郎 武部小四郎らは西郷挙兵に呼応すべく準備をします。福岡挙兵の檄文は、西郷の声に応じたもので、己の場を宣言しています。

夫れ政府の責任たるや、国民の幸福を保全するに在り。然り而して我日本政府は、二、三の権臣要路に当り、上 天皇陛下の聰明を欺罔し、下人民の疾苦を顧みず、言路を壅蔽し、愛憎を以て黜陟し、苛税重斂、至らざる所なく、唯、一朝の利害に眩惑し、万世不抜の大道を忘却し、天理に逆ひ、人道に戻る。実に売国の賊と云はずして何ぞや。我等拙愚を顧みず、大に信義を天下に明にし、国家之蠧害を除却し、同胞三千余万之康寧を祈らんとす。故に此の檄文を有志之各位に伝ふ。冀くは人民之義務、国家之衰頽を座視するに忍びざる微衷の在る所を了察あらんこと

 その軍律は、「猥に人を殺害するもの」「民家に放火するもの」「人民の婦女を姦淫するもの」「窃盗するもの」「私に逃走するもの」と厳禁し、民衆に寄り添うものでした。しかし福岡党は、西郷軍団と連携もできずに、政府軍に察知され、挙兵虚しく敗走。

明治天皇の動き

 26歳の天皇は、1月24日に大和・京都行幸に出発、西郷の挙兵を聞くなか、2月11日に神武天皇陵を参拝。政府は、すでに1月19日に西南の異変に対し、「暴徒征討の令」で西郷隆盛を「賊徒の首魁」となし、征討総督に有栖川熾仁親王を任じ、叛乱に対処していました。この間、明治天皇は、西郷の想いに心致しているかのごとく、心を閉ざしていたようです。『明治天皇紀』は、城山が落ち、西郷の死で叛乱が終結した日、天皇の脳裏に去来した悲愁を次のように描いています。

官軍城山を攻めて遂に之れを抜く、是に於て兵乱始めて鎮定す、(略)征討総督熾仁親王鹿児島賊徒の平定を電送す、乃ち翌二十五日之れを天下に布告せしめ、出征旅団をして、各々其の守備を要地に置き、順次凱旋せしむべき旨を征討総督に命じたまふ、(略)
戦死者及び負傷後死せる者合はせて六千九百四十余人に及び、征討費の総額四千百五十六萬七千七百二十六円余に達す、乱平ぐの後一日、天皇、「西郷隆盛」と云ふ勅題を皇后に賜ひ、隆盛今次の過罪を論じて既往の勲功を棄つることなかれと仰せらる、皇后乃ち、
  薩摩潟しつみし波の浅からぬはしめの違ひ末のあはれさ
と詠じて上りたまふ、皇后又嘗て侍講元田永孚に語りたまはく、近時聖上侍臣を親愛したまひ、毎夜召して御談話あり、大臣・将校を接遇したまふこと亦厚し、隆盛以下の徒をして早く此の状を知らしめば、叛乱或は起らざるしならんと(明治10年9月24日)

西郷に寄せる想い

 天皇は、「西郷隆盛」との勅題にみられるように、西郷隆盛への強い共鳴盤がありました。この思いこそは、「政府問責」を掲げる士族の叛乱、その首魁となった西郷隆盛の動向、その心の動きに寄り添わせたのです。しかし「賊徒」とされた者を「許す」わけにもいかず、皇后に勅題を出すことで、己の心を詠ませたのではないでしょうか。それほどに西郷追悼への想いは強かったのです。皇后美子(はるこ)の歌「薩摩潟しつみし波の浅からぬはしめの違ひ末のあはれさ」は天皇の心を詠んだものといえましょう。
 乱後の天皇は、皇后が元田永孚に「侍臣を親愛したまひ、毎夜召して御談話あり、大臣・将校を接遇したまふこと亦厚し」と語っているように、臣下の者を側近くに召して談笑の時をもったそうです。天皇は、西郷ともこのような場を設け、心を開いて語っていれば、あのような乱にならなかったのではないかとの悔みがあったのだといえましょう。それほどに明治天皇と西郷隆盛の間には計り知れない心の絆があったのではないでしょうか。なお、西南戦争後に天皇が第二の西郷にしてはいけないと気にしていたのは谷干城です。

 

※1:思案橋は中央区日本橋小網町、現在橋はない。

 

参考文献

  • 石瀧豊美「百四十周年・西南戦争と福岡の変」熊本地震被災神社復興支援講演会レジュメ