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ICT・EducationNo.35 > p26〜p28

情報化教員の卵を育てる
「情報科教育法」の教育内容構成に関する試論
─稚内北星学園大学情報メディア学部における実践から─
稚内北星学園大学情報メディア学部 高橋 哲男
1.はじめに
 稚内北星学園大学は,2000年に開学した情報メディア学部情報メディア学科のみを有する大学である。教職課程があり,中学校教諭一種免許状(数学),高等学校教諭一種免許状(数学),高等学校教諭一種免許状(情報)の同時取得が可能である。筆者は2002年度から2006年度まで「情報科教育法」を担当してきた※注1。小論では,その実践の一端を紹介しつつ「情報科教育法」(及び教科「情報」)の教育内容構成について論じる。
 筆者は「教育実践の様式と技術を原理的に探究する」※注2教育方法学を専門としている。「教師が駆使する教育の方法や技術が,授業において有効に働くかぎり,それらは何らかの法則性に立脚している」※注3との仮説から,特に数学の教育内容を構成することを通じて「何らかの法則性」に迫りたいと考えてきた。ただし,数学教育研究で見いだされる法則性と授業一般の法則性との関係をどう捉えるかについては,両者が人間の認識形成論を基盤としてやはり「何らかの法則性」で結ばれるであろうと述べることしかできない。
 このような筆者が情報教育について語ろうとすれば,数学教育研究の手法を外挿しながら進むよりない。その過程で「何らかの法則性」が見いだされるかもしれないし,教育方法学研究の一環としての数学教育研究の一部が否定され,その発展の契機が見つかるかもしれないと考えている。
2.「情報科教育法」教育の立脚点
(1)情報教育目的論

 「情報科教育法」の内容をどう構成すべきかは,その科目の目的とともに論じなければならない。本科目が情報科教員免許取得の必修科目である以上,その目的は「情報科教員の卵」をどのような情報科教員に育てるかという理念に規定される。そしてその理念は,情報科教員に教えられる生徒をどのような人間に育てたいかという問いを拠り所として立てられる。
 この問いは結局のところ何故教育が必要かという根源的な問いに行き着く。教育は,ロマンティックに言えば,人類の幸福のために必要である。人々が人間として幸福に暮らせるようにすること,またその条件となる自由,平等,平和などを守れるようにすること,その結果人類という集団の生命を連続させることが,教育の目的である※注4。一教科としての情報科教育の目的は,教育全体の目的を一段階具体的に語るものでなければならない。
 「情報」は後期中等教育段階において,一教科であると同時に教科横断・統合的な役割を果たすことが期待されている※注5。すべての高校生に対して,情報を通した世界観形成の一端を担うとともに,人類全体の将来的課題に対する実践的追究の枠組みを与えることが,高等学校教科「情報」のアルファにしてオメガな目的であろう。

(2)情報教育内容構成論−学問としての「情報」と教科としての「情報」の統一−

 筆者にとっての数学教育研究の出発点ともいえる命題は,遠山啓の「数学教育は数学を教える教科である」というものである。遠山は「教科としての数学を,科学としての数学から切りはなしたとしたら,数学教育が数千年間に蓄積された数学の巨大な財産から学びとる道は閉ざされてしま」うと述べて,学問と教育の分離する状況を厳しく批判している※注6
 情報教育においても学問としての「情報」と教科としての「情報」を分離すべきではない。「教育内容の知識は,特定の学問領域(ディシプリン)の構造を背景としており,その構造を基盤とした何らかの教科領域の設定を必要としている」※注7のである。教師は,学問としての「情報」を,「すべての生徒に理解可能な順序(=認識過程の法則性)」という原理によって,教科としての「情報」に再構成しなければならない※注8
 もっとも,学問としての「情報」がどの様な体系をなすのか筆者にはわからない。しかし,本学情報メディア学部の学生たちは,多くの専門科目を学び様々な角度から学問としての「情報」に迫っている。確かに,諸科目個々の構造も,それらの総体としての情報メディア学も未だ建設途上である。それでも,専門教育を担う研究者たちが,情報メディア学のいかなる対象にいかなる分析枠をもって取り組もうとしているかを示すことは,学生が「情報」の内容をどう構成すべきかの最高の手本として機能するだろう※注9。「情報科教育法」担当の筆者が学生に伝えるべきことは,「専門科目を大いに学べ」の一点で十分なのかもしれない。
 教科に関する科目群と別に「教育法」が存在すること自体,学問と教科の乖離の発露として検討すべきであろう。そのような思いを抱きつつも,以下に本科目の内容の一端を紹介する。
3.「情報科教育法」の教育内容論
(1)「情報」新設の経緯−各種議論を追う−

 教科「情報」の目的や教育内容の全体像について,前期のほぼ半分をかけて学ばせている。まず「なぜ「情報」が教科として新設されたか」を考えさせる。「情報化社会だから」という薄っぺらな答しか返ってこないところへ,「では情報化社会とは何か」と切り返す。議論は概ね「どんな仕事でもコンピュータを使う社会」のように収束し,学生たちが「情報」新設の理由を職業教育の側面から,しかもコンピュータの操作を教えるという非常に狭い側面からしか捉えていないことがわかる。
 そうではないのだ,と認識させるのは骨が折れる。学生たちにとって,コンピュータの操作を教える以外の「情報」の授業はなかなか思いつかないのだろう。そこで,教科「情報」の新設に至る様々な議論※注10を徹底的に読ませる。教科「情報」の三つのキーワードである「情報活用の実践力」「情報の科学的な理解」「情報社会に参画する態度」にも触れることになる。学生には毎週のように各種答申・報告の要約レポートを課し,添削して返却する。授業では筆者が論点を整理しながら,学生による討論を行う。そして最後に,学習指導要領に記された「目標」を読み,学生は,事前のイメージとの違いを痛感することになる。

(2)「情報」の全体像−学習指導要領を読む−

 教科新設に至る背景を学んだ後,学習指導要領を読みながら「情報」の全体像を整理する。普通教育に関する科目と専門教育に関する科目に分かれていることは多くの学生にとって驚きである。それぞれの目標の差違を分析させる。内容に関しては,専門教育に関する科目としての「情報」の方が,本学のカリキュラムと対応させながらイメージすることが容易である。
 普通教育に関する科目としての「情報」については,「情報A」「情報B」「情報C」の関係を扱う。「相互の違いを述べよ」とレポートを課す。学生の理解は「A→B→Cの順に学ぶ」,「Aは基礎,B,Cは応用」,あるいは先のキーワードとの対応で「A=実践,B=理解,C=態度」などが大半である。しかし,必修は1科目であることや指導順序の制約がないことを紹介して,むしろA,B,Cの対等性や共通部分に気づかせたい。「どの科目においても「情報活用の実践力」「情報の科学的な理解」「情報社会に参画する態度」を育成できるように構成しているのだが,その重視するポイントが異なる」※注11とまとめる※注12
 必修1科目,標準単位数が各2であることは重要である。その少なさに加えて小規模校が多いという地理的条件は,北海道で「情報」の教員採用試験が行われていない現実を説明する。筆者と学生たちはこのやりきれない思いを,「複数免許を取得できる強みを生かしてまず数学教師として教壇に立つ」,「稚内北星の卒業生として素晴らしい数学・情報教育実践を創造・発信する」という決意のエネルギーに変換している。

(3)指導計画と単元−教育内容の創造的性格−

 週2時間,35週で70時間という一応の目安を確認してから,年間の指導計画を立てさせる。「情報」担当者が学校に1名で,新任にして教科責任者の可能性もあると想像させると,現実感が出て真剣味が増す。科目A,B,Cの区別は特に考えない。これは学習指導要領を無視せよということではない。70時間の内容を自由にデザインさせることで,A,B,Cの各教科書を見比べて内容の比較や取捨選択を行う練習をするのがねらいである。
 年間指導計画の作成にあたっては,おおまかにいくつかの単元を考えるよう指導している。単元は「子どもや生徒に知識や技術を教える際のひとまとまり」であるが,「このまとめ方は,教育観,カリキュラムの組み方によっていろいろな姿をとる」※注13。事典的には単元は教科単元と経験単元に分けられ,「算数・数学や理科のように指導内容の体系が重要な教科では教科単元が,生活科や家庭科などのように実際生活との関連が重要な教科では経験単元が支持されやすい」※注14という。しかし筆者は,指導内容の体系や実際生活との関連はどの教科でも重要であり,教科単元と経験単元を統一したところにこそ,教科で扱うべき豊富な教育内容をもつ単元があると考える。
 「教育法」と名のつく科目であるから,学生は文字通り単純な教育法を知りたがる。しかし,教育法は「「何のために,何を,どのように」教えるかという「目的−内容−手段」の関係について常に新しい関係を樹立する創造的性格にある」※注15のであり,免許状を与えられ専門性を認められた教師はその主要な担い手なのである。これはすべての教科に共通することだが,新設「情報」では特に強調しておくべきだろう。

(4)模擬授業の不実施−授業は机上で決まる−

 「情報」の目標と内容を見定めつつ各単元の目標と内容を構想し,最終的に各1時間の授業を具体化する。このプロセスを実践的に学ぶ目的で学生に模擬授業をさせるのが,「情報科教育法」の最終課題となるケースが多いと思われる。しかし筆者はこれまで,1時間の授業の詳細な指導計画を立てさせることはあっても,模擬授業はほとんどさせてこなかった。模擬授業では,教師役はもちろん生徒役も学生が務めることになろう。そこでは高校生に教えることを想定した内容が展開されるが,情報メディア学を専門に学んでいる学生たちにとっては,既知の内容ばかりである。生徒役の学生たちはいわゆる「優等生」的な振る舞いしかできず,授業は往々にして淡々と進んでしまう。模擬授業の「情報科教育法」における教育効果がそれほど期待できない状況にある。
 教師役の学生は,ある発問に対する生徒たちの反応をあれこれ予測しなければならないが,そこが困難で,模擬授業は計画段階から破綻している場合が少なくない。まして生徒役の学生はそんな準備をしていない。「今日の内容をまだ習っていない高校生のつもりになる」ことがある程度できる学生ならば,論理に裏付けられた授業計画を立案して良い教師役となり,また「良い」生徒役を演じるだろう。模擬授業は,そのような学生集団の中でなければ得るものが小さい。
4.おわりに
 情報科教員の卵たちと高校生たちには,「情報」の授業を通して,人間は何かを表現することを通して他者とコミュニケーションすることを欲する,社会的な存在であることを理解してほしい。
 インターネット爆発の起動力がWWWであったことは衆目の一致するところだろうが,思い返せばごく初期の個人によるWebページのほとんどは,自己紹介ではなかったか。発信者が特定の読み手を想定していたかどうかの意図と無関係に,その情報は不特定・多数の読み手にも届く。そうして,現実には出会うことのないかもしれない人々の間に,コミュニケーションが起こった。筆者はこの十数年を振り返って,インターネット上の技術が情報の共有を容易にし,情報の共有が人々の新しいネットワークを生み出してきたことを再認識する。ただし,人々のネットワークの源泉としての情報は,必ずしもWebページのようなデジタルコンテンツである必要はない,という認識がより重要ではないかと気づきもした。
 現代における情報発信の技術や理論およびその社会的意義を教えることを通して,コンピュータやインターネットのできるずっと以前からあったメディアとしての言語,コミュニケーション,そして社会や人間のあり方そのものを見直すことこそが,教科「情報」の目的ではないだろうか。コミュニケーションに必要なものとしての情報発信,そのための多様な手段の習得並びに表現の自由の尊重の重要性を意識し,平等で平和な社会を築こうと実践的に取り組める生徒たちを育てたい。それが筆者の切実なる願いであるから,引き続き単元の教育内容構成を中心課題に据えながら,「情報」の教員養成に今後も関わってゆきたい。
注1:本科目は通年4単位である。2004年度は配当学年変更の移行期で開講しなかった。また,2005-2006年度は一部を本学高谷邦彦准教授に分担していただいた。

注2:佐藤学『教育方法学』岩波書店,1996年,1頁。

注3:柴田義松「現代教育方法学の対象と課題」(日本教育方法学会編『現代教育方法事典』図書文化社,2004年)21頁。

注4:デューイは,「一方には,集団の新たに生まれた成員−その集団の未来の後継者は彼ら以外にはない−の未成熟と,その集団の知識や慣習を身につけている成人の成員の成熟との間には,著しい対照があり,「教育が,ただ教育だけがそのギャップを埋めるのである」と述べている。デューイにとって教育は,「生命の社会的連続の手段」である(J.デューイ『民主主義と教育(上)』岩波書店,1975年,13-14頁参照)。

注5:「調査研究協力者会議」の「体系的な情報教育の実施に向けて」には,「情報の側面から見た世界観は,さらに,人間の価値意識等についての研究へと発展し,自然現象から社会現象までを包含した体系化を期待させる」とある。

注6:遠山啓「数学教育の基礎」(『遠山啓著作集 数学教育論シリーズ1 数学教育の展望』太郎次郎社,1980年)124-125頁参照。

注7:佐藤学『教育方法学』岩波書店,1996年,110頁。

注8:高村泰雄編著『物理教授法の研究−授業書方式による学習指導法の改善−』北海道大学図書刊行会,1987頁,12頁参照。

注9:例えば,地域の情報を発信する映像や冊子の作成に取り組む科目やゼミがある。学生はこれらの内容を再構成して高校「情報」に取り込んでいけるだろう。高校生にとってそのような授業は,楽しく,意義ある魅力的なものになるだろう。

注10:中央教育審議会答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」,「調査研究協力者会議」の「体系的な情報教育の実施に向けて」,教育課程審議会の「教育課程の基準の改善の基本方針について」など。

注11:川村一樹・斐品正照『教職課程テキスト 情報科教育法』彰国社,2003年,67頁。

注12:「違いを述べよ」という課題だったはずだと不満を漏らす学生もいる。しかし,違いはある同一性のなかでこそ意味があり,筆者はこの認識自体も情報教育における重要な内容であると捉える。課題が実は,「違わない点についても述べよ」ということを含意するのだと伝えている。

注13:鈴木秀一「単元」(『現代教育学事典』労働旬報社,1988年)530頁。

注14:庄司他人男「単元論」(日本教育方法学会編『現代教育方法事典』図書文化社,2004年)200頁。

注15:柴田義松「現代教育方法学の対象と課題」(日本教育方法学会編『現代教育方法事典』図書文化社,2004年)22頁。
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